202 始まりがいつかも分かりません!
【6章1節】
リーシェにとっては七回目の『十六歳』を迎えた、誕生日の翌日のこと。
自室の長椅子に腰掛けたリーシェは、船の入港予定表を手にしたまま、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
婚姻の儀は間近に迫り、今日もやることが山積みだ。
にもかかわらず、どうにも集中することが出来ない。ぼうっと座っているリーシェの心は、自覚したばかりの感情でいっぱいになっていた。
(……私は、アルノルト殿下のことが好き……)
そのことを繰り返し思い出す度に、気恥ずかしさと落ち着かない動揺が湧き上がってくる。
心配した侍女たちが、朝から何度も様子を見に来てくれていた。けれども曖昧に答えるしかなくて、そのことがとても申し訳ない。
(殿下のことを考えると胸が苦しいのは、気の所為なんかじゃなかったのね)
そんな風に改めて振り返ると、いくつかの出来事に思い当たるのだ。
(先日、皇帝陛下に見付かったのを誤魔化すために、アルノルト殿下が私の髪にキスをして下さった。どきどきしたけれど安心できたのは、殿下のことをお慕いしていたからなんだわ……)
あのときのことを思い出すだけで、顔から火が出るほどに熱い。リーシェはぎゅむっと両頬を手で押さえ、考え込む。
(ヴィンリースの街で、アルノルト殿下と夫婦喧嘩をして寂しかったのも、あのときにはもう恋をしていたから?)
そもそもが、『夫婦喧嘩』になるほどアルノルトの発言が引っ掛かってしまったのだって、同じ理由だったのかもしれない。
(それなら大神殿で、私のお膝を枕にしてお休みになる殿下を見て、なんだか苦しくなったのも? せっかく贈って下さった指輪を『嵌めなくてもいい』と仰られて、そのことがすごく悲しかったのも)
いいや、それだけではない。
(礼拝堂で、アルノルト殿下に初めて口付けをされたとき――……)
驚いたけれど、嫌ではなかった。
嫌悪感などはまったく無く、ただただその理由を知りたかっただけだ。
あの出来事があったのは、この人生でアルノルトに出会ってから三週間ほどしか経っていない時期である。
「う……」
誕生日に、何度も交わした口付けのことを思い出す。
(……どこまで記憶を遡ってみても、アルノルト殿下のことを好きじゃなかった瞬間のことが、思い出せないわ……)
いつから彼に恋をしていたのか、リーシェにはさっぱり見当もつかなかった。
(もしかして、一目惚れだったのは私の方? ……さすがにそんなはずは無い、のだけれど……!)
気恥ずかしさで居た堪れなくなるものの、同じくらいに心の中がふわふわする。
(駄目、しっかりしないと! 昨日も今朝も、アルノルト殿下と少しお話しするだけで緊張しすぎてしまったもの。婚礼の儀の準備もあるし、それに)
俯いたリーシェの脳裏によぎったのは、あの日のアルノルトの声だ。
『俺の妻になる覚悟など、しなくていい』
「…………」
その言葉に、ずきりと胸の奥が痛んだ。
(アルノルト殿下の戦争を、止めなくては)
そんな想いを、改めて心の中に抱く。
(もちろん、ただ止めるだけでは駄目だわ。未来の『皇帝アルノルト・ハイン』が、戦争という手段を使ってでも成そうとしていたこと。それをちゃんと知って、向き合わないと)
リーシェが恋をしたアルノルトと、残虐な皇帝として振る舞う未来のアルノルトとは、地続きの同じ人間だ。
どれほど違って見えていても、世界中を侵略した冷酷な『皇帝』は、いまのアルノルトが持つ性質を持ち合わせているはずである。
(思考の仕方も、合理性も。……アルノルト殿下の、確かなやさしさも……)
リーシェはゆっくりと目を瞑り、手にしていた書類をぎゅっと握り込む。
(あの方をお慕いしているからこそ、絶対にあの未来を回避する)
自分に言い聞かせるようにそう誓って、目を開いた。
(恐らく鍵を握るのは、アルノルト殿下のお父君である現皇帝陛下ね。迂闊には近付けないし、先日のことを思い出すだけで緊張するけれど)
そのとき、部屋の扉がノックされた。
「リーシェさま、失礼いたします」
「エルゼ。どうぞ」
入室してきたエルゼに対し、リーシェは申し訳ない気持ちで告げる。
「さっきはごめんね。ぼんやりしていた所為で、みんなに何度話しかけられても気付けなくて」
「いいえリーシェさま。もうお元気になられましたか? エルゼは心配だったので、よかったです」
ほっとしたように告げられて、ますます罪悪感が湧いた。
決して体調不良ではないのだが、エルゼたちに恋心を打ち明ける勇気はまだ出ない。
(本当にごめんなさい。みんなには、もう少しだけ内緒にさせてね……)
内心でそんなことを考えていると、エルゼがリーシェに一通の封筒を差し出してきた。
「こちらのお手紙が、リーシェさまに」
「ありがとう」
受け取って中身を開き、内容を確かめる。謝罪から始まるその手紙は、実のところリーシェの待ち侘びていたものだ。
「リーシェさま。これは?」
「……」
リーシェは立ち上がり、エルゼに告げた。
「エルゼ、荷造りをしてくれる? きっとまた、数日ほど泊まり掛けのお出掛けになると思うわ」
「わ、わかりました。でもリーシェさま、婚姻の儀は二週間後です。とってもお忙しいのでは?」
「ええ。だけどこの外出は、婚姻の儀のために必要なことなの」
「?」
エルゼが首を傾げる中、リーシェは内心で考える。
(このくらいの遅れで問題ないわ。むしろ私は、『この時期に、この状況へ陥るように』計算して、わざと遅れが出るように動いていたのだもの。問題は、予定通り作戦に移行するために、あのお方と話さなくてはいけないことだけれど……)
それでもリーシェは覚悟を決めた。
訪ねに行くのは、恋を自覚したばかりの相手の元だ。
***
「――婚礼衣装?」
「は、はい、アルノルト殿下……」
執務机越しのアルノルトを前に、今日もかちこちに緊張したリーシェは、ドレスの裾をぎゅっと握り締めながらこうねだった。
 




