201 雨と降る口付け
【プロローグ】
「ん……っ」
歌劇場の屋上で、アルノルトと数秒ほど交わしていたはずのその口付けは、どうしてかほんの一瞬に感じられた。
重ねられていたアルノルトのくちびるが、リーシェのくちびるからゆっくりと離れる。
リーシェにはそれがどうしても名残惜しくて、思わず火照った吐息を零した。
「……殿下……」
「……」
小さく彼のことを呼ぶ。
アルノルトはそれに言葉で答える代わり、お互いの指を絡め直すように繋いでくれた。
離さずにいてくれるかのような触れ方で、ほんの少しだけ泣きそうな気持ちになる。
(アルノルト殿下のことが、好き)
たったいま自覚した感情の正体を、リーシェは改めて確信した。
(きっと。私はずっと、自分でも分からないくらい当たり前に、このお方に恋をして――)
その直後、息を呑む。
「!?」
アルノルトにおとがいを捕らえられて、再びくちびるが重なったからだ。
「んん……っ!!」
「――――……」
その口付けは、ちゅっと音を立ててすぐに離れた。
けれどもその後、啄むような次のキスが落とされる。
繰り返されるキスに、リーシェは目を丸くした。
「ひゃ、む」
悲鳴を上げそうになったため、それをあやすように塞がれる。
触れるだけの口付けは、これも短い間しか交わされない。
しかしアルノルトは、リーシェに覆い被さるようにして何度も角度を変え、幾多の口付けを繰り返してくる。
ちゅっ、ちゅ……と、可愛い音が幾度も響く。
しかし、たくさんの口付けを受け取ることになったリーシェにとっては、何がなんだか分からなかった。
ただでさえ恋心を自覚して、心臓が壊れそうなくらいに鼓動を打っている。
心音が聞こえてしまうのが怖くて押し退けたいのに、アルノルトはそれを許さなかった。
「……っ」
リーシェが混乱していることくらい、アルノルトは分かっているはずだ。
それなのに口付けを止めてくれる気配がなくて、上手く出来ていない呼吸が限界になってくる。
ずうっと上を向かされているから、喉を反らす姿勢なのも原因だろう。
「ん、ん」
ぺしぺしとアルノルトの胸を叩く。だが彼はびくともせず、触れるだけの口付けを重ねるばかりだった。
恋心を自覚した直後なのに、この仕打ちはあまりにもひどい。
(このままじゃ、どきどきしすぎて死んじゃう……!)
そう思い、リーシェはなんとか行動を試みる。
アルノルトの服をぎゅっと握り込みつつ、口付けが離れた僅かな瞬間に、なんとか目を開けてアルノルトを見上げた。
しかし、それをすぐ後悔することになる。
間近に視線が重なった青の瞳は、鋭い光を帯びていたからだ。
それがあまりにも美しかったので、リーシェは結局泣きそうになってしまった。
けれど、ほとんど涙目の上目遣いで、言外に訴えた甲斐はあったらしい。アルノルトはようやく腕の力を抜き、捕まえていたリーシェを解放する。
その離れ際、額にキスを落とされた。
「で、殿下……」
ぐずぐずになったリーシェは、一体どうしてこんなにキスをしてくれるのだろうかとアルノルトを見上げる。その結果、息を呑んだ。
アルノルトの今度のまなざしは、リーシェを見守るかのようにやさしかったのだ。
「これでもう、覚えたか?」
「え……」
リーシェのくちびるを、アルノルトが親指で、ふにっと押す。
「先ほど、後でいくらでもしてやると約束した」
「!」
告げられて、リーシェはようやく思い出した。
『婚儀のためのやり方を覚えたいから、もっとキスをしてほしい』と望んだリーシェに対して、アルノルトは確かにそう答えたのだ。
たったいま、雨のように降らされたたくさんの口付けは、リーシェの願いを叶えるためだったのだろう。
「~~~~っ!!」
自分が望んだことのとんでもなさに、リーシェの頬はますます熱くなった。
「お、覚え、覚えました!」
「……ふ」
慌ててぶんぶんと頷くと、アルノルトは息を吐くように笑う。
そして、リーシェの髪を撫でた。
「ならいい」
「っ」
その言い方が柔らかくて、胸が苦しい。
アルノルトは、続いてリーシェの頬に手を添えると、穏やかな声音でこう言った。
「今日がお前の生まれた日であろうとも、そうでなくとも。――俺は俺の叶え得る限り、お前の望みを果たすということを忘れるな」
「……!」
渡されたのは、紛れもない祝賀の言葉だった。
(私はずっと、自分の誕生日が苦手だったわ。だけど)
いまは、こんなにも嬉しい。
「ありがとうございます、アルノルト殿下……」
「……ん」
アルノルトはリーシェから手を離すと、屋上の椅子に座り直させてこう告げる。
「帰りの馬車を手配させる。ここで待っていろ」
リーシェがこくりと頷いたのを見守ってから、アルノルトが階下に向かう。
その背中が見えなくなったころ、リーシェはへたりと力が抜けてしまった。
(アルノルト殿下と、あんなにたくさんの口付けを)
触れられたところが全部、熱を帯びたように火照って温かい。
名前を呼ばれたことも、口付けを重ねたことも心に留めておきたいのに、先ほどのことを思い出すだけで胸が苦しかった。
『――リーシェ』
「どうしよう」
真っ赤に染まった自分の頬を両手で押さえ、リーシェは困り果てる。
「……本当は、キスの仕方なんて、全然覚えられていないのに……」
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