婚約期間における、アルノルトの呼び方を検討するお話
※ファンレターのお返事の代わりにお送りしていたSSとなります。
※時系列は、本編4章の直後、5章開始前です。
「なあ。あんたって婚約者サマのこと、ずっと『殿下』つきで呼んでんの?」
その日、ヴィンリース城の中庭で鉢合わせたラウルに尋ねられ、リーシェはきょとんと瞬きをした。
「ラウル、それはどういう……?」
「だってあんた、あいつの奥さんになるんだろ? いまは婚約期間で、もうすぐ婚姻の儀を控えている身なわけで」
「う……」
周知の事実を述べられているだけなのだが、改めて言われると気恥ずかしい。
カーティスの姿を取ったラウルは、ひょいと肩を竦めながら、もっともらしくこう続ける。
「それなりに親しい婚約者なら、アルノルト殿下なんて呼び続けるのは野暮ってもんだろ。ふたりっきりのときは、たとえば『アルノルトさま』とか、そういう呼び方の方が普通なんじゃない?」
「…………あるのるとさま……」
「――なるほどね」
ラウルはにやにやと笑いながら、さらにリーシェを揶揄ってくる。
「この国なら、正式に夫婦になった場合、身分ある夫のことは『旦那さま』って呼ぶんだろ?」
「……私的な場では、そうなる、はず……」
「『殿下』から急に『旦那さま』ってのも、いきなりで落差が激し過ぎねえ? 結婚式まであと一か月ちょっとなんだし。それまでの婚約期間くらい、『殿下』より親しみを込めた呼び方をするべきだと思うけど」
リーシェはぐぬぬと眉根を寄せた。
(私の中では『アルノルト殿下』も、かなり親しみがこもっている呼び方なのだけれど……)
過去の人生では、『アルノルト・ハイン』とフルネームを呼び捨てにしていたのだ。それについては、狩人人生のラウルも同様だったのだが、そんなことはもちろん口に出さない。
その代わりに、ラウルに尋ねてみる。
「……ガルクハインには、婚約期間特有の呼び方があるの?」
「うーん、そういう話を聞いたこともあるような?」
胡散臭い笑顔だが、ラウルはさまざまな世情に通じているのだ。だからこそ、リーシェが知らないガルクハインの習慣だって理解している可能性がある。
「愛称とか、他の呼び方とか、やってみるのもいいんじゃねえ? そしたら『アルノルト殿下』からも、何か変わった反応があるかもしんないし」
「………………」
***
「ということで、アルノルト殿下にご意見をお聞きしたく……」
「……それで、その決死の表情でここに来たのか?」
海辺の城の執務室で、アルノルトはリーシェの顔を見て眉根を寄せた。
背後では従者のオリヴァーが、全力で笑いを堪えている気配がする。アルノルトが静かにオリヴァーを睨むと、オリヴァーは「失礼しました。自分はしばし退室しますね」と部屋を出て行った。
「ごめんなさい。ガルクハインの習慣には、あまり詳しくないもので」
リーシェはしょげつつも、アルノルトに尋ねてみた。
「ただ、呼び名というものは何よりも、呼ばれる方のお気持ちが大切でしょう?」
「……」
「ですので、アルノルト殿下がお好みの呼び方をしたいと思い、参りました」
するとアルノルトはペンを置き、椅子の肘掛けに頬杖をつく。
「まず言っておくが、ガルクハインにも、婚約期間特有の呼び方というものはない」
「え!!」
どうやら完全に騙されたらしい。
ラウルは時々、全く必要性の分からない嘘をつくことがあるのだ。あとでラウルを見かけたら、抗議をしなければと心に決める。
「その上で。……たとえ、仮にそのような風習があったとしても、お前に変えさせるつもりはないから安心しろ」
その言葉に、リーシェは少し驚いた。
「お前の呼びたいように呼べばいい。それに俺が口を出すことはないし、第三者にも何も言わせない」
「そ、それは駄目です! 私が無作法を働いていたり、皇族の作法に反しているようなことがあったりすれば、是非ともご指摘いただきませんと……!」
妃の失態によって、皇太子にまで悪評がつくこともある。慌てていると、アルノルトはリーシェを見ながら続けた。
「正式な妻になったあとも、一切変える必要はないぞ」
「……呼び方を、ですか?」
「そうだ。俺との婚姻を結んだことによって、お前が何かを変える必要はない」
そうして彼は、目を伏せる。
「――ただの、ひとつとしてだ」
「……」
告げられた言葉の意味を、リーシェは静かに受け止める。
誰かの妻になったとき、女性には求められることが沢山あった。夫が一国の皇太子ともなれば、リーシェに求められて強いられることは、本来ならたくさんあるだろう。
けれどもアルノルトは、リーシェの望む自由を奪わないように、とても小さなところまで配慮してくれている。
(でも……)
その気持ちを嬉しく感じつつも、一方でほのかな寂しさがあった。
これは以前、アルノルトに指輪を贈られた際、「実際に身に着ける必要は無い」と言われた心境に似ている。
だからこそ、迷わず口にするのだ。
「……私の、旦那さま」
「――……!」
アルノルトが、ほんの僅かに驚いた顔をする。
それを見て、リーシェは小さく微笑みながらこう告げた。
「婚姻の儀が成立したら、絶対にそうお呼びするつもりですよ」
「……」
「……夫となる方の呼び方は、これが一番しっくりきますし……」
故国で受けていた妃教育は、リーシェの中に今も根付いている。リーシェにとって、婚姻後のアルノルトはきっと、『旦那さま』という存在になっているはずなのだ。
とはいえ、実際に口にしてみた後から、じわじわと照れ臭くなってきた。
「も、もちろん殿下がお嫌でなければですけど!! ……でも、呼びたいように呼んでいいって、仰っていただきましたよね?」
「……」
「それに、恥ずかしいので慣れるまでは、ふたりきりのときだけにするかもしれませんが……」
「…………」
アルノルトは、ひとつ溜め息をこぼして言った。
「……お前の好きにしろ」
「は、はい……!」
その返答にほっとするものの、彼は眉根を寄せている。
(なんだか、難しいお顔をしていらっしゃる……)
それを不思議に思いつつも、リーシェは心の中で、事前に新しい呼び名の練習をしておこうと誓うのだった。
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