199 何度も重ねて
アルノルトの触れ方は優しくて、どこまでもリーシェを甘やかすかのようだ。
そのことを実感した瞬間に、左胸がやっぱり苦しくなった。けれども決してそれだけではなく、泣きたいくらいの暖かさが、とくとくと心音を速めてゆく。
触れていたのは数秒ほどで、離れると視線が重なった。
間近に見上げたアルノルトは、彼もどこか苦しそうな表情をしているのだ。
「……満足したか?」
「……っ、まだ……」
頭がどこかぼんやりしている。くちびるが重なったときの感覚さえも、気を抜けばすぐに霞んでしまいそうだ。
「全部は、覚えられなかったので」
「……」
忘れたくない。
これっきりの機会であれば、もっと教えて欲しい。
アルノルトのシャツを小さく引っ張ると、彼はぐっと眉根を寄せる。
「お嫌でなければ、もう一度――……っ、ん……!」
今度はどこか強引なキスに、びっくりした。
噛みつくように重ねられる口付けは、どこかで覚えがあるような気がする。
これはきっと、以前リーシェが首筋に毒を受けた際、アルノルトがそれを吸い出してくれたときの記憶だ。
くちびる同士を重ねるだけのキスだった。
それでも、リーシェの腰を抱き寄せたアルノルトの手に、僅かに力がこもる。
「ん、う」
心臓の鼓動が大きさを増して、戦っていたときよりもずっとうるさい。
アルノルトに聞こえるのが恥ずかしくて、身を捩ろうとした。
けれど、逃げるのは許さないというように、ぐっと腰を引き寄せられる。
「……っ!」
キスの方法を覚えるどころか、息継ぎの仕方さえ分からなかった。
リーシェがぎゅうっと眉をひそめれば、アルノルトがようやくくちびるを離す。
そうしてリーシェと額を重ねると、掠れた声で口にした。
「……悪かった」
「…………」
なんとか息を吸うことの出来たリーシェは、ふるふると小さく首を横に振った。
互いの前髪が絡まるが、そのままアルノルトのシャツを引っ張る。
「もっと」
「……」
そうねだると、アルノルトが短く息を吐き出した。
そのあとで、先ほどの性急さを詫びるかのように、ごくごく柔らかなキスを重ねてくれる。
今度の口付けは、本当に一瞬だけ重なるような、ささやかなものだ。
「……っ」
ちゅ、と小さな音がして離れた。
音だけはとても可愛らしいものだが、これも気恥ずかしくて落ち着かない。ちゃんと覚えたかったのに、すぐに終わってしまったので、くちびるがさびしいような気がする。
口付けとは、こんなに様々なやり方があるのだろうか。
全部のキスが違う所為で、『練習』が上手に出来ている気がしなかった。だからリーシェは、何処かぼんやりとした心地のまま、涙の滲んだ目でねだる。
「……もういちど……」
「…………」
アルノルトは眉間の皺を深くしたあとで、腕の中にリーシェを抱き寄せる。
そして、とんとんと背中を撫でてくれた。
「――後でいくらでもしてやるから、今はもう少し呼吸をしろ」
「……っ、はい……」
アルノルトの胸に顔を埋め、火照った頬を隠しながら、言い付けの通りに息をつく。
浅い呼吸を繰り返すのに、ちっとも落ち着く気配がなかった。
練習をしておいて正解だ。婚姻の儀でこんな様子を見せるのは、皇太子妃としての失態に違いない。
リーシェがそんなことを考えている間も、アルノルトは宥めるように抱き込んでくれている。
そして、リーシェの額へ前髪越しに口付けを落とした。
どきどきして泣きそうになってしまう。
それと同時に、どこかやさしい触れ方をされて、不思議な安堵感も生まれてきた。
(頭の中が、とろとろしてくる……)
このままずっと、アルノルトに抱き締められていたいような気持ちになる。だが、それでは『練習』の続きをしてもらえない。
そしてリーシェはつい先ほど、ディートリヒに尋ねられたことを思い出した。
『アルノルト・ハイン殿は、お前の人生に必要な存在なのか!?』
それに対し、リーシェはディートリヒのお行儀の悪さを窘めたあと、微笑んでからこう答えた。
『……ええ。必要です』
『なんだって?』
驚いた顔をしたディートリヒに、自分の感情を正直に告げる。
『だって私は、これから先の人生を、あの人の傍で過ごしたいと望んでいますから』
『……!』
自分の中にそんな願いがあることを、リーシェは初めて自覚した。
こうしていま、アルノルトの腕に抱き止められていても、そんな想いがますます大きくなる。
「リーシェ」
「!」
宥めるように紡がれるアルノルトの声が、どこか掠れている。
リーシェがびくりと肩を跳ねさせた所為で、心配するように尋ねられた。
「……怖いか?」
先日も、彼の父に会ってしまった際に、同じことを問い掛けられた。
だが、リーシェは小さく首を横に振る。
「殿下の、お声が」
「……声?」
「お声が。……とても、好きなので」
ぎゅうっとアルノルトのシャツを握り締め、額を押し付けて、顔を隠したまま懸命に願った。
「……こうして名前を呼ばれるだけで、苦しくなってしまって、いまは困ります……」
「……」
リーシェは本気で言ったのだ。
それなのにアルノルトは、リーシェの横髪を撫でるように梳く。
顕わになった耳のふちに、口付けるようにくちびるで触れて、吐息に近い音で紡がれた。
「……リーシェ」
「……っ、わう……!?」
これは明確な意地悪だ。
その証拠に、リーシェが体を跳ねさせると、アルノルトは小さく吐息を零した。
「ふ」
(笑った……!)
優しくからかわれているのが分かり、抗議の声をあげたくなる。
しかし、その後でとても大切そうに、恭しい響きで繰り返された。
「……リーシェ……」
「――……っ」
それだけで、リーシェはやっぱり泣きそうになる。




