198 儀式の練習
アルノルトの、こんなに素直に驚いた顔を、リーシェは初めて見たかもしれない。
そのあとでアルノルトは、僅かに眉根を寄せる。
「……リーシェ」
「……っ」
アルノルトに何か言われる前に、慌てて彼の言葉を遮った。
「はしたないお願いで、申し訳ありません……!」
アルノルトの服の袖を掴み、きゅうっと握り締める。
「どうしても、上手に出来る自信がなくて。ご迷惑なのは、分かっているのですが……」
「…………そういう、ことではない」
少しだけ掠れた声だ。
アルノルトはますます渋面を作り、リーシェを労わるように肩へと触れた。
「こんなに震えているくせに、何を言う」
「……これは」
緊張し、体が強張っている自覚はある。けれど、アルノルトが慮るような理由ではないのだ。
「嫌なのでも、怖いのでもなくて……」
そう告げてから、自分でも不思議に思った。
求婚された直後のころは、アルノルトのことを警戒し、指一本でも触れないようにと約束してもらったくらいなのだ。
それがやがて、手袋越しならば問題ないと告げ、いつしかそのまま触れられることも嫌ではなくなった。
アルノルトにやさしく触れられると、ひどく緊張して頬が火照る。
だが、それを嫌だと感じたことは一度もない。礼拝堂で初めて口付けをされたときも、嫌悪感や恐怖心はどこにもなかった。
ただただ、左胸が苦しくなっただけだ。
「……ごめんなさい」
リーシェは反省し、そっと俯いた。
「いくらなんでも、お嫌でしたよね。わ、わがままを……!」
あのときはきっとアルノルトだって、何か思惑があっての行動だったのだ。それなのに口付けをねだるのは、許されたことではない。
「……」
けれどもアルノルトは、はあ、と重苦しい溜め息をついてから口を開いた。
「……迷惑なわけではないと、そう言った」
「……え……」
顔を上げると、アルノルトはやっぱり眉間に皺を寄せている。
その渋面は、嫌なのではないだろうか。
けれどもアルノルトは、諦めたように目を閉じたあと、顔を上げてからリーシェの髪に触れる。
アルノルトの指がリーシェの横髪を梳き、やさしく耳に掛けてくれた。
(あ……)
その触れ方で、これから何をされるのかすぐに分かり、心臓が跳ねる。
「……っ」
赤い顔を見られるのが恥ずかしい。
だというのに、アルノルトはリーシェの顎をすくい、リーシェを上向かせた。
(世界で一番の芸術品みたいに、綺麗なお顔……)
青い瞳も長い睫毛も、見る者のまなざしを奪って離さない。
そんな魔力を持っているのに、リーシェを真っ直ぐに見つめるのだから困る。
挙句にアルノルトは、その親指でリーシェのくちびるをなぞるのだ。
口付けの練習の、さらに練習であるかのような触れ方だった。
くすぐったくてたまらずに、小さな吐息を吐き出す。
「……目は瞑れ」
「で、でも……」
何かを話そうとすると、それだけで心臓が早鐘を打った。
「見ていたいのは、駄目ですか……?」
「……」
青色をしたアルノルトの瞳は、満月前夜の月明かりに透き通っている。
海のようで美しい双眸に、リーシェの姿が映り込んでいた。
アルノルトはその目を緩やかに細め、リーシェをあやす。
「したいのは、婚姻の儀の練習なんだろう?」
「う……」
仕方のない子供に向けて、やさしく言い聞かせるような紡ぎ方だ。
婚儀では確かに目を瞑る。
儀式としての口付けは、そういったしきたりが細やかに決められているのだ。
とはいえ、せっかくするのであればすべてを知りたいという好奇心も、リーシェの中に存在していた。
アルノルトは、それを見透かしたのだろう。
「ほら。閉じろ」
「ん……っ」
そう言って、リーシェの瞼に柔らかなキスを落としてくる。
睫毛の傍にくちびるで触れられて、反射的にぎゅうっと目を閉じた。
「……それでいい」
瞑目するだけで褒めてくれるだなんて、アルノルトは世界一リーシェに甘い。
とはいえ、アルノルトが我が儘をすべて聞いてくれるのかは、どことなく不安でもあった。
(瞼にキスで終わりと言われてしまったら、どうしよう……)
そんな風に心の中で考えたあと、恐る恐る目を開ける。
そして、理解した。
「……!」
注がれていたのは、とても真摯なまなざしだ。
(アルノルト殿下は、いつも私の願いを叶えてくださる。……絶対に……)
実感して、くらくらと眩暈すらしそうだった。
リーシェはアルノルトのシャツを握り込む。自分から口付けをねだっておいて、我ながらひどい有り様だ。
「無理をする必要は無いんだぞ」
「……」
ふるっと首を横に振る。
「……やめないで」
リーシェはどうしても、アルノルトにキスをして欲しい。
アルノルトを見上げながら、小さな声でねだった。
「おねがい、殿下……」
「…………」
すると、もう少しだけ上を向かされた。
(……あ)
今度は自然に目を閉じる。
反対の手で腰を抱き寄せられ、アルノルトがゆっくりと近付いた。
「――――……」
そして、互いのくちびるが確かに重なる。




