197 祝福をねだる
皇立劇場の屋上には、小さな庭園が造られている。
下からは見えない秘密の場所で、貴族や皇族のみが立ち入れるのだそうだ。星空の下、満月前夜の月明かりの中で、ランプがなくても十分に明るい。
木椅子に腰を下ろしたリーシェは、ひとりその場所で休んでいた。
夏の夜風が、珊瑚色をしたリーシェの髪をなびかせている。
たくさん動いたあとだから、吹き抜ける風が心地いい。このまま少し油断をすれば、うとうとと微睡んでしまいそうだ。
「……」
うたた寝をせずに済んだのは、誰かがやってきたからである。
「アルノルト殿下」
「……終わったぞ」
屋上の扉から、アルノルトがひとりで歩いて来た。リーシェはそこから立ち上がらず、アルノルトが傍に来てくれるのを待つ。
アルノルトは、リーシェが眠そうな様子を見て、頬に触れながらこう尋ねた。
「本当に、何処にも怪我はしていないんだな?」
「……もう。殿下」
リーシェは、少し拗ねた声音で言った。
「お片付け中に私と擦れ違う度、何度もお確かめになったでしょう……?」
頬も手もアルノルトに触れられて、検分された後である。そう告げると、アルノルトは小さく息を吐いた。
「もう少し、ここで休むか?」
「んんん……」
劇場内の後片付けは、想像通りに大変だったのだ。
観客を素直に帰らせるのも、諜報部隊を捕縛するのも、その護送準備にも時間が掛かった。リーシェもあちこち手伝った結果、座る時間もない。
リーシェの出来ることがなくなり、どこかでアルノルトを待っているように言われても、借りたドレスを着替える場所すらなかった。
その結果、シルヴィアに借りた歌姫姿のドレスのまま、ひとり星空を眺めていたのだ。
「殿下も、お隣に座って下さい」
「……」
そうねだると、アルノルトはリーシェの横に腰を下ろしてくれる。嬉しくてふにゃりと笑ったら、アルノルトは小さく息をついた。
「あの男が、お前に何か喧しく言っていたと耳にしたが」
「ディートリヒ殿下のことですか?」
リーシェはことんと首を傾げ、先ほどのやりとりを思い出す。
後片付けの際、リーシェは特別席の方に向かい、ディートリヒにお礼を言ったのだ。
今回の計画に協力してくれた件や、危険を冒してでも弓兵の矢について教えてくれたことの感謝を、なるべく早く伝えたいと思った。
『まったくだ、僕の勇敢さは表彰ものだぞ!? 僕がいなければお前はもちろん、アルノルト殿も危なかったに違いない! 身を挺して人を守った勇敢な王太子、それこそが僕なのだ!! はははは!!』
最初はいつもの調子だったが、やがてディートリヒは咳払いをすると、幾分真剣な声で言った。
『まあ……「夫として素晴らしいかを証明する」という件だが。アルノルト殿が、お前をとても尊重し、大切にしようとしていることは多少分かった。多少はな』
『ディートリヒ殿下……』
『だが!! 本当にお前を大切にするなら、危険な目に遭わせないのが道理ではないか!? やはりリーシェ、この結婚は考え直した方が……』
『……いいえ、ディートリヒ殿下』
ディートリヒの言葉に、リーシェは微笑んで言葉を返した。
『私は、アルノルト殿下が私の想いを尊重して下さることが、とても嬉しいのです』
『……む……』
『それに、私が危なくないようにと、守って下さっているのを心から感じますから。……本当に、もっと強くならなければと思うほどに』
そう言うと、ディートリヒはむぐむぐと口を動かしたあと、やがて絞り出すようにこう言った。
『……認めよう』
『え……』
『アルノルト・ハイン殿は、確かにお前の良き夫であるように努めるだろう。人間としての幸福は捨てているように見えるが、お前を幸福にする心意気はあるということだな!! うむ、この僕がそう判断したんだぞ、喜べリーシェ!!』
(……ディートリヒ殿下が、ご自身の前言をきちんと撤回した上で、他の方を認めるなんて……)
それは、リーシェと婚約破棄をする以前ならば、とても考えられなかったことだ。
この国に来て、同じ太子の身分であるアルノルトを見たことで、なにか心境が変わったのだろうか。あるいは、ディートリヒを任せられてからのマリーが、一生懸命に頑張ってくれた結果なのかもしれない。
(……この調子なら、今回の人生でのディートリヒ殿下は、クーデターなんて目論見そうもないわね)
そう思い、くすっと笑った。
とはいえどの道、ディートリヒにクーデターを唆した存在は発覚している。ガルクハインを狙い、アルノルトを狙っていたその存在は、今後エルミティ国を利用する気も無いだろう。
ディートリヒが革命を起こさないのは、これまでの人生でも初めてのことだ。
これまでのリーシェの心の中には、『故国を捨てた』という罪悪感が確かにあった。その心残りが、いまではすっかり消えているのを感じる。
『……ありがとうございます。ディートリヒ殿下』
リーシェがお礼を言った意味を、ディートリヒは知る由もないだろう。けれど、それで良いのだ。
『……もっとも、赤の他人であるディートリヒ殿下に婚姻の許可をいただく必要性は、これっぽっちも無いのですが』
『うぐう!! お前、やっぱり以前より毒舌になっていないか!?』
リーシェにそんなつもりはない。けれどもくすくすと笑っていると、ディートリヒは複雑そうに口を開いた。
『お前に婚約破棄を言い渡した日。お前の人生に、僕の存在は必要ないと言っていたな』
『……ええ。お伝えしました』
はっきりと頷いたあと、リーシェは補足する。
『それと同じくらい、ディートリヒ殿下の人生に、私の存在も必要ないと感じていますよ』
『なんだって?』
『幼い頃から私たち、周囲の大人によく言われていましたよね。私がしっかりして、ディートリヒ殿下を支えないと駄目、と』
そのことを思い出したのか、ディートリヒが僅かに俯く。
『ですが、そうではないでしょう?』
『……リーシェ』
『ディートリヒ殿下は、やれば出来るお方だと知っています。……私がいなくても、大丈夫』
そう言うと、ディートリヒが大きく目を見開いた。
これまでの六回の人生、そのすべてで置き去りにしてきたものを、ようやく晴らすことが出来たかのような心境だ。
(商人、薬師、錬金術師。侍女や狩人、騎士としての人生だけでなく……『公爵令嬢』として、故国で過ごしてきた日々だって、掛け替えのない私の人生だもの)
いうなれば、『公爵令嬢人生』の心残りから、ようやく手を離せたような気がした。
そんな清々しい気持ちのリーシェに、ディートリヒがくしゃりと顔を歪める。
『ぼ……、僕が聞きたかったのは、そういう話ではないんだ!!』
『ディートリヒ殿下? もしかして、泣いていらっしゃいますか?』
『そんな訳がないだろう、僕は王太子だぞ!? ぐすっ、軽率に人前で泣くはずはない!! それより!』
そして彼は、リーシェを指さして尋ねるのだ。
『アルノルト・ハイン殿は、お前の人生に必要な存在なのか!?』
『――――……』
リーシェはひとつ瞬きをする。
そして、ディートリヒにこう伝えた。
『ディートリヒ殿下。人を指さしてはいけません』
『だああっ、そうじゃない!!』
先ほどまでのやりとりを思い出して、リーシェは笑う。すると、隣に座ったアルノルトが、怪訝そうにリーシェを見た。
「なんだ?」
「なんでもありません、アルノルト殿下。……ディートリヒ殿下とは、お互いに今後の人生への激励を送り合ったのです」
それよりも、と。
リーシェは背筋を正し、アルノルトを見上げた。
ちょうど、そのときのことだ。
「……あ」
遠くに見える教会から、鐘の音がひとつだけ鳴り響いた。
あの教会は、時計塔の役割もかねている。決められた時間に鐘を鳴らし、人々に時間を知らせるのだ。
そしていま街に響いたのは、深夜零時の鐘だった。
「……誕生日だな」
「……」
アルノルトに言われて、リーシェは頷く。
日付が変わって、七の月三十日になったのだ。十六年前の今日は、リーシェが生まれた日である。
十六歳の誕生日だ。
リーシェにとっては、これが七度目の経験になる。隣に座るアルノルトは、そんなことを当然知らないだろう。
「俺は、人の生まれた日を祝福したことなど一度もない」
「……殿下」
「だから、お前の望むものを言え」
アルノルトは、まるで戯れるかのように、リーシェの付けた耳飾りに指で触れる。
「欲しいものは、決まったか?」
「……」
もう一度こくんと頷くと、アルノルトが目を細めた。
「……私は」
透き通った青色の瞳を見つめて、リーシェは口を開く。
「子供のころから、ずっと。……欲しかったものがあったのです」
いつもより緩やかに話すリーシェのことを、アルノルトは待っていてくれる。
それに甘えながらも、ひとつずつ、心根の中にあるものを言葉にした。
「公爵令嬢としての私でもなく。未来の王妃や、王太子妃としての私でもなく。私という人間の、その本質を大切にして、自由気ままに生きていくことに憧れていました」
「……」
「そして。――アルノルト殿下は、何よりもそれを尊重して下さいます」
そのことを、リーシェは心から感じている。
「私を守り、制御し、閉じ込めるのではなくて。たくさんの心配も、お気遣いも下さった上で、最後には私を信じていただける。……私が、自分の望みを叶えるための自由を許し、足りないところにはご自身の手を貸して下さる……」
アルノルトは、『望むものは、なんでも叶えてやる』と約束してくれた。
それは、求婚時の誓いを守るという、その律義さだけではない。そして、その誓約の実現のために、ただリーシェに与えるだけでもない。
アルノルトは、心底リーシェを労わって、リーシェのために願いを叶えてくれるのだ。
「あなたの妃になれることが、いまの私にはとてもうれしい」
「…………」
アルノルトが、ほんのわずかに目をみはった。
「アルノルト殿下の妃として、婚姻の儀をつつがなく果たしたいと思います。あなたに恥じないように、胸を張って皇太子妃だと名乗れるように」
「……誰が何と言おうと、お前は俺の妻だ。その事実は覆りようもない」
「それでも、私が嫌なのです」
この先の懇願を告げるのは、リーシェにとって勇気のいることだった。
「……ですから、アルノルト殿下」
リーシェの耳飾りに触れていたアルノルトの手を取り、上から包むようにぎゅうっと握る。
「……誓いのキスの、練習をさせてください」
「……なに?」
緊張に、声が震えてしまいそうだった。
「誕生日の、アルノルト殿下からの贈り物として」
恥ずかしさと、それでも欲しいという気持ちが重なる。
リーシェはアルノルトを見上げ、懇願した。
「……私に、口付けをしていただけませんか……?」
「――――……」




