195 歌姫の涙
舞台裏に降り切ったそのとき、思わぬ人物に名前を呼ばれた。
「……っ、リーシェ!!」
「シルヴィア!? どうしてここに……」
彼女が劇場内にいるのは、計画と随分違っている。
開演前、リーシェはまだ着替えていないシルヴィアに向けて、嘘の作戦変更を話していたのだ。
『せめて少しでも役に立てるように、頑張るから。――さあ、衣装に着替えなくちゃ!』
『それでは駄目なの、シルヴィア』
『……え?』
『だってあなたは、いまからグートハイルさまと一緒に、劇場の外に逃げてもらうから』
驚いているシルヴィアに向けて、リーシェは嘘の作戦を説明した。
『作戦に参加する騎士さまの中に、敵の諜報が紛れていてはいけないでしょう? だから、大々的に打った計画とは別に、シルヴィアは遠くに逃げて』
『でも……それじゃあ、作戦の囮はどうするの?』
『舞台の上には、誰も立たないわ。囮なんて、戦いの経験がある女の人にしかさせられないもの』
そう言うと、シルヴィアは何か引っかかった表情をしながらも、やがて頷いたのだ。
リーシェが囮になると話せば、シルヴィアはそれを心配し、作戦への協力を拒むだろう。諜報部隊にシルヴィアがここにいると信じさせなければ、囮計画は上手く行かない。
そう思って嘘をついたのだから、シルヴィアがここにいるはずもないのだった。
「グートハイルさま。シルヴィアは、城内へ秘密裏にお連れ下さる予定では……!」
「申し訳ございません、リーシェさま。その……」
言い淀んだグートハイルに対し、リーシェの後ろに立ったアルノルトが口を開く。
「俺が命じた」
「アルノルト殿下が……?」
なんでもない表情で、アルノルトは淡々と説明した。
「下手に劇場を出て移動させるよりも、ここに留まらせた方が安全な可能性が高いだろう」
「そ、それはその通りなのですが……!」
たとえ変装していても、開演間際の劇場から出て行く人がいるのは不自然だ。アルノルトは、そのことを懸念したのだろう。
「……アルノルト殿下のお考えは分かります。ですが、私に教えていただいてもよかったのでは……」
「護衛対象が劇場内に残っていると知れば、お前が心を砕くだろう」
「むぐ……!!」
確かに図星だったので、リーシェはますます何も言えなくなった。
剣で矢を弾くという戦い方は、リーシェにとっても初めてのものだ。集中力が少しでも損なわれていたら、上手く行かなかった可能性はある。
アルノルトは、リーシェの安全を少しでも担保するために、最後の最後でリーシェを騙すことにしたのだろう。
「……やはり、まだまだ未熟ですね。アルノルト殿下に信頼していただくには、もっと強くならなくては……」
「そういう話ではない」
アルノルトは小さく息をつくと、リーシェが顔に掛けていたヴェールを上げ、真っ直ぐに瞳を見詰めて言った。
「……お前を案じた。それだけだ」
「……!」
再び頬が火照りそうになったので、ふるふると頭を振ってヴェールで隠す。
だが、騙されたことに不満があるのは、もちろんリーシェだけでは無い。
「私は怒っているわ、リーシェ!」
「……シルヴィア……」
そう声を上げたシルヴィアは、ほとんど泣きそうな顔だった。
これはむしろ、先ほどまでずっと泣いていたのだろう。綺麗な睫毛が濡れていて、シルヴィアの目は真っ赤だった。
「今日になって突然作戦が変わるし、リーシェとグートハイルさまは別々の作戦を伝えて来るし!! 劇場の地下に隠れていようと言われていたら、なんだか様子がおかしいし、グートハイルさまは出して下さらないし!!」
「ご、ごめんねシルヴィア……! びっくりしたし、怖かったわよね」
「一番怖かったのは、リーシェが囮になっているのかもしれないって気付いた瞬間だわ!!」
どうやら、それについてはグートハイルが話したのではなく、シルヴィアが自分で辿り着いた答えらしい。グートハイルはおろおろとした様子で、リーシェにしがみついたシルヴィアを心配している。
「申し訳ありません、シルヴィア殿、リーシェさま。自分が上手く誤魔化すなり、シルヴィア殿が安心するような説明を出来ればよかったのですが……」
「グートハイルさまはずっと、『リーシェの所に行く』って泣いている私を宥めながら、ポカポカ殴られて下さったんだからね!!」
「うわわわ、グートハイルさまもごめんなさい……!!」
「い、いえ! 全く痛みは無かったので、何も問題はありません!」
リーシェたちが話している傍らで、アルノルトがオリヴァーに指示を出し始めた。
こうしている間にも近衛騎士たちが、どんどん敵の諜報部隊を運び込んでいる。なにぶん人数が多いのだが、痺れ薬を使っているので、すぐに捕縛をしなくとも安心だ。
「シルヴィア、嘘をついて本当にごめんなさい。……あなたに、少しでも危ない目に遭ってほしくなかったの」
「私だって……!」
シルヴィアは、ぎゅうぎゅうとリーシェに抱き着いたまま、涙声で言った。
「リーシェに少しでも、危ない目に遭ってほしくなかったわ!」
「……シルヴィア」
「ごめんねリーシェ。……私の所為で、こんなに迷惑を掛けて。本当に、本当に、ごめんなさい……」
リーシェはシルヴィアを抱き締め返して、「ううん」と首を横に振る。
「友達の助けになれたなら、それだけで嬉しいわ」
「……っ!」
シルヴィアは息をついたあと、恐る恐ると口にした。
「リーシェが無事で、本当によかった……」
そう言って、ゆっくりと腕の力を緩める。
「グートハイルさまも、怒ってごめんなさい。すべて私を守るために、して下さったことなのに」
「……的確な判断をなさったのは、私ではなくアルノルト殿下ですから。それに、私もあなたが無事であれば、それで構わない」
グートハイルが微笑むと、シルヴィアが耳の先まで赤くなる。
それを見たグートハイルは、世界で一番大切なものを見るかのような目を向けたあと、真っ直ぐにある人物の方へと歩き始めた。
「アルノルト殿下」
「……」




