191 身代わりと信頼
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偽物の『歌姫』に成り代わり、身代わりを演じながら、リーシェは集中力を研ぎ澄ましている。
(ここまではすべて狙い通り。シルヴィアがひとりになったと誤認した敵が、迷わずこちらを狙ってきたわ)
歌姫としての衣装は重いが、動きやすい工夫が細部に凝らされている。フリルにはいくつものスリットが入っており、裾捌きに苦労はしなさそうだった。
ヴェールで顔を隠しているが、リーシェからの視界には支障がない。それよりも、明るい舞台から暗い客席を注視することが、想像の通りに難しかった。
耳を澄まし、殺気に集中する。
大勢の観客がいる中でも、矢が風を切るときの特徴的な音や、誰かが人を殺そうとしているときの気配は明白だ。
(――右!)
そう判断すると同時に、リーシェは剣を振った。
鏃には当たらなかったものの、篦の部分に刃が当たる。弾き飛ばした矢が舞台の下手に滑り、人工花びらが舞い上がった。
(アルノルト殿下に教わった通り。『刃を振るときに面にすることを意識し、篦を払って矢を落とす』……!)
ここ数日、アルノルトに特訓してもらった成果は十分だ。リーシェは深呼吸をしつつも、自らの緊張を自覚した。
一瞬でも気を抜けば、諜報員の矢はリーシェの左胸を射抜くだろう。相手が手練れであることは、狩人という名の諜報員だったリーシェにもよく分かる。
(シルヴィアとの入れ替わりが、上手くいってよかったわ。……この状況で、シルヴィアを囮役にしていたら、間違いなく彼女に怪我をさせていたもの)
どれほど警備を固めようと、守り切ることは難しい。それが分かっていたからこそ、リーシェはアルノルトとラウルに対し、城壁の上で提案していたのだ。
『囮役を演じるのは、シルヴィアではなく私がやります』
そう告げると、アルノルトは眉根を寄せた。
『シルヴィアには、彼女自身を囮にすると説明しようかと……そうでなくては、シルヴィアは計画に賛成してくれません。この囮計画には、シルヴィアや他の役者さんの協力も不可欠ですから』
『……リーシェ』
アルノルトは、苦い表情のままでリーシェを見下ろす。
けれど、リーシェがじっと見つめると、やがて溜め息をついてからこう言った。
『――分かった。お前の思う通りにすればいい』
『ありがとうございます、アルノルト殿下!』
『いやいや! ちょっと待てっておふたりさん!』
騎士に扮した姿のラウルが、慌てた様子で割って入る。
『ラウル?』
『当然のような顔でなに言ってんだ。あんたが歌姫シルヴィアの身代わりって、そこまで危険を冒す必要はないだろ』
『だって、他に最善の方法が無いんだもの』
『「無いんだもの」じゃなくて!』
ラウルはやれやれと肩を落とし、今度はアルノルトの方を見上げた。
『殿下も殿下だ、あっさり甘やかしていいのかよ。身代わり役なんかやらせて、可愛い奥さんに万が一のことがあったらどうするつもり?』
『だから、私はまだアルノルト殿下の奥さんじゃないんだってば……!』
気にするところはそこじゃない、という顔を向けられた。いつも感情を誤魔化すラウルが、ここまで分かりやすい表情をしているのも珍しい。
アルノルトは僅かに眉根を寄せたまま、青色の瞳を伏せて言う。
『……危険が伴うことは、当然承知の上だ』
それは、呆れの混じったような声音なのだった。
『その上で、リーシェがこの状況を譲るはずもない。これは、自分が守ると決めたものは、どんな手段を使ってでも守ろうとするからな』
『アルノルト殿下……』
アルノルトはリーシェを見て、その渋面を少しだけ和らげた。
『それくらいは、もう十分に分かっている』
『……!』
向けられたある種の信頼に、リーシェの胸がどきりと高鳴る。
ラウルが先ほど言ったように、これはリーシェへの甘やかしだ。他の誰かが提案しても、アルノルトは絶対にこの案を飲まない。
そのことが理解できるからこそ、どうしても嬉しくなった。
(絶対に、守り抜いてみせる)
そしてリーシェは今、歌姫の姿で舞台に立ちながら、慎重に剣を振るっている。
飛んできた矢を再び弾き飛ばすと、観客のざわめきが大きくなった。
「一体これは、どういう演目なんだ……!? 歌姫シルヴィアに矢が飛んで、それを彼女が剣で防ぐ。その度に、舞台に落ちた花びらが舞って……」
「ええ、とっても綺麗……!」
観客たちが音楽に紛れて、隣と密かに感想を交わす。リーシェはそんな会話も耳に入らず、次の攻撃に意識を集中させた。
(客席から矢が飛んでくる度に、近衛騎士の皆さまが射手を見付ける算段。そのために少しでも多く、私に向けて矢を射らせて――)
アルノルトに学んだことを意識しながら、風を切る音と同時に剣を薙いだ。
「おおお!!」
二本同時に斬り弾いて、客席から歓声が湧き上がる。
ドレスの裾を掴み、ふわりと捌けば、それに合わせて花が舞うのだ。
(手荷物検査を行うと周知したことで、持ち込まれているはずの武器は最小限。諜報部隊は遠距離が基本だわ、矢が尽きるまでは観客席から狙ってくる……!)
リーシェの大きな役割は、観客席にいる弓兵をすべて炙り出すことだ。
シルヴィアの身代わりとして矢を引きつけ、それをすべてかわして落とす。弓兵の最大の弱点は、攻撃が消耗戦になることだ。
(そして矢が尽きれば、次の動きは――……)
想定通り、舞台に登ってくる敵の姿があった。
黒いローブを纏った男が、隠していたらしき短剣を抜く。舞台の演目だと思い込んでいる観客たちも、緊迫感に息を呑んだ。
真横に払われた一撃を、リーシェは咄嗟に身を屈めてかわす。
大きな拍手が沸き起こるが、そこを狙って矢が迫った。
「っ」
太ももの辺りを狙われて、刃を返しながら鏃を弾く。無意識に呼吸を止め掛けて、乱されてはいけないと吐き出した。
けれども一瞬の隙を突かれる。
矢を防ぐ動きの瞬間を、舞台上の敵に狙われたのだ。
剣を持った諜報員が、リーシェにそのまま斬り掛かる。
「……っ」
その瞬間だ。
舞台袖から現れた人物が、リーシェと敵の間に飛び込んだ。
かと思えば、彼はその脚を振り上げると、敵のこめかみに鮮やかな回し蹴りを叩き込む。
「ぐあ……っ!?」
悲鳴と共に、舞台下まで敵が吹き飛んだ。
リーシェの眼前で、黒色のマントが翻る。踵が敵に接触したのが不快だったのか、その人物は顔を顰めた。
事前の打ち合わせと異なる動きに、リーシェは小声で彼を呼ぶ。
「アルノルト殿下……!」
「…………」
アルノルトはリーシェを振り返ると、小さく息をついてから言った。
「怪我は無いな?」
「あ、ありませんが……! アルノルト殿下が出てきて下さるのは、もう少し後という手筈では?」




