190 歌姫と女神
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そうして迎えた、七の月二十九日のこと。
劇団員との調整を重ね、大勢の騎士を配備した上で、『囮作戦』の本番である公演の当日を迎えた。
先日延期になった歌劇の再演日ということもあり、今日の客席は満員なのだそうだ。
シルヴィアは、舞台裏に作られている楽屋の一室で、少しだけ不安そうな表情をしていた。
「心配しなくても大丈夫よ、シルヴィア」
彼女の傍についているリーシェは、その手を握ってシルヴィアを元気付ける。
「ありがとう、リーシェ。……舞台の上に立つだけで緊張するなんて、一体何年ぶりかしら。ふふ、こういうときこそ、早く衣装に着替えなくちゃね!」
シルヴィアは冗談めかして言いながらも、あまり顔色が良くないようだ。
(平気な顔をしていたって、怖いはずだわ)
この劇団の特徴は、公演開始まで当日の演目が分からないことだ。
囮作戦では、それを利用することにした。
今日の演目では、まず大勢の演者が現れて、歌姫を覆い隠すように舞を踊る。薄闇の中、音楽が鳴り終わったあとに、演者たちが舞台から消えるのだ。
そしてひとりきりになった歌姫を、照明が照らす。
そこからはずっと、歌姫がひとりで歌い切るという歌劇の内容だ。その性質上、上演時間は短いものになるが、恐らくそれほど待つ必要はない。
演目の冒頭、大勢の演者たちが去ったあと、ひとりきりの歌姫が照らされた瞬間が狙われる。
なにしろ観客や諜報員たちには、演目の内容は分からないのだ。次の好機がいつになるか読めない以上、彼らはシルヴィアがひとりになった直後に、襲撃を決行するだろう。
囮役を務めるシルヴィアにとって、そんな計画が怖くないはずもなかった。
「シルヴィアには、グートハイルさまがついていて下さるわ」
リーシェが彼女にそう告げると、シルヴィアは寂しげな微笑みを浮かべた。
「本当にありがとう、リーシェ」
「……シルヴィア?」
「私ね。……この計画が上手くいって、本当に自由になれたなら、グートハイルさまの前から消えるつもりなの」
その言葉に、リーシェは息を呑む。
「どうして? だってグートハイルさまは、たとえすべてを分かっていても、シルヴィアを守ると仰っていたのに」
「……だからこそ」
シルヴィアがそっと微笑んで、リーシェの手をきゅうっと握り返す。彼女の指は、とても冷たかった。
「あの人のお父さまが、機密漏洩の罪を犯して死刑になったと聞いたとき、私はとても怖かったの」
グートハイルも言っていた。彼の事情を話したら、シルヴィアは傷付いた顔をしていたのだと。
何も知らなかったときのグートハイルは、それを、シルヴィアが戦災孤児だからだと考えていた。けれど、真意は違ったのだろう。
「お父さまの犯した罪によって、グートハイルさまはずっと傷付いてきたんだもの。……私のような女が近くにいては、グートハイルさまの人生には、もっと深い傷が付いてしまう」
「だけど、シルヴィア」
「……あの夜、私の罪が暴かれるんだって覚悟して、だからこそグートハイルさまに来て欲しかった。……自分の罪を、自分からあの人に打ち明ける勇気が、私にはどうしても無かったから」
シルヴィアは、リーシェから手を離すと、今度はぎゅうっと抱き付いてくる。
「あのとき、私の秘密を代わりに話してくれてありがとう。リーシェ」
「……シルヴィア……」
「今日が終わったら、あの人とはお別れ。……リーシェの前からも、姿を消さなくてはいけないわ」
そして彼女はリーシェの顔を見て、やっぱり寂しげな微笑みを浮かべる。
こんなときでもシルヴィアの声は、惚れ惚れするほどに美しかった。
「リーシェにもグートハイルさまにも、迷惑を掛けてばかりだったけれど……見ていて。せめて少しでも役に立てるように、頑張るから」
「……」
「さあ、衣装に着替えなくちゃ!」
努めて明るく振る舞おうとするシルヴィアの手を、リーシェは取る。
「……それでは駄目なの、シルヴィア」
「……え?」
そして、まっすぐにシルヴィアを見据え、口を開いた。
「――だって、あなたは」
***
夜の七時、ガルクハイン皇都で一番の劇場には、多くの観客が集まっていた。
『この日の警備が多いのは、エルミティ国の王太子が外交のために訪れているからだ』という噂が、客席内へ広がっている。とはいえ、手荷物検査はいつも通り形式だけのもので、入場には手間取らずに済んだとみんなが安堵していた。
「今日の演目は、どのようなものだろうな」
「やっぱりシルヴィアの歌声が聴きたいわね。先日倒れたときは驚いたけれど、元気になってくれて良かったわ」
「開幕の鐘だ。……幕が上がるぞ」
劇場内の灯りが消えていき、それに呼応してさざめきが消えていく。
静まり返った劇場で、真紅の緞帳がするすると上がり始めた。
舞台の上には、鮮やかな桃色のドレスを着た、大勢の女性演者たちが立っている。
灯りの絞られた薄闇の中で、その姿はほのかにしか分からない。けれど、生演奏の音楽が鳴り始めると共に、純白の女性たちが一様に舞い始めた。
幾重ものシフォン地で透き通ったドレスは、彼女たちが舞うたびにひらひらと尾を引く。幻想的な音楽と、体の重みを感じさせない舞い姿に、観客の目は奪われた。
舞の美しさを引き立てているのは、上から落ちてくる花びらだ。
雪のようにも見えるその白い花は、かすかな照明に照らされて、淡く発光しているかのようだった。
そして舞台の上に降り重なると、女性たちが少し動くたびに巻き上がり、空気の動きに従って舞い散る。
舞の華やかさと、花びらの織りなす繊細な美しさに、観客は息を呑んで見入っていた。
やがて旋律が細くなると共に、大勢の舞い手たちが動きを止める。
そのあとで花びらを翻しながら、舞台の袖へと消えていった。
舞台の上に残されたのは、舞い手たちに隠されていた歌姫ただひとりだ。
舞台の真ん中に跪き、その頭に透き通ったヴェールを被っている。
真紅のドレスを身に纏い、黒い手袋を着けた彼女は、その手を祈るように組んでいた。
美しい歌が始まる瞬間を、観客たちが固唾を飲んで待っている。
白い布を使った照明装置に、大きな火が灯された。そうして舞台が照らされると共に、歌姫が美しい所作で、その腰の剣へと手を伸ばす。
『歌姫と剣』という物珍しさに、観客は僅かに目を見開いた。
そして、次の瞬間だ。
「――……!?」
客席の片隅から、風を切るような音がした。
一本の矢が舞台に迫ってゆく。誰かが歌姫を射ったのだと、観客が理解する暇もない。
歌姫は、剣を素早く抜き去ると、それを迷わず斜めに払った。
「な……」
きん、と短い音がする。
矢が弾かれ、叩き落とされるのを、歌姫は当然のように見下ろした。歌姫の動きに従って、舞台の花びらが舞い上がる。
観客のひとりが、耐えかねたように声を上げた。
「なんだ、いまのは……!?」
けれども周囲に睨まれて、観客は慌てて口を閉ざす。
降り散る無数の花びらの中で、歌姫は軽やかに剣を振り払うのだ。
その瞬間にヴェールが靡き、その下が一瞬だけ垣間見えたのを、最前列の観客は見逃さなかった。
「珊瑚色の、髪……?」
ここにいるのは、本物の歌姫シルヴィアではない。
この状況で、それに気付ける人はいないだろう。ヴェールを左手で払う『歌姫』に見惚れ、観客はぽかんと口を開けた。
「なんだ? この演目は」
珊瑚色の髪を隠したその少女は、剣の鋒を客席へと向ける。
優美なのに勇ましく、堂々としたその姿に、観客のひとりがまた呟いた。
「……あれはむしろ、歌姫というよりも、戦の女神のようではないか……」
観客のひとりが呟いたことを、珊瑚色の髪をした偽物の歌姫は、知らないのだ。
(……シルヴィアは絶対に、傷付けさせない)
歌姫に変装したリーシェは、友人の敵となる存在への宣戦布告を、まっすぐに向けていた。




