188 婚約破棄の裏側に
「オリヴァーさま。予定より時間が長引いたのは……」
「ああ、そのことでしたら。お尋ねしたかったのは諜報組織の件だったのですが、まずは昔話でお心を解そうと思っていたところ、想像以上にお話のボリュームがありまして……」
「そ、それはお疲れさまです……」
アルノルトはそれも見越していたのだ。オリヴァーが情報の聞き取りをすることは、これまでに何度もあったことなのかもしれない。
「ですが、その昔話をお聞かせいただけたお陰で、ディートリヒ殿下がお考えになることの背景もよく分かりました。それと、ディートリヒ殿下のクーデターは失敗するでしょうね」
「ああっ!! オリヴァー、駄目だ!! その件は秘密だと言っただろう!?」
「ディートリヒ殿下。クーデターの件は薄々察しているので、ちょっと静かにしていただけますか」
「なんだとお!?」
ディートリヒは衝撃を受けているが、ひとまずここは流しておく。アルノルトは完全に、オリヴァーとだけ会話を始めていた。
「細かな点はどうでもいい。それより、目的の情報は吐かせたんだろうな」
「諜報組織らしき存在がディートリヒ殿下に接触したのは、どうやらいまから一年と少し前、昨年の三の月のようですね。リーシェさま、心当たりはおありですか?」
「その一ヶ月後の四の月、特待生であるマリーさまというお方が、私たちの学院に入学して来られています」
「ディートリヒ殿下の、現在の婚約者となるお方ですね」
マリーの名前が出たことで、ディートリヒの顔色が一気に青くなった。
「な……っ!? 待て! マリーはそんな悪者の仲間なんかではないぞ!!」
「分かっています。マリーさまは恐らく、この一回だけのために利用されたのでしょう。彼女のおうちの困窮を思えば、諜報員として長らく雇われていたとは考えにくいです。本当に諜報の一員なのであれば、十分な報酬が渡されていたはずですから」
それに、ディートリヒへの諜報を目論んだとも思えない。ディートリヒが国政に深く関わっていないことは、他国から見ても明らかだったはずだ。
リーシェの言葉に、オリヴァーも頷いた。
「リーシェさまのご意見に同意いたします。諜報組織の目的は、ディートリヒ殿下への諜報などではなく、最初からアルノルト殿下だったのでしょうね」
「マリーさまは、学院で出会う王侯貴族との婚姻を唆された可能性があります。しかし学院に通うご令息たちは、みなさま婚約者がいましたから……婚約破棄という大胆な行動に出るような高貴な男性は、『組織』がわざわざ指定しなくとも、必然的におひとりに絞られて――……」
その場の視線がディートリヒに注がれて、注目を浴びたディートリヒが、少し嬉しそうな顔をした。だが、それを無視する。
「マリーさまはディートリヒ殿下に近付いた末、組織に教わった方法で、その時点の婚約者だった私の悪事を偽装したのでしょう。ディートリヒ殿下はそれを信じ、私への断罪を決意なさったはず。ディートリヒ殿下は分かりやすいお方なので、そこまで読まれていた可能性が高いですね」
「………………」
「アルノルト殿下、そのようなお顔をなさらず……! こう見えて、正義感の強いお方なのです。見方が一方的で、思い込みが激しいところが難点なのですけれど」
「なんだかよく分からないが、僕はいま目立っているな……!?」
ディートリヒはやっぱり嬉しそうだ。アルノルトは舌打ちをしたが、話を進めることを優先したらしく、何も言わなかった。
「諜報組織の目的は、ディートリヒ殿下の情報や私の婚約破棄そのものではなく、アルノルト殿下をエルミティ国に呼び出すことだと仮定して……」
随分と遠回りな計画にも思える。それでも諜報の仕事において、数年の準備期間が必要なことは日常茶飯事だ。
一年と少しで済むのであれば、彼らにとっては労力の少ない計画だったのかもしれない。
「ぐぬぬ……この僕と、何よりも心根が素直で純粋なマリーを利用するとは、謎の組織めえ……!! だが僕たちは、そんな思惑になど負けないのだ! 最初はマリーにも目的があったのかもしれない。それでもいまは、真実の愛が育まれ……」
「一年前の三の月、エルミティ国の夜会に参加した不審な人物は、ハリル・ラシャの高官を名乗っていたようです」
「おいオリヴァー! 僕の話を聞いてくれるんじゃなかったのか!?」
(ディートリヒ殿下、妙にオリヴァーさまに懐いてるわね……)
さすがはアルノルトが、『この手のことはオリヴァーの得意分野でもある』と言っただけはある。オリヴァーは、てきぱきと話を進めて行った。
「その人物がディートリヒ殿下に接触し、近い未来にクーデターを起こしてはどうかと助言した。そうですよね? ディートリヒ殿下」
オリヴァーの念押しに、ディートリヒは渋々頷く。
(砂漠の国ハリル・ラシャ……ザハド王の治める国。だけど、その人物が高官を名乗ったということは、ハリル・ラシャは無関係のはず)
企みを持っている人間が、自らの出自を素直に話すはずはない。
ハリル・ラシャは大国だ。現在はガルクハインと友好状態にあるものの、アルノルトが未来で起こす戦争では、ガルクハインに対抗できる武力を持った数少ない国となる。
ガルクハインを陥れたいその敵は、万が一この件が発覚したときに備えて、ガルクハインとハリル・ラシャの関係が悪化するように嘘をついたのだろう。
「そうまでして、アルノルト殿下をエルミティ国に連れ出したかった理由は……」
思い出されるのは、盗賊による帰路での襲撃だ。
馬車が襲われ、騎士たちが負傷して、剣には痺れ薬が塗られていた。その際に、リーシェが解毒剤を作ったのである。
(……ご自身の騎士には下がるように命じて、アルノルト殿下が自ら剣を交えたのは……襲撃に裏があることを、あの時点で懸念なさっていたからなのね)
アルノルトには、自己犠牲的な考え方の癖がある。ひとりで戦ったことの大きな要因は、その悪癖なのだろう。
しかし、もうひとつの理由として、盗賊が特殊な訓練を積んだ諜報部隊である危険を考慮していたのだ。
(あの盗賊襲撃の出来事も、すべてアルノルト殿下の警戒範囲内……)
そのことに、深く息をつく。
「……エルミティ国とガルクハインを移動するには、人通りが少なくて細い道を通る必要があります。必然的に少人数の隊になり、殿下の護衛はガルクハイン国内よりも大幅に減らされる……」
小国であるエルミティ国が、戦争中にガルクハインに侵略されなかった理由のひとつが、大軍を移動させることが難しかったという点にもある。
ガルクハインにとって、厳しい行軍の果てに得られるものが少ないため、近国にもかかわらず侵略を免れることが出来たのだ。
諜報組織の裏にいる黒幕は、その条件を活用するために、エルミティ国にアルノルトを呼び出そうとした。
あのときの森の中のように、敵にとって有利な場所でアルノルトを襲い、アルノルトやガルクハイン国に危害を加える目的だったのかもしれない。
「あのときの盗賊たちは、人を痺れさせる毒を剣に仕込んでいました。……アルノルト殿下がいかにお強くとも、毒や薬を使われてしまえば……」
そんな状況を想像し、ぞっとした。
けれども当のアルノルトは、さしたる危険も感じていないようだ。
「どうでもいいな。当たりもしない剣に仕込まれた毒が、一体なんの役に立つ?」
「確かに、アルノルト殿下が盗賊に遅れを取るはずはないのですけれど……!!」
そうはいっても、やはりもう少し周りを頼ってほしいと心から感じた。アルノルトの剣技を信じているのに、こうして不安にもなる気持ちは、我ながら随分と矛盾している。
そしてオリヴァーは、ディートリヒへと改めて尋ねた。
「ディートリヒ殿下に、リーシェさまへの婚約破棄について『助言』を行ったのも、その自称ハリル・ラシャの高官なのですね?」
「う、うむ……。いやっ、唆された訳ではないぞ!! 僕は正義の味方として、愛するマリーのためにだな……」
「うるさい。もう黙れ」
「ひいっ!!」
アルノルトは不快そうに言い捨てたあと、オリヴァーから渡された書類を受け取り、書き綴られた文面に目を通し始めた。
リーシェも背伸びをし、その書面を覗き込もうとする。それに気付いたアルノルトが、リーシェにも見やすい位置へと手を下げてくれた。
ありがとうございますとお礼を言って、アルノルトと一緒に、ディートリヒから聞き取った内容を読み始める。そんなリーシェたちの周りを、そわそわとディートリヒが回り始めた。
「な、なあ、アルノルト殿……」
「黙れ。話し掛けるな」
「うわあ! こ、こうなったらリーシェ……!」
ディートリヒが助けを求めてきた瞬間、アルノルトが心底面倒臭そうな様子で顔を上げた。
「……リーシェに話されるくらいなら、俺が聞く」
「おお! 聞いていただけるのか!!」
ディートリヒがぱあっと顔を輝かせたあと、それから結局は俯いて、言い淀みながらも口を開いた。
「そ、その、オリヴァーに聞いている。僕に甘言を囁いてきた悪の組織を捕らえるため、歌姫シルヴィアを囮にするのだろう?」
『シルヴィアが諜報に関わっていたことは、ディートリヒに話さない』と決めていた。オリヴァーが説明したのは、『歌姫シルヴィアは、囮作戦における善意の協力者』という話のはずだ。
「それが何だ」
「や、やはりだな!! 王太子って格好良いと思わないか! 普通の人よりも当然目立つし、華やかだ! なにせ王太子だから!」
「何が言いたい……」
「つ、つまり……!!」
ディートリヒは多大な躊躇をしながらも、やがておずおずと口を開く。
「囮という危険な役割は、か弱き歌姫を選ぶのではなく、僕のように偉大な人物にするべきではないかと言っている……!!」
「…………」
ディートリヒの言葉に、オリヴァーが驚いたような表情を向けた。
アルノルトは無表情だが、静かにディートリヒを見下ろしている。ディートリヒは、少しだけ発言を後悔するような素振りをみせながらも、思い切ったように続けた。
「や、やはり、囮なんかになるのは怖いだろう? 歌姫にそれを頼むのは酷だ。それに比べて僕ならば、いつだって覚悟が出来ている!! なにせ偉大なる王太子だから!!」
「……」
「実はな、おかしいとは思っていた!! 昨日、僕を呼び出したはずの人間が、待ち合わせ場所に来なかったんだ。僕がせっかくローブを着て、格好良い感じで待機していたのに! そのときから薄々、騙されているのかもしれないぞーと……い、いや違う、僕とて最初から計算尽くだ!」
「…………」
「そう、謎の存在にガルクハインが狙われているからこそ、それを教えに来たというわけだ!! ……だ、だから。必要とあらば、僕が囮になっても構わない……」
思いっ切り震えているのだが、ディートリヒはそう言い切った。
「……ディートリヒ殿下……」
リーシェは、彼の勇気に驚きながらも口を開く。
「――生憎と、ディートリヒ殿下に囮の価値はありません」
「なあっ!?」
きっぱりと言い放てば、ディートリヒががくっと膝をつきそうになりながらこちらを見た。




