183 騎士の誓い
そもそもが今回、最初にリーシェが『皇都で興行される歌劇に行ってみたい』と呟いたのは、オリヴァーが世間話でその話題を出したことがきっかけだった。
諜報疑いの件で、アルノルトと歌劇団のことを調べていたオリヴァーが、無意識にその話題を選んだという可能性もある。
早く察することの出来なかった自分の未熟さを、ほのかに悔しく思いつつも、リーシェは続けた。
「グートハイルさまの仰ったように、アルノルト殿下の近衛隊がシルヴィアを監視していたわ。そして、同時にあなたの警備もしていた」
「警備……?」
「あなたに危害を加えようとしている集団の接近が、この数日間で四回あったそうよ。そのうち昨日の一回は、騎士さまたちとの交戦になったみたいなの」
それを聞いたシルヴィアが青褪め、グートハイルも顔を顰める。
今日の午後、リーシェたちがアルノルトの公務に同行した際、一緒にいた騎士はグートハイルと変装したラウルだった。
『諜報調査の件で、騎士が足りていない』という説明を受けていたが、それは広い範囲での調査をしていたわけではなかったのだ。
アルノルトとオリヴァーは、対象をシルヴィアひとりに絞り込んだ上で、彼女の見張りと護衛を騎士たちに行わせていたのである。
(アルノルト殿下が、今日の劇場に同行して下さったときは驚いたけれど。あれはきっと、シルヴィアの周囲に危険な人物がいる可能性や、劇団員の中に他の諜報員がいないかを警戒してのことだったんだわ)
震えているシルヴィアに、リーシェはそっと尋ねる。
「答えて、シルヴィア」
「……っ」
「……あなたは、ガルクハインの秘密を探らなければ殺されてしまう。――だけど、私やグートハイルさまに出会う前から、その命令に抗おうとしていたのね?」
そして諜報の指示役は、本当に薬を盛ったのだ。
それが、シルヴィアと出会った夜の出来事だった。
「……っ、違います」
そう絞り出したシルヴィアは、必死に言葉を継いだ。
「私にそんな信念はありません。現にあの翌日、恥知らずにも皇城を訪ね、未来の皇太子妃であるリーシェさまに近付こうとしました」
「苦しい思いをして、歌劇の公演も中止になって、とても怖かったはず。やっぱり抜け出せないと考えて、命令に従おうとしてもおかしくはないわ」
「その上に、騎士であるグートハイルさまにも、恋をしたなどと嘘をついて……」
「グートハイルさまを探っても、役割が果たせないとすぐに分かったのでしょう? ……そんな嘘をつく理由なんて、どこにもなかったはずよ」
だって、シルヴィアの恋心が打ち明けられたのは、張本人のグートハイルではない。
彼女はリーシェに話したのだ。
偽りの恋だったというのなら、リーシェには別の恋を探していると告げ、それこそリーシェを利用して他の騎士に近付けばいい。
あんな風に、グートハイルを好きになってしまったと泣き、苦しいとリーシェに縋る必要は無かった。
そのとき、アルノルトが口を開く。
「――リーシェ。もういい」
「アルノルト殿下……」
冷たさを帯びた彼の言葉に、シルヴィアとグートハイルが緊張したのが分かる。
「これ以上は時間の無駄だ。お前がどれほど心を砕こうと、すでに結論は出ている」
「……」
リーシェは息をつき、シルヴィアたちに説明した。
「アルノルト殿下は約束してくださったわ。シルヴィアは、ガルクハインで諜報活動を行っていないし、情報が盗まれてもいない。だからあなたはこの国で、なんの罪に問われることもないの」
「……!」
シルヴィアが、現実味のなさそうな表情で目を丸くする。
この件は、リーシェがアルノルトに願ったことだ。アルノルトは、リーシェの甘さに呆れた顔をしながらも、最終的にはそれを許してくれた。
「けれど、シルヴィア」
シルヴィアが、びくりと肩を跳ねさせる。
「もちろん、これで終わりじゃない」
「……っ」
ただならぬ空気を察しているグートハイルは、シルヴィアに代わるように口を開いた。
「恐れながらリーシェさま。それは、どのような……」
「諜報組織を抜けたいと願ったことによって、シルヴィアは組織からの信用を失ってしまいました。恐らく組織側は、最終判断を下したのです。……アルノルト殿下」
アルノルトは、グートハイルに向けて淡々と説明した。
「近衛騎士から、二度の戦闘についての報告を聞いている。 脅しや警告、あるいは命令に従わせるための拉致を目的としたものではなく、殺すために接近したのだろう」
「……そのようなことが……?」
アルノルトの表情は、冷淡なまま動かない。
「もはや、諜報として組織に信用されていない。こうなれば、いまからこの国の重要機密を持ち帰ったとしても、情報だけ奪われた末に処分されて終わりだ」
「で、殿下。もう少し表現を遠回しに……」
リーシェは慌ててアルノルトを止める。アルノルトの本質はやさしいのに、それが向けられる先は限定的だ。
(アルノルト殿下の近衛騎士がいたからこそ、シルヴィアはこの数日を無事に過ごせた。だけど、これからは……)
怯えているはずのシルヴィアに、リーシェが声を掛けようとした、そのときだった。
「私が、シルヴィア殿をお守りいたします」
「……グートハイルさま……」
シルヴィアは、思わずグートハイルの名を呼んでしまったのだろう。そんな自分が信じられないというように、自らの口を手のひらで塞ぐ。
一方、円卓を挟んだアルノルトは、グートハイルの言葉を嘲るように笑った。
「守る?」
青い目が、愚かな人間を眺めるようにすがめられる。
「貴様が、たったひとりでか」
「……っ」
アルノルトの放つ声が、その場の空気を支配した。
「理想論と感情だけで物を言うな。貴様がどれほどの手練れであろうと、付け狙ってくる集団から常に守り抜けると思うのか」
「……」
「無駄死にをしたがる悪癖は、どうあっても治らないと見える。――護衛対象も貴様自身も、すぐに殺されるぞ」
室内の緊張感が一層増し、リーシェですら背筋の強張るような思いがする。
けれど、アルノルトの嘲りを真っ直ぐに受けるグートハイルは、落ち着いた表情でこう口にした。
「昨晩、アルノルト殿下が仰ったことの意味が、ようやく私にも分かりました」
「……」
アルノルトが、ほんの少しだけ眉根を寄せる。
「殿下の仰る通り、命を懸けてでもシルヴィア殿をお守りしたいという思いがあります。……しかし、私が命を落としてしまえば、シルヴィア殿を守ることなど出来はしません」
グートハイルの目が、真摯にシルヴィアへと向けられた。
「何がなんでも守り抜きたい。それは、シルヴィア殿に幸せになっていただきたいからです」
「……グートハイルさま」
「だから私は、命を捨てる気で挑むようなことは致しません。……お優しいシルヴィア殿は、私のように身勝手な男の死であろうと、悲しんで下さるでしょうから」
グートハイルは、叙勲式で騎士の誓いを立てるかのような恭しさで、シルヴィアに請う。
「私はあなたを傷つけた男です。――ですが、あなたをこの危機からお守りすることを、どうかお許しいただけないでしょうか」
「……っ、グートハイルさま……」
潤んだ声のシルヴィアが、彼の名前を呼んだ。
けれど、彼女は自分を許せないようで、ふるふると首を横に振る。
「駄目。……嫌よ、絶対に……!」
「……」
拒絶の言葉だ。
けれどもその声には、たくさんな複雑な感情が混じり、溢れ出してしまっているのだった。
「……グートハイルさまに何かあったら、どうするの……」
「……っ」
シルヴィアは、絞り出すように言い放つ。




