182 婚約者の確信
「アルノルト殿下は、最初から怪しんでいらっしゃったのですよね? だからあの晩、お忙しいご公務の合間を縫ってでも、私を歌劇に連れて行ってくださった……」
「……」
やはりアルノルトの行動は、驚くほど緻密に組まれているのだ。
リーシェがアルノルトと出会った日、彼の目的が外交のための夜会そのものではなく、ガルクハインを狙う存在の調査だったことにも言える。
あれ以前からも、ずっと調査をしていたのであろうアルノルトは、このタイミングでガルクハインにやってきた歌劇団を疑ったはずだ。そして恐らくは、その時点ですでにシルヴィアを警戒していた。
劇場の座席についたあと、こんな会話を交わしたことを覚えている。
『それにしても、今夜の主演が歌姫シルヴィアさんだなんて。彼女の歌声を聞くのは久し振りなので、すごく楽しみです』
『……以前にも、その役者が出る歌劇を見たことがあるのか』
リーシェがシルヴィアの名前を出した際、アルノルトは少しだけ、何かを考えるような沈黙を置いた。
あれは、アルノルトが疑っている諜報員に対し、何も知らないリーシェが賞賛を向けたことへの反応だったのかもしれない。
「……テオドールからオリヴァーを通し、あの翌日の状況は聞いている」
アルノルトが話したのは、シルヴィアがリーシェにお礼を言いに来てくれた日のことだろう。
「他国の城を、約束も無しに訪ねてくる人間はそういない。ましてや知名度のある歌劇演者が、そういった作法を学んでいないとも考えにくいものだ。命を救われたことを口実に、この国の中心人物に近付くことが目的としか思えない行動だった」
「……」
それを耳にしたグートハイルが、何かに思い至ったように額を押さえ、深呼吸をしてから口を開く。
「あの日、テオドール殿下のご命令でシルヴィア殿をお送りしたときからの疑問だったのです。何者かが、遠方からシルヴィア殿を監視している気配がありました」
「え……?」
シルヴィアが顔を上げ、躊躇いがちにグートハイルを見つめる。ようやく視線を重ねることの出来たグートハイルが、詫びるようにシルヴィアへと告げた。
「得体の知れない輩ではなく、ガルクハインの騎士による監視でした。ですが、他人に見張られているという事実は、女性にとって恐ろしいものでしょう? あなたに話すことを躊躇い、ただ黙ってお守りするしかないことを、申し訳なく感じていたのです」
「……だからあのとき、私を宿まで送り届けてくれたの?」
「当たり前でしょう」
グートハイルは、力強い声ではっきりと告げる。
「あなたを決して怖がらせず、そして守り切ることが、あのときの私の役割でした」
「……っ」
シルヴィアの両目に、じわりと涙が滲む。シルヴィアはそれを隠そうと、慌てたように俯いた。
「そ……そのようなお言葉をいただいて、びっくりしちゃったわ。……だけど、ごめんなさい」
シルヴィアは笑おうとしているけれど、声が震えているのは誰にだって分かる。
「もうお分かりでしょう? 私はガルクハインへの潜入を命じられた諜報役で、グートハイルさまにもそのために……」
「シルヴィア」
「!」
心にもない言葉を止めるために、リーシェは彼女の名前を呼ぶ。
「あなたが、そのためにグートハイルさまに近付いたのでないことは、グートハイルさまがよくお分かりのはず」
「え……」
リーシェがグートハイルを見ると、彼は真剣に頷いて言った。
「その通りです、シルヴィア殿。二度目にあなたにお会いできたあの日、私はあなたに父のことを打ち明けました。覚えていらっしゃいますか?」
「……忘れてないわ。あの日のことは、なにひとつ」
「あなたはあれで、お分かりになったはずです。私はこの国で疑われており、盗む価値のある情報など持ち合わせていないと。――それでもあなたは、私を真っ直ぐに見つめていて下さった」
「……っ!」
グートハイルにそう言われたシルヴィアの表情は、迷子になった小さな子供のようだった。
テオドールから、『他人の恋の機微に疎い』と言われたリーシェにだって、シルヴィアの恋心が嘘ではないのはよく分かる。
グートハイルの同席を願ったのは、他でもないシルヴィアだ。
諜報員だったことを認めたシルヴィアにとって、その罪が暴かれるであろう場にグートハイルがいることは、とても辛くて耐え難いことだろう。グートハイルもそれを気遣い、退室しようとしたはずだ。
「教えて、シルヴィア」
リーシェはそっと、シルヴィアを呼ぶ。
「あなたは確かに、諜報員だったのかもしれない。だけど、今は少しだけ違うのではないかしら」
「……リーシェさま……?」
「いまのシルヴィアは、これまで諜報を指示していた人の敵。――諜報員を辞めて、逃げ出そうとしているのではない?」
「!!」
その瞬間、シルヴィアが息を呑んだ。
「そうでなければ、あなたが最初の公演の日に、舞台で倒れた理由が分からないもの。もちろん、あなたの体調不良の原因が、毒や薬によるものだと仮定した上でだけれど」
だが、その前提が間違っていないとしたら、もう少し見えてくるものがあるのだ。
「仲間に組織から抜けられると、諜報員にとっては大きな危険に繋がるのよね? 誰かが辞めたがったとしたら、秘密が漏れないように殺すしかないと聞いたことがあるわ。シルヴィアは諜報を辞めたがる素振りを見せてしまって、その結果、警告として薬を仕込まれたようにも思えるの」
「……それは……!」
シルヴィアは明らかに狼狽している。舞台上の堂々とした姿とは違い、その様子がとても痛ましい。
「あそこでシルヴィアが倒れれば、諜報組織にとっても都合がいいわ。警備の騎士は、倒れたシルヴィアの救護に関わるはず。殺されることに恐怖心を抱いたシルヴィアは、すぐに考えを改めて、自分を助けてくれた騎士と接点を持つかもしれないもの」
「……」
「けれどもあの日、劇場で貴族エリアの警備を務めていたのは、普段の騎士さまたちではなかった。……私たちが観劇をする関係で、アルノルト殿下の近衛隊が配属されていたから」
そのこと自体は秘匿されていない。シルヴィアに諜報を指示した存在も、きっとその情報を得ていただろう。
(そんな日に薬を盛られ、歌劇が中止になったなら、シルヴィアはそれが『警告』だと察するわ)
警備に配属されたアルノルトの近衛騎士は、シルヴィアを救護するために動員されるはずだった。
咄嗟にリーシェが動き、近衛騎士たちに指示をしていなければ、状況確認のために近衛騎士の誰かが接触していたのは確実だ。
それによって、シルヴィアとの繋がりが生まれる。諜報指示役からしてみれば、近衛騎士から皇太子アルノルトや、ガルクハイン騎士団の情報が手に入れる好機だっただろう。
(だけど、アルノルト殿下はそれすらも先に読んでいらした……)
あの日の状況を、改めて思い出す。
(劇場の警備には、アルノルト殿下の近衛隊だけでなく、他所属の騎士さまたちも混ざっていたわ)
アルノルトは、近衛騎士隊を拡大していくための前段階だと言っていた。リーシェはそれを見て、アルノルトが兵力を大きくしたい理由があるのだと想像し、アルノルトが今後に大きな敵を見据えていることを知ったのである。
だが、あの夜に劇場の警備が厚かった理由は、将来の軍備拡大のためだけではなかったのだ。
(アルノルト殿下が大々的な観劇に行けば、諜報員がアルノルト殿下、あるいは近衛騎士に接触するかもしれないと最初から予想なさっていた。だからこそ、あの日の警備に他の所属の騎士さまを混ぜたのだわ。……テオドール殿下いわく、『優秀だけれど立場を与えられずに冷遇されている』人員、つまりは重大な情報を持っていない方々を……)
そのうちのひとりが、他ならぬグートハイルだ。
(私がシルヴィアの応急処置を終えたあと、控え室にいらっしゃったアルノルト殿下は、近衛騎士ではなくグートハイルさまを伴っていらしたわ。あのときは、未来の臣下をお連れになっていたことに、とっても動揺したけれど……)
だが、いまならアルノルトの思惑が分かる。
(倒れたシルヴィアを運び、『命を助けた』という接点を作る騎士に、ご自身の近衛騎士を選ばないため。――だから、騎士団で重要な位置につくことができないグートハイルさまをお連れになったのね)
そんな状況になったのも、リーシェたちが歌劇を観に行くと決まった際、劇場や劇団にそのことが通達されていたからだ。
(アルノルト殿下は、皇太子として人前に出る煩わしさをお嫌いになるお方だもの。あの観劇がお忍びでは無かったことを、早く疑問に思うべきだったわ……。ほかの貴族の注目を浴びる上、近衛隊による特別警備を敷くくらいなら、ひみつのお出掛けを選ばれるはずよね)
今更そんなことを考えつつ、リーシェは隣のアルノルトをちらりと見遣る。あまり興味のなさそうな横顔は、こんな状況でも美しい。
(まだまだ、このお方のことを掴み切れていないわ)




