181 歌姫の恋
「……っ!!」
グートハイルがその瞬間、弾かれたように立ち上がる。
シルヴィアに向けられていたこの場の視線が、一斉にグートハイルへ注がれた。
グートハイルはシルヴィアを見つめたあと、何かを言おうとして、悔しそうにかぶりを振ってから口を開く。
「……アルノルト殿下。リーシェさま。なにとぞ私の退室を、お許しいただけないでしょうか」
グートハイルの声音には、シルヴィアへの気遣いが溢れていた。
「私にお話しするべきことがあれば、今後どのようなことでも、洗いざらいお伝えすると誓います。しかし、この場に私が同席することは、シルヴィア殿にとって……」
「グートハイルさま」
「!」
シルヴィアが、彼の名前をはっきりと呼ぶ。
「ここにいてほしいわ。呼び出しにいらした騎士さまに、私からお願いしたの。……お話する場には、グートハイルさまも一緒に居てほしいと」
「……シルヴィア殿……」
グートハイルが拳を握り、ゆっくりと着座する。
騎士姿のラウルに促されたシルヴィアも、扉に最も近い場所、グートハイルの隣にある椅子へ座った。リーシェはそれを見守ってから、アルノルトを見上げる。
「アルノルト殿下……」
「まずは、お前の話したいように進めてみろ。どうせあの男もすぐには来ないだろう」
「……はい」
アルノルトの言葉に頷いたものの、切り出すには勇気が必要だった。
とはいえきっと、シルヴィアは覚悟を決めている。蠱惑的な印象を帯びた紫の瞳が、真摯にリーシェを見つめていた。
「お聞かせください。リーシェさま」
「……」
シルヴィアの折目正しい言葉遣いに、リーシェはとても寂しくなった。
けれどもいまは、会話をする方が先だ。その代わり、リーシェの方は何も変わらず、これまで通りの話し方をする。
「最初に気掛かりを感じたのは、シルヴィアがこのお城を訪ねて来てくれたとき」
そのときのことを振り返りながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「前日の夜、舞台の本番中に倒れてしまうほどの不調があったはずなのに、あなたは元気になったと言っていたわ」
「リーシェさまが応急処置をして、グートハイルさまが運んでくださったお陰です。一晩休んだら、すっかり元気になっていました」
「そういう症例もあるからと、一度は納得することにしたの。……だけど、急性の症状で失神したあと、すぐにある程度まで回復するのは、病の発作としては少ないわ」
グートハイルが心配そうに、ずっとシルヴィアを見つめている。
反対にシルヴィアは、先ほどグートハイルを引き留めて以降、一度も彼の方を見ようとしなかった。
「そうなると、病のように体の内側から生じる苦痛だったのではなく、外から摂取したものによる不調が考えられるの。例えば毒薬や眠り薬……それなら、薬が排出されたあとは比較的体調が戻りやすいし、私にも覚えがあるもの」
そう話したとき、アルノルトが僅かに眉根を寄せる。
このときリーシェが思い出していたのは、以前ドマナ聖王国で毒薬を受けたときのことだったが、アルノルトも同じ記憶をよぎらせたのかもしれない。
「『シルヴィアが、誰かに薬を飲まされた可能性がある』というのは、そのときから頭の片隅に置いていたの」
「……そうですね。熱狂的なファンや、役を競う相手に薬を盛られかけたことは、何度か経験がありますもの」
「ファンであれば、歌劇が中止になるようなタイミングはきっと避けるわ。あなたの役を狙う人がいたとしても、舞台の最中や直前に主演が倒れたら、中止になると分かっていたはず」
代役を狙って仕掛けるならば、もっと前もっての計画になるはずだ。
「それに、これは考えたくない事態だけれど……あなたに飲ませる薬は、数日の延期では回復できないようなものを選ぶのが自然だわ」
事実、歌劇は数日の休演を経たあと、またシルヴィアの主演で再開する。
犯人が役を狙っていたのなら、罪を犯した末、なんの利も得られていないことになるのだ。
「それでも警戒はしていたから、花びらの作り方を伝えに劇場へ行ったとき、それとなく劇団員の皆さんの様子を見てみたの。それだけでは、誰かが薬を使った可能性があるかなんて分からなかったけれど……そのとき、知ったことがあるわ」
リーシェは、シルヴィアの瞳を見つめて言った。
「シルヴィアは、気配を消して歩くことが出来るのね?」
「…………」
俯いたシルヴィアに代わり、グートハイルが慌てて口を開いた。
「差し出口を申し訳ありません。それは一体、どのような……」
「お前も気付いていたのだろう? グートハイル」
「!」
アルノルトが、グートハイルに向かって言い放つ。
「昨晩、お前が東屋に近付いて来た際、それを察したのは俺だけではない。雨が降りしきり、お前の足音は聞こえていない状況で、リーシェもお前の気配を読んだ」
すると、グートハイルはごくりと喉を鳴らしてから呟いた。
「……私の思い違いでは、なかったのですか。確かにあのとき、おふたり分の注視があったのを、暗闇の中で感じましたが」
(やはり、グートハイルさまも相当な手練れだわ。雨の日はそういった感覚を得にくいのに、的確に……)
アルノルトは背凭れに身を預け、リーシェに代わって気怠げに続けた。
「馬車の中で微睡んでいるときにすら、俺が手を伸ばしただけで目を覚ましてみせるほどだ。気配を消していなければ、リーシェは大抵の人間の気配を読む。……だからこそ」
アルノルトには、事前に全てを話してある。リーシェは頷いて、グートハイルに説明した。
「私は今日、劇場を訪れた際、シルヴィアの気配に気付けなかった瞬間がありました。考えごとをしていたとはいえ、シルヴィアが後ろから抱き付くまで、彼女が近くにいることが読めなかった」
それはきっと、シルヴィアが気配を消していたからだ。
それ自体に他意は無かったのだろう。
リーシェを驚かせるための戯れで、足音を消しながら、無意識に気配も絶ってしまったのかもしれない。
だが、いくつかの情報を統合していくうちに、じゃれあいですらも違和感の原因になってしまった。
シルヴィアは俯いたまま、小さな声で言葉を紡ぐ。
「リーシェさまの、仰る通りです」
「っ、しかし……!」
グートハイルが、シルヴィアを庇うように口を開いた。
「それだけで、シルヴィア殿に疑いの目を向けることは出来ないはずです」
「グートハイルさま。それは……」
リーシェが言い淀んだのは、グートハイルの前で口にしたくないことだったからだ。
だが、その逡巡を見透かしたシルヴィアが、寂しい微笑みでこう言った。
「リーシェさま、どうぞあなたのお考えを。……あるいは、私からお話しした方が、良いでしょうか?」
「いいえ、シルヴィア」
彼女自身に言わせるのだけは、リーシェが最も避けたいことである。だから、シルヴィアを遮って、リーシェが説明を続けた。
「諜報には、いくつかの方法があります。たとえば、自ら目的地に潜り込んで情報を得る方法」
ラウルの変装はそれに当たる。だが、官僚であろうと、騎士であろうと、上層部に所属できるのはこの国の貴族だけだ。
ラウルが城壁で説明してくれたように、ガルクハインでその手段を取ることは難しい。
「ほかには、すでに情報を持っている人から得るという手段があります。この国の貴族にはなれなくとも、貴族とお友達になることは出来ますから。そして……」
「――それには主に、女の諜報員が使われる」
「!」
アルノルトが、リーシェに先んじてそう告げた。
(アルノルト殿下……)
恐らくは、リーシェにその言葉を言わせないようにする、アルノルトの遠回しな気遣いだ。
ラウルだって、城壁の上では言及を避けていた。狩人人生でも、リーシェの前では禁句になっており、遠ざけられていたのを覚えている。
グートハイルが眉根を寄せ、考え込むように口を閉ざした。シルヴィアはずっと俯いていて、表情を窺うことも出来ない。
けれど、シルヴィアがこの場にグートハイルを呼んで欲しがったのは、この話のためであると気付いていた。
「――各国を旅して回る歌劇団で、シルヴィアが恋多き歌姫だという噂は、たくさんの人が耳にしていたはずだわ」
彼女はそれを、歌のためだと言って笑っていた。
けれど、そこには他の理由があったのではないだろうか。奔放な美女という先入観を利用し、各国の官僚に近付いて、情報を探るためだったのだとすれば。




