177 甘やかな苦しみ
リーシェとシルヴィアがじゃれあっているのを、劇団の人々は微笑ましそうに眺めている。
シルヴィアは、彼らに聞こえないよう配慮してくれつつも、蠱惑的な紫色の瞳で見上げてきた。
「キスしてないの? 本当に?」
「し、してない……」
「じゃあ、一回も?」
「!!」
その瞬間、礼拝堂での出来事が脳裏に過ぎる。
シルヴィアの慧眼は、リーシェの動揺を見逃してくれない。つんつんとまたほっぺをつつかれて、リーシェは俯いた。
「……い、一回だけ…………」
「ほらーっ!」
シルヴィアから嬉しそうに抱き締められて、居た堪れなさに顔を覆った。熱くなる頬を隠しながらも、リーシェの思考はぐるぐる回る。
(い、一回よね……!? 以前、殿下に口移しで解毒剤を飲ませていただいたことがあったのは、あれは二回目……ではなくて、救命行為!!)
そんなことを考えているうちに、他の心当たりもどんどん生まれて混ざり始める。
(指輪を贈られたとき、手の甲に口付けをされたのは? 手の甲にキスは、私からも殿下にしたことがあるし……。それに昨日は、髪や耳にたくさん……!!)
「ふふふーん?」
どんどん顔が火照っていくリーシェに、シルヴィアはにんまりと笑って手を挙げる。
「団長! 私、ちょっと休憩してもいい? リーシェにも休んでもらわないと!」
「ああ! 配慮が足りず申し訳ありません、リーシェさま」
「い、いえ、滅相もなく……!!」
そしてリーシェとシルヴィアは、客席の奥、舞台から離れた後ろの方に座った。
「あははっ、ごめんごめん! ちょっとリーシェが可愛くて、からかいすぎたわね」
「わ、私のことより!」
リーシェは慌てて誤魔化しつつ、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「私だって、シルヴィアの話を聞きたいわ。たとえば、グートハイルさまとのこととか」
リーシェが内心で思い出すのは、昨日グートハイルと交わした会話だ。
「あれから何か、グートハイルさまと進展はあったの?」
「ふふ、私?」
シルヴィアは、前の座席の背もたれに腕を掛けて頭を乗せる。そして、リーシェのことを見上げた。
「ありがとう。リーシェのお陰で順調よ」
「順調!!」
ほんの数日のことだというのに『順調』というのはどれくらいの進度なのだろうか。
リーシェが想像できないでいると、シルヴィアはくすっと笑う。
「違うの、順調なのはお付き合いの進展度合いじゃなくて……あ、でも、そっちに関しても報告しておくべきよね? 実は一昨日のデートで、私からキスをしようとしたんだけど」
(一昨日のデートでキス……!!)
一昨日というのは、シルヴィアが皇城を訪れた日のことだ。
つまり、彼女がグートハイルと再会し、テオドールの計らいによってシルヴィアが送り届けられた当日のことである。
進んでいないどころか、リーシェにとっては遥か先の道だ。目をまん丸くしていると、シルヴィアは柔らかく笑った。
「本当に誠実な人なのね、それは駄目だって止められてしまったわ」
「え……それじゃあ」
「ふふ。順調だって言ったのは、歌の方」
「歌?」
「私にとっての恋は、歌のためだもの」
そう言ってシルヴィアは、ゆっくりと目を瞑る。
「歌を歌うために生まれて来たわ。女神さまに歌声を授けられていなかったら、きっといまごろ死んでいた……私が色々な恋をするのも、すべては歌に活かすためよ」
「グートハイルさまへの恋も、歌のため?」
「そう! だから、順調なの。グートハイルさまの生真面目さは、私にとっては新鮮だから……この恋はきっといままでで一番、私の歌の糧になる気がするわ」
その瞬間、リーシェはあることに気付いてしまった。
(まるで、自分に言い聞かせているかのよう……)
歌っているシルヴィアの声は美しく、柔らかで凛としていて力強い。劇場のどんな席に座っていても、はっきりと歌詞まで聴き取れる、そんな性質を持った歌だった。
けれども、いまは違う。
彼女が紡いだその声音は、溶ける花びらのように儚くて繊細な、耳を澄まさなければ聞き逃してしまいそうな音だ。
「ねえ、シルヴィア」
リーシェは、彼女と同じようにして、前座席の背に腕を乗せる。
そこに頭を置いて、シルヴィアと同じ目線で向き合った。彼女は少し驚いたようで、紫色の瞳を瞬かせている。
「歌の糧になるのは、どんな恋?」
「……それは」
「私にも教えて。……聞いてみたいの」
「…………」
シルヴィアは、僅かに逡巡する素振りを見せたあと、そうっと紡ぐ。
「……どきどきしたり、嬉しくなったりするだけじゃなくて……。その人のことを考えると、胸が苦しくて、泣きそうになるわ」
「――……」
リーシェは微笑み、相槌を打つ代わりに頷いた。
「会話が終わるのが嫌で、少しでも長く続けたくて、くだらない話ばかり出てきちゃう。言葉を交わせるだけで幸せなのに、とても怖いの。おかしいわよね」
その言葉には、小さく首を横に振った。
「おかしくなんかないわ、シルヴィア」
「……ありがと」
シルヴィアはどこかほっとした苦笑を浮かべて、もっと色んなことを教えてくれる。
「キスを止められて、そんな人初めてだからびっくりしちゃった。私と付き合うつもりがなくても、ちょっとキスしてくれるくらい良いじゃない?」
「んんん……。その価値観は、人によると思うけれど……」
「そういう発見を得られるのも、恋の面白いところよね。初めてのことも、いっぱいあって」
やがてシルヴィアの表情から、柔らかな笑みが消えた。
「……リーシェは、具合が悪いとき、誰かにぎゅうっと抱っこをされて、『大丈夫だ』って言ってもらえたことはある?」
その問いに、リーシェはぱちりと瞬きをする。
「私は物心ついたときからひとりぼっちで、色々な歌劇団に身を寄せて、歌を歌いながら必死に生きてきた。子供のころ、病気やひどい怪我で起き上がれなくなるたびに、『私をここに捨てていかないで』って祈り続けたわ」
「シルヴィア……」
「……リーシェに助けてもらった、あの日が初めてなの。グートハイルさまは、私を抱きかかえて運んでくれたでしょう?」
大切な思い出を慈しむように、シルヴィアは静かに瞑目した。
「あのとき、お医者さんのところに着くまでのあいだ、グートハイルさまはずっと声を掛け続けてくれたの。『大丈夫です』って、『傍についていますから』って、私を励まし続けてくれたわ」
そしてシルヴィアは下を向き、背凭れに乗せた腕に、額を押し付けるように俯いた。
「あんなにも、『ひとりじゃない』って思えたのは、本当に生まれて初めてだったの」
「…………」
リーシェは緩やかに上半身を起こし、顔を隠したシルヴィアの言葉を聞く。
「私は歌姫で、恋多き女だって噂が流れてるでしょ? 誰とでも恋人になると思われて、すぐさま愛を囁かれたわ。私もそれでいいと思っていた。……だけどあの人は、リーシェのお陰で再会できた直後、一番に私の体調を心配してくれたのよ」
「シルヴィアは、それが嬉しかったのね」
「……!」
シルヴィアは少し考えるそぶりを見せたあと、こくん、と小さく頷いた。
「……嬉しかった」
前席の背凭れに突っ伏したシルヴィアの声は、揺れている。
「私にただ触れる目的ではなくて、病み上がりを気遣うために差し伸べてくれた手が、あったかかった。夜道のひとり歩きは慣れてるからって笑ったのに、絶対に譲らずに、扉の前まで送り届けてくれた」
それは、大切な思いをひとつずつ噛み締めて、宝箱に仕舞っていっているかのように恭しい言葉だった。
「どうしよう、リーシェ」
顔を上げたシルヴィアは、その紫色をした双眸から、宝石のような涙をいくつも零していた。
「すごく苦しいのに、この気持ちが大切なの。……こんな恋をしたのは、初めてで」
「シルヴィア……」
「……ううん。違うんだわ、きっと」
そして彼女は、独り言のように呟くのだ。
「私が誰かに恋をしたのは、これが生まれて初めてだった……」
シルヴィアはそう口にしたあと、たまらなくなったようにくしゃりと顔を顰める。
リーシェにぎゅうっと抱き付くと、泣きじゃくりながらこう言うのだ。
「わ、私とは、恋人にはなれないって。グートハイルさまも好きだと思ってくれているけれど、駄目なんだって」
「……っ」
「でも、私自身が一番分かってるの。私は身寄りもなくて、騎士さまにふさわしくない人間で、だから、結ばれなくて当たり前なのに」
「シルヴィア、それは絶対に違うわ……!」
抱き締めたシルヴィアの背中を撫でながら、リーシェはそっと彼女をあやす。
「第一にグートハイルさまは、そんなことで人を拒絶するようなお方ではないのでしょう?」
「もちろんだわ。だけど、誰よりも私自身が、彼の傍にいる自分を認められない……! 私は歌うために生まれてきて、歌うために生きていると思っていたのに、もう歌えないかもしれないと思うほどに心が苦しい」
そう言って震えるシルヴィアは、小さな子供のようだった。
「……好きな人がいるって、こんなに苦しいことだったの……?」
寄る辺なく呟かれたその言葉に、リーシェはくちびるをきゅうっと結ぶ。
(……どうしてかしら……)
シルヴィアの言うその苦しさに、リーシェも不思議と覚えがあるような気がした。
それはきっと、心臓の脈打つ左胸の辺りで、泣きたくなるような切なさと共に生まれるものなのである。
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