176 花降る支度
「ありがとう、リーシェ!! これを使わせてもらえるなら、劇場の片付け時間が減って、準備が随分と簡単になるわ!」
大劇場の舞台の上で、リーシェの持ち込んだものを目にしたシルヴィアは、きらきらと目を輝かせた。
観客の入っていない劇場は、話し声が反響してよく通る。歌劇団は、シルヴィアの体調不良で延期になった公演の再開に向けて、絶賛調整中だそうだ。
この日も全員で劇場に入り、延期になった分でもっと良くしようと、細やかな練習などを重ねていたらしい。
そんな劇場内に招かれたリーシェは、作戦机となった舞台の上で、歌姫シルヴィアをはじめとする劇団の人々に目的のものをお披露目していた。
シルヴィアが両手にすくいあげているのは、リーシェの錬金術によって作られた人工花びらだ。
雪にも見え、時間が経つと消えてしまう花びらの説明をすると、歌劇団の人々はとても喜んでくれた。
「り、リーシェさま。ええと、質問をよろしいでしょうか……」
「ええ、どうぞお気軽に!」
「あ、ありがとうございます、それでは。この花びらは白ですが、着色することは出来るのですか?」
「はい! 着色料によって薬品の比率が変わるので、事前に検証は必要ですね。それよりも、溶けたときに着色料が残ってしまうので、問題はどちらかといえば――」
「リーシェさま、その……大量に作りたいときはどのようにすればいいでしょう?」
「混ぜるときに重たくなってしまうので、ムラが出来ないようにするのが一番大変かもしれません。意外と体力勝負です!」
色々な質問や案が出てくるため、ひとつひとつに答えてゆく。劇団側から出てくるものは、錬金術師としてのリーシェには無い視点も多く、とても楽しくて刺激的だ。
だが、対する劇団の人々は、どこか遠慮がちでもあった。
「り……リーシェさま。その、もうひとつお尋ねしても……」
この人工花びらに興味があるものの、聞きにくいという表情も見られる。
もっともそれは、リーシェに対しての気まずさというよりも、他に理由があるのだった。そのことは、一目瞭然だ。
(それはもう、気になって当然よね)
そしてリーシェは、観客のいない座席の最前列中央へ気だるそうに座り、肘掛けに頬杖をついている人物を見遣った。
舞台からそっと見下ろしても、その容姿は息を呑むほどに美しい。彼がこの劇場に立つ花形役者なのだと嘘を吐かれたら、誰だって信じてしまいそうなほどだ。
けれどもその人物は、もちろん役者ではない。
(――一国の皇太子殿下が、歌劇演出の打ち合わせの場に同席しているんだから……!!)
この場にいるアルノルトは、心底興味のなさそうな表情で、リーシェと劇団の話し合いを眺めていた。
(うう。まさか、本当にアルノルト殿下が同席して下さるだなんて……)
このことが決まったのはつい昨日、東屋での雨宿りを終えたあと、カンテラを回収して離宮に戻るまでの道すがらだ。
『それで、アルノルト殿下。先ほどお見せした人工花びらについて、シルヴィアや歌劇団の方にご紹介したいのです』
『……ああ』
『延期になった公演の再開はもうすぐですし、作り方の説明をしなくてはならないので、シルヴィアひとりをお城に招くのでは大変かと。かといって、このタイミングで歌劇団の方々を大勢呼ぶのは……』
リーシェが言葉を濁したのは、アルノルトの父を気にしての発言だったからだ。
先ほど鉢合わせてしまったことで、現皇帝からの注視をされている可能性がある。
そして、アルノルトが諜報員の潜入を警戒しているということであれば、皇帝も同様だ。なんらかの情報筋から、アルノルトと同じ考えに辿り着いていてもおかしくはない。
いまのリーシェが、外から客人を招くことは、きっと控えた方がいい。
そう思っての発言を、アルノルトはすぐに察してくれたようだった。
『こちらから歌劇団に出向きたいのか』
『はい、殿下にお許しいただけるのであれば。お忍びとして歌劇団を訪問し、お話したいのですが……』
『言っただろう。お前がやりたいと望むことは、俺が叶えられる限り叶えてやる』
アルノルトの言葉を嬉しく思い、リーシェは頬を綻ばせてお礼を言った。
『ありがとうございます、アルノルト殿下!』
『早い方がいいのだろう? 明日の午前に調整する。支度をしておけ』
『…………んんん?』
調整とは、一体どういうことだろうか。
『あ、あの殿下、大丈夫です。さり気なくお出掛けして、すぐに戻って参りますので、護衛の方々を手配いただく必要はなく……』
『護衛はつけない。人数が多いと目立つからな』
『そ、そうですよね? では、調整と仰いますと』
『俺も同行する』
その言葉に、リーシェは目をまんまるく見開いた。
『お前の元婚約者を伴った公務は、そのあとの午後に行えばいいだろう。お前の目的は1日で済ませられる、それで構わないな?』
『待……っ、お待ちください!! ものすごくご多忙なアルノルト殿下に、私のお忍びにまでお付き合いいただく訳には参りません!!』
『何を言っている』
アルノルトはその左手に、火の消えたカンテラをふたつ持っている。
そして右手をリーシェに差し出し、夜道で転ばないようにエスコートしてくれていたのだが、こちらを見ないままきっぱりと言ってのけたのだ。
『お前が城下に出るときは、必ず俺も同行すると言っただろう』
(確かに、仰いましたけれど……!!)
まさか本当に、アルノルトにとってなんの意味もないであろう外出に対し、公務を調整してまで付き合ってくれるとは思ってもみない。
そしてアルノルトは、お忍び用の衣服を纏い、同じくお忍び姿のリーシェと共に劇場を訪れたのである。歌劇団の人々は、当然ながら絶句していた。
(皆さん緊張なさるわよね……。とはいえ)
リーシェはさりげなく辺りを見回し、劇団員の様子を見る。
この劇場にやってきた目的は、花びらの技術を伝える他に、もうひとつあった。だが、そちらの方はこれ以上調べるのは難しそうだったので、ひとまずは息をつく。
「アルノルト殿下」
説明がひと段落したリーシェは、舞台からふわっと飛び降りた。このくらいの高さなら無音で着地も出来るのだが、公爵令嬢としては不自然な動きのため、とんっという着地音を立てておく。
「お待たせしていてごめんなさい。実際に使って試してみるとのことですので、もう少しだけ」
「構わない。急がなくていいから、気の済むまでやりたいようにしろ」
そうは言ってもらえるものの、心苦しいのも確かだ。
そこへ、アルノルトの従者であるオリヴァーがやってくる。この後はすぐに公務に移行するため、お忍び姿とはいえど、オリヴァーも同行していたのだ。
「アルノルト殿下。お申し付けの件について、調整が完了したようです。午後からこちらに合流するかと」
「そうか。分かった」
(合流? ディートリヒ殿下のことかしら)
「それと、この件で少しだけ。人目を避けたく、席をお立ちいただいてもよろしいですか?」
「……」
あからさまに面倒臭そうな顔をして、アルノルトが立ち上がった。
「いってらっしゃいませ、アルノルト殿下」
リーシェが見送りの言葉を掛けると、アルノルトはその青い瞳で数秒だけ、リーシェのことをじっと見つめる。
「……殿下?」
そうして何故かアルノルトは、その手でリーシェの背を抱き寄せるのだ。
その上に、耳元へ口付けでもするかのように、くちびるを寄せた。
「……リーシェ」
「びゃっ!!」
くすぐったさに驚いて、思わず妙な声が出てしまう。アルノルトはそれを受けて、小さく笑った。
(な、なななな、なに!?)
けれどもアルノルトが口にしたのは、リーシェにとって驚くべき言葉だ。
「――グートハイルを呼び寄せる。午後は奴も一緒だ、そのつもりでいろ」
「え……」
アルノルトは、グートハイルを否定したのではなかったのか。
リーシェが息を呑むと、身を離したアルノルトがこちらを見下ろし、目をすがめるようにして笑った。
「すぐに戻る」
「……いって、らっしゃい……」
呟くように告げたリーシェは、アルノルトとオリヴァーが客席内から出ていく姿を、動揺しながら見送った。
(どうして? やっぱりアルノルト殿下はこれまでの人生通りに、グートハイルさまを臣下に加えるということなの……?)
だが、昨日の今日で心変わりした理由が分からない。困惑していると、どんっと背中に衝撃が来る。
「もおおっ、リーシェ!」
「ひゃああ! び、びっくりした……!!」
完全に不意をつかれたが、リーシェの背中に抱きついてきたのは、興奮した様子のシルヴィアだった。
「ねっ、ね、なにいまの!! 皇太子殿下から、お耳にキスでもされてたの!? つまりはお見送りのキスってこと!?」
「!? ち、違うわ、いまのはそういうのじゃなくて!!」
そういえば先ほどのやりとりは、オリヴァーやシルヴィアのみならず、舞台上の劇団員全員に見られていたかもしれないのだ。
(というか人目があったからこそ、内緒話の耳打ちであることを隠すために、アルノルト殿下は婚約者同士の戯れっぽくなさったのよね!? そ、そういうことなんだわ。でも……!!)
「うふふ。お顔を真っ赤にしちゃって、リーシェったら可愛い! 婚儀のキスであんなに悩んでたくせに、日頃からいっぱい皇太子殿下とちゅーしてるんじゃない!」
「し、してないの!! していないから、本当に……!!」
後ろから抱きついたままのシルヴィアに、赤くなった頬をむいむいとつつかれて、リーシェは大慌てで弁解する。
なんというか、恥ずかしさのあまりに座り込んでしまいそうだ。




