173 喜びと祝福を
アルノルトの持つ底知れなさは、ある種の魔性とも言えるだろう。
これほど緊張した空気でなければ、思わず見惚れてしまっていたかもしれない。
そんなことなど知らないであろうアルノルトは、目を伏せる。
「お前の元婚約者は、もうしばらく俺が監視する。だが、お前は些事など気に掛けなくて良い」
「そういう訳には参りません」
リーシェはなんとか息を吐き、アルノルトにねだった。
「次のご公務は、私も同行して良いですか? ご迷惑をお掛けしないようにいたしますので……」
「……」
するとアルノルトは、眉根を寄せたあとでこう言った。
「仕方がない。……お前にねだられたことは、叶えられる限り叶えると約束した」
「ありがとうございます、アルノルト殿下!」
ぱっと笑顔を作ったら、アルノルトは溜め息をつくのだった。
それを不思議に思っていると、彼がリーシェから視線を外す。
東屋の屋根を、雨の雫が叩いたからだ。
「通り雨ですね。恐らくは、すぐに止むかと」
「お前が言うならば、そうなんだろうな」
「お時間は大丈夫ですか? もう少し、ここに居ませんと……」
そう言いながら、リーシェも屋根を見上げてみる。そして、そこで初めて気が付いた。
屋根を支えている四本の柱には、四季を告げる少女の姿が彫り込まれているのだ。その意匠は、この世界で生きる多くの人々にとって、ある程度見慣れたものである。
(この東屋。柱や手摺りの装飾に、クルシェード教のモチーフが使われているんだわ)
クルシェード教は、世界でも大多数の国が信仰しているものだ。とりわけ貴族や王族ともなれば、敬虔な信徒は大勢いる。
けれど、この城にクルシェード教をモチーフにした休息所があるのは、きっと理由があるのだろう。
(ひょっとして、ここは……)
リーシェがそんな風に考えたことは、アルノルトにも悟られたのだろう。
アルノルトは、リーシェが見上げた柱を同じように眺めたあと、どうでもよさそうに口にした。
「生きている人間のいなくなった建造物は、すぐに朽ちるものだと思っていた」
それは、とても淡々とした声だ。
「だが、誰ひとり手入れをする人間が居なくとも、案外保持されているものだな」
「アルノルト殿下……」
「もっともこの東屋は、一度も使われたことがないはずだが」
アルノルトはきっと幼い頃、塔の中に居たことがあるのだろう。
そして恐らくは、この東屋の存在も知っていた。そんなことが想像されて、リーシェの胸が苦しくなる。
(この柱に刻まれている、クルシェード語の文字は、愛し子の生誕を祝うもの……)
恐らくは、クルシェード教の信仰する巫女姫だったアルノルトの母と、生まれてきたアルノルトのために造られた東屋なのだ。
けれども先ほどのアルノルトは、『一度も使われたことがない』と話してみせた。
この東屋は、アルノルトの母の意思ではなく、形式的に建てられたものということなのだろうか。
(誕生日が、周囲の大切な人に祝われる日であることを、アルノルト殿下はご存知なかったわ)
小さなアルノルトのことを想像すると、なんだかリーシェの方が、声を上げて泣きたいような気持ちに駆られた。
それに、と思う。
(先ほどのアルノルト殿下が、お父君のことを見上げたとき、抑え込まれた殺気が存在していた)
遠く離れていたから、現皇帝には読み取れていないだろうが、リーシェにははっきりと伝わってきた。
けれど、そんなことは問題ではない。
(一方で皇帝陛下の殺気は、隠すつもりもなさそうだった。遊ぶような、挑発するようなものであって、本気ではないことが窺えたけれど……)
あのときのことを思い出して、リーシェはぎゅっと両手を握りしめる。
(――あの殺気が向けられた先は、私でなく、実子であるアルノルト殿下)
アルノルトの実の父親が、あれほどまでの殺気を注いできたのだ。
アルノルト自身も、そのことには気が付いていただろう。その上で、当てられたリーシェを庇い、守ることに徹してくれたのだ。
「……早く、十二の月になってほしいです」
泣きたくなるような苦しさを堪えつつ、リーシェが唐突にそう言うと、アルノルトが怪訝そうな顔をする。
「アルノルト殿下のお誕生日に、たくさんのお祝いをさせていただきます。二十歳のお誕生日ですので、過去二十年分の全部を取り戻すような、盛大なお祝いを致します!」
「…………」
アルノルトは、少し考えるような仕草のあとに、訂正するように告げてくる。
「……婚姻の儀の方が、それより先だぞ」
「こ、婚姻の儀も、もちろんちゃんと通過した上でですけれど!」
「忘れていないなら良い」
忘れるはずもない。婚儀のキスで、リーシェがこの所ずっと頭を悩ませていることを、アルノルトは知らないからそう言えるのだ。
「その前に、お前の誕生日もだ」
「……っ、そのことは、あとで……」
今は、アルノルトの誕生日のことである。リーシェは彼の袖をつんと引きながら、熱心に説いた。
「アルノルト殿下が生まれて来て下さったことの、そのお祝いですからね。ちゃんと、覚悟なさっていてくださいね?」
「……」
するとアルノルトは、目を細めてぽつりと口にする。
「……他の幾人もを犠牲にして、その上に生きている人間の、生誕を祝う必要が何処にある?」
「……っ」
雨音に掻き消されそうなその言葉は、きっとアルノルトの本音なのだ。
どこか空虚にも聞こえる響きが、アルノルトの放つ声には珍しかった。彼が紡ぐ音は、それほど大きくない声だって、いつだってはっきりと聞こえるはずなのに。
「――私は」
だからこそリーシェは、アルノルトの方に両手を伸ばす。
その頬をくるみ、口づけをする前のように、逸せないように引き寄せてその目を見た。
「あなたに出会えて良かったです。たとえ、何かの運命で、あなたに殺されることになったとしても」
アルノルトが僅かに息を呑む。
その揺らぎを、青色の瞳にはっきりと感じながら、リーシェは告げた。
「アルノルト殿下が、この世界に生まれて来て下さったことに。……その生誕に、感謝と祝福を捧げたい……」
「――――……」
アルノルトは、ごく緩やかに目を伏せる。
そして、リーシェの手にやさしく自身の手を重ねると、右手をそっと離させた。
残ったリーシェの左手へ、まるで甘えるように頬を摺り寄せてくる。
どこか幼いその仕草に、リーシェの心臓がどきりと跳ねた。
「リーシェ」
「っ、は、はい……」
「……例え話でも、俺がお前を殺すなどと口にするな」
少し拗ねたような言い方にも聞こえて、きゅうっと胸が苦しくなる。
とはいえ、確かに例が悪かったと反省した。アルノルトに以前指摘された通り、リーシェは自分の命についてを、少々軽く扱いがちなのかもしれない。
「ご、ごめんなさい……」
「いい。……お前が、俺に何を言いたいかは分かった」
けれどもそれは、きっとただ、言葉の意味を理解したというだけなのだろう。
いま告げたことで、アルノルトの心までを変えられたとは思わない。けれど、再びリーシェの髪を撫でてくる触れ方は、先ほどまでよりも更にやさしいのだ。
アルノルトが、リーシェの前髪を指で梳く。
「先ほどは、無体を強いたな」
「むたい?」
心当たりがなくて首を傾げると、いささか呆れたような視線が向けられた。
「髪とはいえ、口付られるのは嫌だっただろう」
「びゃ……っ!?」
思い出して、リーシェはぴっと背筋を伸ばす。
「い……」
確かにあのときは、色んな意味で心臓が止まってしまうかと思った。
アルノルトに抱き寄せられ、撫でられて、何度も髪に口付けをされたのだ。
ちゅ、と何処か可愛らしい、それでも死ぬほど恥ずかしくなるような音を何度も立てて、めいっぱい甘やかす演技をされた。
こうして今、あのときのことを思い出すだけで、顔が熱すぎるほどに火照ってしまう。
(で、でも。だけど!!)
きちんと伝えておかなければと、リーシェは両手で口元を覆いつつ、目を逸らしてもごもごと彼に告げた。
「……嫌では、なかったです……」
「………………」
ぴたりと手を止めたアルノルトが、ほんの僅かに目をみはる。
「だ、だって! 私を庇うためにして下さったことだと、分かっていますし……!!」
俯いて、慌てながらも付け加えた。
「アルノルト殿下が、すごくやさしくして下さったのも伝わりましたし。恥ずかしかったし、くすぐったかったですが、怖くなかったです! ……嫌では、ないです……」
すると、僅かな沈黙のあと、アルノルトにしては何処かぎこちない相槌が返される。
「…………そうか」
「し、信じていらっしゃらないですね……!? ほ、本当に、嫌ではありませんでした……!!」
「……別に、信じていないわけではない……」
「……!?」
ならば何故、そこで溜め息をつくのだろう。




