172 未来の片鱗
「俺の考えをここまで読むのは、お前の他に知らない」
アルノルトは無表情だが、それでいてとても柔らかいまなざしをしている。リーシェの横髪を梳くように撫でる手も、同様にやさしいのだった。
だから、リーシェは少し拗ねてこう尋ねる。
「……私を甘やかそうとなさっているでしょう」
「ふ」
すると、アルノルトはかすかに笑った。
「ほらな。見事に読んでみせただろう」
「もう……」
抗議をすると共に、どこかくすぐったい気持ちにもなった。
先ほど現皇帝に接触したときも、いまこの瞬間も、アルノルトが労ってくれているのを感じるからだ。
とはいえ、あまりふわふわしてもいられない。
リーシェは、アルノルトに髪を撫でられながらも、彼の目を見つめて考える。
「ファブラニアを操っていた存在が、私の故国エルミティにも接触していたとして」
エルミティ国は小国だ。ガルクハインへは移動の際、拓かれていない森や山を抜ける必要があるため、それほど往来が盛んではないという背景がある。
道も細く、軍隊の行軍に適していないのも、ガルクハインがエルミティ国を過去に侵略しなかった一因なのだろう。
しかし、ガルクハインとはそれほど距離が離れていない。
『武装した大人数の移動が困難である』という点を除けば、ガルクハインに何かを仕掛ける際、エルミティ国が選ばれてもおかしくはないのだった。
「その存在は、国王陛下に極秘でディートリヒ殿下を操るために、『婚約破棄』を唆したのでしょうか。国王陛下は知っていればディートリヒ殿下を叱責なさったでしょうから、ディートリヒ殿下がお父君には秘密にする理由にもなりますし」
「そもそもが、おかしいに決まっているんだ」
アルノルトは、ディートリヒの話題に対して不機嫌そうに眉根を寄せる。
「普通は公衆の面前で、一方的な婚約破棄を突きつけたりはしない」
「……ディートリヒ殿下は、『そういうことをしかねないお方』という印象が、あの場にいた全員の共通認識でして……」
一回目のリーシェも、婚約破棄そのものには驚いたが、ディートリヒが夜会の場でそれを宣言したという振る舞いには疑問を持たなかった。そのため、ついつい自然に流してしまったのである。
(ディートリヒ殿下の行動をおかしいと思えたのは、他国からいらしていたアルノルト殿下くらいかもしれないわ……)
リーシェはそのことを反省した。
(婚約破棄の夜会が『黒幕』の目論見なら、やっぱりあれから一年後に起こるクーデターだって、その存在が絡んでいる可能性が高い)
そう思い、小さな溜め息をつく。
「アルノルト殿下があの晩、夜会のホールにいらっしゃらなかったのは、『黒幕』の調査のためですか?」
「俺を呼び出すことが狙いであれば、ひとりになった方が炙り出せる」
(ま、また当然のように、ご自身が第一線に出る前提でいらっしゃる……!)
そういうものは普通、狙われている本人が動くものではないはずだ。もちろん、アルノルトは誰よりも強いのだけれど、やはり心配になってしまう。
「あの夜に、成果はありましたか?」
そう問うと、アルノルトは僅かに目をみはった。
何かに驚いたのだろうか。リーシェが不思議に思っていると、アルノルトは再び表情を和らげて、微笑みに近い表情で口にするのだ。
「……ああ。得たものはあったぞ」
「え! それは一体……」
アルノルトが、青色の目をわずかに細めてリーシェを見る。
そして、期待を込めて見上げるリーシェに、思わぬことを告げてみせた。
「――……お前を見付けた」
「……!!」
その言葉に、今度はリーシェが目を丸くしてしまう。
「っ、あわ、あの、そうではなく……!!」
「まあ、見付けた数分後には、バルコニーから飛び降りて逃げられてしまったが」
「お忘れ下さいその件は!!」
あのときは、二度とアルノルトに会うこともないだろうと考えて、なりふり構わず走り出してしまったのだ。
まさかそのあとに求婚され、こうしていまも傍にいるだなんて、思ってもみなかった。
リーシェが真っ赤になったのが楽しいのか、くつくつと喉を鳴らしてアルノルトが笑っている。リーシェはそれに対する不服を表明しつつ、考えられることを想像した。
(今回の人生では、すでにたくさんの経験を得たわ。いままでの人生において、伝聞で聞いていた事件の全容が、事実と違うことだってたくさんあった……)
アルノルトは冷酷なだけの人間ではなかったし、コヨル国には宝石の枯渇という運命が隠されていた。先代巫女姫は、世間で公表された時期に亡くなったわけではなく、悪女とされたハリエットの処刑には黒幕がいたのだ。
同様に、故国でディートリヒの起こしたクーデターも、リーシェが知り得ない裏の目的や事実があったのかもしれない。
「ひょっとして。アルノルト殿下が、ご公務にディートリヒ殿下をお連れくださるのは、『黒幕』についての調査のためですか?」
すると、アルノルトは露骨な顰めっ面をした。
「当たり前だろう。政治的な理由を除いて、俺があの男の相手をしてやる理由があると思うのか」
「だって、アルノルト殿下はおやさしいですし、案外面倒見の良いお方なので……」
リーシェは大真面目に言ったのだが、アルノルトはますます眉根を寄せるだけだ。そんなにもディートリヒのことが嫌いなのは、よほど人としての相性が悪いのだろう。
「……なんにせよ。あの男がクーデターを目論んでいようと、お前が案ずることはない。後ろにどのような黒幕がついていようと、あの男では失敗する」
(はい。殿下の予想なさっている通りです……)
それはもう、未来を知らないアルノルトですら断言するほど、華麗なる失敗で終わるのだ。『黒幕』の目的は、クーデターの成功そのものではないのかもしれない。
「ですが、エルミティ国に革命が起きることによって、いたずらな混乱が生じるのは忍びないのです。仮に、お父君のなさることに思うところがあったとしても、クーデターなどは得策でないはず。他に方法を考慮すべきだと、分かっていただきたいのですが……」
「リーシェ」
目を伏せていたリーシェは、名前を呼ばれて顔を上げる。
「それは違う」
「――……!」
リーシェは咄嗟に息を呑んだ。
アルノルトの紡いだその言葉が、あまりにも冷たかったからだ。青い瞳には、真冬の月夜に見る海のような、静かな光が宿っている。
「王とは、その国においてすべての決定権を持つものだ」
その目には、先ほどまでにアルノルトが見せていたような、やさしい温度など感じられない。
「国民が、喉が裂けるほどに叫ぼうと。忠臣が、その命を賭して進言してこようとも、王はすべてを顧みない決断を下すことが出来る」
「殿下……」
そんな言葉を耳にして、どうしても思い浮かべてしまう姿があった。
それは、つい先ほど目にしたばかりの、半月の中に浮かぶ現皇帝の影だけではない。
未来で対峙したことのある、『皇帝』アルノルト・ハインの姿を、リーシェは無意識に想像する。
「――王が邪魔ならば、殺してしまう他に方法はない」
「……っ!!」
殺気のかけらを感じ取って、背筋にぞわりとした悪寒が走った。
「アルノルト、殿下」
声の震えが現れないよう、リーシェは慎重に口を開く。
「いけません。皇城内で発言なさるには、お言葉が……」
「何故? いまのはエルミティ国の王太子の話だろう。……もっとも、不敬だと窘めてくる輩はいるだろうが」
アルノルトは目を細めると、暗い笑みを浮かべて言うのだ。
「なにせ、この国においての王殺しは、何よりも許されない大罪だ」
「…………っ」
自嘲的なその微笑みは妖艶で、恐ろしいほどに美しい。
見ていられないほど危ういのに、魅入られて目が離せないような、あらゆる人を惹きつける雰囲気を帯びていた。




