169 向けられた殺気
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厨房を片付けたあと、アルノルトと一緒に離宮を出たリーシェは、皇城内の城壁沿いを歩いていた。
わざと回廊から外れ、木々の間を進んでいるため、足元からはわさわさと野草を搔き分ける音がする。
月は半月のため、暗闇のよるべにするには頼りなく、リーシェたちはそれぞれランタンを手にしていた。
「かつて、私はとある人に教わりました。『守りの磐石さを確かめるには、侵入者の目線に立つ必要がある』と」
隣を歩くアルノルトに向けて、リーシェは告げる。
リーシェにそう説いたのは、狩人人生での頭首ラウルだ。
「当然この皇城も、敵軍という侵入者を迎え撃つべく、万全の造りになっていますよね?」
「城というのは、要塞だからな」
そう返したアルノルトのランタンは、彼自身の足元よりも、リーシェの足元を照らすように翳されていた。
(それに、アルノルト殿下の普段の歩調よりも、殊更ゆっくり歩いて下さっているわ)
さり気なくも紳士的な振る舞いに、ともすれば落ち着かない気持ちになってしまう。
リーシェはアルノルトの気遣いを受け取りつつ、なるべく動揺しないように続けた。
「こほん。……ですが優先されるのは、あくまで重装備の敵兵に対する守りです。対して諜報員は、身軽な装備で隙をついて潜り込んでくるもの。アルノルト殿下も、昨日の仔猫が侵入してきた経路を危険視なさっていたので……」
足元の灯りをアルノルトに任せ、リーシェは自身のランタンを掲げた。
左手には、ガルクハイン皇城の厳重な城壁が伸びている。リーシェがランタンを動かすと、木々の影がそれに合わせて同じように動いた。
「諜報員の目線で、城壁周辺を見回ろうと思いまして。今日の昼間に、ぐるりと一周してみたのです」
「……お前がか?」
「以前読んだ本に、そういった防衛指南書がありまして」
リーシェはにこーっと笑って誤魔化す。
当然それは嘘であり、実際は狩人人生の知識なのだが、アルノルトはもはや仔細を追求してこない。面白そうに笑い、こんな風に言うだけだ。
「相変わらず、持っている知識の底が知れないな」
(アルノルト殿下も、だいぶ私に慣れてきていらっしゃるのよね……!)
あるいは泳がされているのだろうか。だが、リーシェが知識の出所について絶対に口を割らないのも、アルノルトはもう分かりきっているのだろう。
「もちろん、私の素人知識だけでは安心できないでしょうから、後日ラウルにでもご確認いただくのがよろしいかと」
「……ああ。やはりあの男と接触したか」
「はい。後ろから突然現れたので、それはもう、すっごく吃驚しました」
リーシェはちょっとくちびるを尖らせた。アルノルトは目を伏せて、ふっと微笑みに近い表情を作る。
「お前でも気配が悟れないのなら、あの男もそれなりに使えはするようだな」
「わ、私をすごく買い被っていらっしゃる……」
そもそも、気配の消し方や読み方をリーシェに教えたのがラウルなのだ。
それは口にしないものの、リーシェはアルノルトに説明した。
「ガルクハイン皇城は、諜報員対策もかなりされているようでした。私が以前、城下に抜け出したときに使ったのは、他よりも少しだけ低くなっていた一部の城壁です。ですがそれも、中から出てきたからこそ、外から入ってくる経路を残すことが出来たものでした」
あのときのリーシェは、城壁に近い枝にロープを掛けて外に出たのだ。そして、中に入るにもそのロープを使った。
たとえ狩人人生の隠密技術があっても、最初が外からの侵入であれば、きっと容易にはいかなかっただろう。
「城壁には、頑丈な土壁や石素材を使うもの。頑丈であればあるほど、金具などの道具を用いて登るのが容易になっては来るのですが、この城の外側は鼠返しになっています」
「それに加え、城壁の素材も二重構造になっているはずだ。打撃などに強い頑強な石壁を覆うように、脆く崩れやすい土壁で塗り固めている」
「はい。諜報員としては、とても嫌な造りですね……」
リーシェは思わず真面目な顔で、どうやってこの城に侵入するかを考えてしまった。なにしろ狩人人生ではあのラウルも、ガルクハインに潜入するという手段を選ばなかったのだ。
「ですが、一度城壁から目を離すと、このお城も案外たくさん隙があるのですよ?」
リーシェが悪戯っぽく笑うと、アルノルトはそれに同意した。
「――そうだな。他ならぬお前自身が、日々あちらこちらを自由に動き回っている」
「うぐ。……そ、そうですとも。たとえばあちらの兵舎ですが、雨樋を使って攀じ登れば、簡単に最上階まで辿り着けてしまいますし……」
リーシェは歩きながら、ランタンで右手の建物を照らす。
「ほら殿下、ご覧下さい。あちらの第三訓練場、物置小屋の屋根まで登ると、そこから訓練場の塀に降りられますよね?」
「……」
「どうですか? その塀の上を、落ちないように気を付けて歩いてゆくと……」
「……なるほどな。隣り合っている隊長格の兵舎二階まで、工夫をすれば辿り着けるのか」
「そう、そうなのです! さすがはアルノルト殿下!」
リーシェはきらきら目を輝かせ、尊敬のまなざしをアルノルトに送った。
生まれてこのかた、盗賊めいた侵入経路へ目を向けたことなんか無かっただろうに、少し説明しただけですぐに掌握してみせるのだ。
「お城はいつもお掃除が行き届いていますが、落ち葉は勿体無いですね。かさかさ鳴るのは天然の鳴子ですから、それだけで侵入者が目立ちやすくなります」
「それでは逆の目線で、そういった場に侵入したい場合はどうする?」
「葉が濡れている雨上がりを選ぶか、そもそも人が少なく、雨音に満ちた雨天時を。あるいは、朝露に濡れている時間にするでしょうか」
そんなことを話しながら、リーシェはアルノルトと歩いてゆく。
虫の音がそこかしこでコロコロと響く、吹く風がとても穏やかな夜だ。昼間の暑さに比べると、空気も涼やかで心地よい。
「そしてアルノルト殿下。厳重に見えた城壁の守りですが……」
「……」
やがて辿り着いたその場所で、アルノルトはわずかに眉根を寄せた。
「……ここは」
「この辺りは他に比べると、庭木の手入れが荒いようなのです」
この皇城の、一番北に位置する場所だ。
皇城の北西に位置する主城からは、高層階から四方に伸びている空中回廊がある。
そのうちの一本は、この北の塔に続いていた。そしてリーシェは、塔の裏手に立っている木を指さす。
「あそこにある木は、随分と枝が伸びているでしょう? そして、城の外側に生えている木も同様です」
「なるほどな」
アルノルトは、それを見て小さな溜め息をついた。
「それぞれに木の枝が伸びている。人間は乗れないほどの細い枝だが、猫の一匹くらいは、容易に飛び移れるということか」
「はい。昨日見掛けた仔猫はきっと、ここから入って来たのでしょうね」
枝の細さと木の種類から見るに、あの枝で支えられるのは一キロ未満ということだろう。人間は子供でも折れてしまうが、あのくらいの仔猫ならば十分だ。
「私が見回ってみた限り、このほかに侵入経路となる場所は無いはずです。ですが他にもこの辺りは、城壁の土壁が剥がれそうになっている部分があり……」
「リーシェ」
僅かに顔を顰めたままのアルノルトが、遮るようにリーシェの名を呼んだ。
「ここは少し、場所がまずい」
「……?」
リーシェは瞬きを繰り返す。
アルノルトが、こんなことを言うなんて珍しい。
警告めいているのに、抽象的で、明言を避けたような言葉選びだ。
(変だわ。だけど)
だからこそ、リーシェは状況を把握した。
「分かりました。では、すぐにここから去るべきですね」
「いいや、ゆっくりと自然に離れるぞ。むしろ、怪しまれるような動きを取るべきではない」
「怪しまれる? それは、どなたに……」
「…………」
アルノルトが、少しだけ逡巡する素振りを見せた。
それでも、彼が誰かのことを口にしようとしたらしき、その瞬間だ。
「――――……っ!?」
リーシェの背に、ぞわりと凄まじい悪寒が走った。
全身が強張るような、それでいて逃げたくてたまらないような、強烈に矛盾した感覚だ。指先が一瞬で冷えたのに、全身の血液が沸騰しそうなほど熱い。
その気配を感じたのは、主城と塔を繋いでいる空中回廊だ。
(あそこに、誰かがいるの?)
アルノルトが、舌打ちのあとで口にした。
「……くそ。よりにもよって、何故ここで……」
(だめ)
リーシェの心に過ぎったのは、何よりこんな恐怖心だ。
(――アルノルト殿下が、殺されてしまう……!!)
反射的に、アルノルトの方へと手を伸ばした。
「リーシェ……!」
リーシェが引き寄せて掴もうとしたのは、アルノルトが提げているその剣だ。
けれどもその手は、他ならぬアルノルトによって掴まれてしまい、背後の木へと押し付けられた。
「……!!」
ぐっと手首を握り込まれ、向かい合ったアルノルトの焦燥を汲み取る。
(駄目だわ、私はやってはいけないことをした……!! 咄嗟にとはいえ、『あの方』に向けて、剣を抜こうとしてしまうなんて……)
くちびるを結ぶ。
狩人人生と、騎士人生での経験を積んだことが、完全に裏目に出てしまった。アルノルトに謝りたかったけれど、いまは勝手に動けない。
(凄まじい殺気。離れた場所から見下ろされているだけなのに、これほどまでの威圧感……)
その人影が立っているのは、回廊の中ほど、ちょうど半月を背にした場所だ。
けれども、本能からの警告が、あちらを見てはいけないと告げている。
(――……あれが、アルノルト殿下のお父君……!)
ガルクハインの現皇帝であり、アルノルトが最も憎んでいる男だ。
その人物が放つ気配を、リーシェは確かに知っていた。あれこそが、騎士人生で未来の皇帝、アルノルト・ハインが放っていたのと同じ殺気だ。
「……呼吸をしろ。リーシェ」
「……っ」
そう言われて、無意識に息を詰めていたことを知る。
リーシェを木に押し付けたアルノルトは、彼の父に背を向ける体勢のまま囁いた。取り落としてしまったふたり分のカンテラが、足元でゆらゆらと灯りを揺らしている。
「……妙な体勢にさせて悪かった。だが、あの男から下手に怪しまれるのを避けたい」
(……私が、アルノルト殿下の剣を、抜こうとしてしまった所為で……)
リーシェがあそこで剣を抜いていれば、皇帝に対する害意を問われてもおかしくない。
そうなれば、皇太子妃といえども死罪だろう。
ましてやいまのリーシェなど、未だ婚約者の立場に過ぎないのだ。
けれどもそれを、アルノルトがこうして守ってくれた。
「これから、俺たちが『単純に人目を避けたくてここに来た』のだと、あの男に思わせるような言動を取る。構わないか?」
「っ、はい……」
「…………」
リーシェの声が震えた所為で、アルノルトはどこか痛ましそうに顔を顰めた。
そうして彼は、小さな声でこう詫びる。
「許せ。……少しだけ、お前の意に添わない触れ方をする」
「……!」
リーシェの手首が解放された。
その代わりに、指同士が絡むように握り込まれる。アルノルトは、とても大事なものに触れるかのように、きゅっとやさしくリーシェと片手を繋ぐのだ。
そうして、もう片方の手でリーシェの頭を撫でる。
かと思いきや、アルノルトは身を屈め、リーシェの前髪に口付けを落とした。
「ん……っ!」
緊張と、ほんの僅かなくすぐったさに、思わず変な声が出てしまう。
アルノルトは、そんなリーシェをあやすように髪を撫でながら、何度も額へのキスを繰り返した。
「あ、アルノルト殿下……」
「…………」
時折、ちゅっと小さな音がする。
アルノルトの触れ方は柔らかくて、まるで甘やかされているかのようだ。
(〜〜〜〜……っ)
それどころではないはずなのに、恐怖心の中に恥ずかしさが混じってしまい、縋るような気持ちでアルノルトの手を繋ぎ返した。
それから、繋いでいない方の手は、彼のシャツの胸元をぎゅうっと握り込む。
するとアルノルトは、怖がる子供を落ち着かせるかのように、リーシェの頭を抱き込んだ。
そうして今度は、つむじの辺りにキスをされるのだ。




