19 その侍女の正体は
皇城で開かれた夜会が間もなく終わるころ、城の薄暗い中庭に、ひとりの少年の影があった。
ふわふわした黒髪に、丸みのある青の瞳。どこか中性的な美貌を持ち、年の頃は十六歳ほどであろう少年は、中庭からじっとバルコニーを見上げている。
少年の視線の先には、ひとりの少女が立っていた。
珊瑚のような髪色の、遠目に見ても美しい少女だ。
彼女はしばらくそこで誰かを待っていたようだが、やがて待ち人に呼ばれたらしく、手摺りから離れる。
少年は、彼女の消えてゆく光景をじっと見つめていた。
しばらくすると、少女の立っていた場所にひとりの男が現れる。
そして男は、少年がそこにいるのを最初から知っていたかのように、静かにこちらを睨み付けてきた。ここがバルコニーから離れており、暗がりであるにも拘らずだ。
「~~~~……っ!」
ぞくりとしたものが背中を走り、少年は思わず口の端を上げた。
男の放つぴりぴりとした殺気は、少年が何より好むものだ。けれど、警告のようなその空気は、男がきびすを返すと共に消えてしまう。
「なあんだ。今日も遊んでくれないのか……」
少年は俯くと、残念そうに呟いた。きっと先ほど見た、あの美しい少女のせいだ。
「さみしいよ。兄上」
彼女がやってきた日から、少年はずっと不機嫌だった。
このような夜会の場に出るなど、わざわざ兄に禁じられるまでもなく御免である。しかし、彼女と正面から話す機会が遠のいたのは、唯一残念なことだ。
「でも、近々ちゃんと挨拶する準備は進めているから。……ね、義姉上」
少年は柔らかな声で、そっと呟いたのだった。
***
「まったく。使えないのね、あんたたちは」
石造りの小さな洗濯場に、ひとりの少女の声が響いた。
見れば赤毛の侍女ディアナが、新人らしき侍女たちに対して勝ち誇っている。侍女に紛れて洗濯をしていたリーシェは、その手を止めずに顔を上げた。
離宮でひとり暮らすリーシェが、護衛の騎士たちの目を盗み、こっそり洗濯に来るようになってから三日。怒るディアナと萎縮する新人という光景を、毎日のように見掛けている。
「洗濯ひとつもまともに出来ないのかしら? 朝お願いした仕事なのに、お昼になっても終わっていないなんて。私たちならその三分の一の時間で、一階のお掃除まで終わってるわよ!」
「ご、ごめんなさいディアナさん……」
新人の侍女たちは、怯えるように身を固くしている。その中には、先日リーシェが助け起こしたエルゼもいた。
リーシェは泡だらけの手を桶から出すと、軽く流してからエルゼたちに話しかける。
「手伝います。残った洗濯物はどちらに?」
「……またあんたなの」
振り返ったディアナは、リーシェを強く睨みつけてきた。
「どこの所属か知らないけど、毎日毎日よく人を手伝う余裕があるわね。ずいぶん暇そうで羨ましいわ」
そう言って、ぷいっとそっぽを向く。
「こんな使えない新人たちは放っておいて、行くわよラウラ、マーヤ。皇太子妃殿下の侍女に選ばれるためには、こんなところでぼさっとしてらんないんだから」
ディアナはエプロンのポケットから一枚の紙を取り出すと、書いてある文字に目を通した。
「今日は、このあと離宮用のシーツが届くみたいね。侍女長に言いつけられる前に運ぶ手伝いをすれば、きっと評価が上がるわ!」
「あ、待ってよディアナ!」
ディアナを追って、ふたりの侍女が慌ただしく洗濯場を去る。
扉が閉まったあと、リーシェはエルゼたちに笑いかけた。
「さあ、どんどん進めてしまいましょう。時間のかかる大物があれば、こちらに回してください」
「い、いつもありがとうございます……!」
新人侍女たちは恐縮しながらも、ほっとしたようだ。中には半泣きの少女もいて、リーシェに何度も頭を下げてくる。リーシェはエルゼと洗い桶を囲み、がしがしとシーツを洗った。
エルゼは悲しそうな顔で、ぽつりと呟く。
「……ごめんなさい。私たちが、いつまで経っても仕事を覚えないせいで……」
「ここにいる皆さんは、このお城に来てまだ五日目なのでしょう? 誰でも最初は仕方がないことです」
洗濯板にシーツを擦りつけながら、リーシェは言い切る。
「そもそもですが。エルゼさんは、決して洗濯に不慣れな訳ではありませんよね?」
「!」
リーシェの指摘に、エルゼはおずおずと頷く。
ここ数日、みんなで一緒に洗濯をしていて気が付いたが、ここに集められた新人たちは洗濯ができないわけではないのだ。
城下から集められた彼女たちは、これまで家の家事などを手伝ってきたのだろう。自分のやるべきことが目の前にあれば、きちんと動くことが出来ている。
とはいえ、ディアナの言ったことも事実だった。
彼女たちはさほど多くない洗濯物を前に、通常の何倍も時間を掛けてしまっているのだ。
(でも、その原因は明白だわ)
リーシェは、もうひとつ気になっていたことをエルゼに尋ねる。
「ディアナさんの昔のお話を、何か聞いたことはありますか? 例えば、裕福なお家の出自だとか」
「は、はい。お父さんがいくつもお店をやっていて、ディアナさんもその勉強をしていたと聞いたことがあります」
「それ、私も聞いたことある。確か借金が出来ちゃって、お父さんのお店は全部手放したのよね」
侍女たちの話を聞いたリーシェは、ごしごしとシーツを洗っていた手を止めて考える。
不慣れな新人たちと、高圧的に振る舞う先輩。彼女たちをどうするかは、リーシェに一任されているのだ。
「あの。どうか、されたのですか?」
エルゼに心配そうに尋ねられ、にっこりと笑った。
「大丈夫です。ひとまずは、この洗濯物たちを片付けましょう」
***
その日の午後、皇城内の離宮に三十名の侍女たちが集められた。
もともとこの城で働いていた侍女から選ばれた十名と、新たに城下から募集された二十名だ。皇太子妃つきの侍女は、ここから二十名が選出される。
今日が選定結果の発表だと聞かされて、少女たちは緊張した面持ちだった。
「ねえ。離宮って放置されててひどい有り様だって噂だったのに、ぴかぴかじゃない?」
「本当だわ。誰か先に、掃除で入っていた侍女がいたのかしら」
「リーシェさまってどんな人かしら。ああ、どきどきする……」
ひそひそと内緒話をする侍女たちの中には、他の人物の姿を探している者もいる。
「エルゼ。いつも助けてくれるあの人、ここにはいないわね」
「はい……」
「見てよディアナ。あの生意気な新人、そもそも候補に選ばれてもないみたいよ」
仲の良い侍女にそう教えられたディアナは、勝ち誇って胸を張った。
「それはそうね。やっぱり皇太子妃殿下に仕えるなら、ある程度の礼儀がなっていないと無理なんだから。あんな生意気な子、外されるに決まっているわ!」
その瞳は、自分が選ばれる自信に輝いている。
やがて、侍女たちが呼ばれたその部屋に、ノックの音が響いた。
「リーシェさまがいらっしゃいました。皆さん、頭を下げなさい」
侍女長の号令に、侍女たちは急いで礼の姿勢を取る。ディアナも期待に胸を膨らませながら、余裕たっぷりに頭を下げた。
こつこつと靴音が響いて、ディアナたちの前をひとりの女性が歩いてゆく。視界の端にはふわふわのドレスが映り、どこか優しくて爽やかな香りがした。
その姿を見る前から、皇太子妃リーシェが素敵な女性だということが分かる。彼女がこれから自分たちの主君になるのだと思うと、ディアナたちは誇らしい気持ちになった。
しかし、ディアナの傍にいたラウラが、小さな声で話しかけてくる。
「ねえディアナ。この香り、どこかで嗅いだことない?」
「ちょっと、いま話しかけないでよ」
皇太子妃となる女性の纏っている香りだ。きっと、何か高級な香水に違いない。そう思ったディアナだが、不意に気がついて言葉を漏らす。
「……石鹸」
「え? ディアナ、なんて言ったの?」
「石鹸よ。これ、私たちが洗濯で使ってる、いつものあの……」
そう確信したのと、声がするのは同時だった。
「どうか皆さま、顔を上げてください」
「!!」
まさか、そんなはずはない。
そんなはずはないのに、どうしてこの声音に聞き覚えがあるのだろう。
ディアナたちはひどく緊張しながら、恐る恐る前を向く。祈る気持ちと、怯える気持ちを半分ずつ抱えて。
そして、息を呑むのだ。
「あ……っ」
「リーシェ・イルムガルド・ヴェルツナーと申します」
そこには、ここ数日ずっと目障りだった美しい少女が立っていた。
それも、とびきり穏やかな微笑みを浮かべて。