168 婚儀の楽しみはたくさんです
「…………そうか」
「……っ、はい……」
もじ、とドレスの裾を握り締めた。
厨房は沈黙が支配して、白いふわふわだけが能天気に揺れている。
(う……浮かれ過ぎだと、思われたのでは……!?)
何しろこの婚姻は、アルノルトにとって思惑のある、政略結婚に近いものなのだ。
リーシェには想像もつかないような、深刻な事情があるのかもしれない。ガルクハインの重鎮たちにとって、リーシェは人質同様の花嫁であるとも聞いている。
居た堪れなくなってしまい、おずおずと上目遣いにアルノルトを見遣った。
(あ……)
目が合ったアルノルトは、無表情だけれど穏やかなまなざしでリーシェを見ている。
そして、こう問い掛けてくるのだ。
「――婚姻の儀は、苦痛ではないのか?」
「!」
思わぬ問いに、驚いてしまう。
「どうしてですか?」
「拘束時間が長い上に、堅苦しい儀式だ。準備も膨大で、招待客の相手もある。お前に掛かる負荷は大きいだろう」
「確かに、準備はたくさんありますが」
とはいっても、それはリーシェの都合でもある。
なにしろ婚儀の準備とは別で、『招待客』への対策も講じているのだ。
婚姻の儀には、未来でアルノルトと対立する砂漠の国の国王ザハドや、他にも大きな影響力を持った面々がやってくる。彼らを迎える支度についても、迅速に進めていかなければならない。
(だけど、それを除けば……)
アルノルトに対し、自信を持ってこう告げる。
「婚姻の儀は、とっても楽しみです」
「……楽しみ?」
「はい! ご存知の通り、私はこれまでの人生でただの一度も、自分の婚儀を経験したことがないので」
アルノルトは、リーシェの瞳を静かに眺めた。
『これまでの人生』には、過去六回の人生という意味も含まれる。しかし当然アルノルトには、十五年間で一度もという言葉に受け取れるだろう。
「初めてのことはわくわくしますし、婚礼衣装も早く着てみたいです。儀式自体も、参列する立場と花嫁とでは、感じ方がきっと異なりますよね!」
「……」
「アルノルト殿下のお衣装も気になります! 宝飾品も、髪型も。それと、ガルクハインでの婚儀におけるクルシェード語の誓詩はどのようなものなのでしょう?」
「…………」
楽しみなことを連ねていくだけでも、自然と心が弾んでゆく。一本ずつ指を折りながら話していると、すぐに両手がいっぱいになった。
「人工雪と、それを使った花びら作成の実験も上手く行きました。厨房を埋め尽くしたのは予定外ですが、少量でたくさん作成できるという結果はむしろ喜ばしいことです!」
「…………」
リーシェがきらきらと目を輝かせているあいだも、アルノルトは机に片肘をつき、どこかやさしい視線を注いでくれていた。
「あ! それから、それから」
その瞬間、リーシェは再びあのことを思い出す。
(……婚姻の儀のキス……!!)
「…………?」
アルノルトが、ほんの僅かに目を眇める。
「どうした」
「いっ、いえ、なんでも!!」
ばつが悪くなり、思わず口元を両手で押さえた。
顔を赤くしたリーシェが、もごもごしながらそっぽを向いたことを、アルノルトは奇妙に感じただろうか。
ちらりと窺えば、アルノルトはふっと笑うように息を吐いた。
「まあ、楽しむことでお前の苦痛が軽減出来ているのであれば、それでいい」
「むむ」
そんな言葉に、くちびるを尖らせた。
「軽減は違いますよ、殿下。だって私には、婚姻の儀で嫌だと感じていることなどひとつも無いのですから」
「……」
「?」
アルノルトが眉根を寄せたので、リーシェは首を傾げる。
だが、その理由を深く追求する前に、アルノルトが先に口を開いた。
「……なんにせよ、無理はしないことだ。お前は平然としているが、こなしている準備の工数は多い。幼少期から王太子妃教育を受けてきた結果、大した労力ではないと錯覚しているだけの可能性もある」
「そ、それは確かにそうかもしれませんが……」
ぎくりとした。アルノルトの言わんとすることに、心当たりもあったからだ。
「で、ですが、ご多忙の中でさらに無理をなさっているのはアルノルト殿下では? オリヴァーさまが仰っていました。迅速にお仕事を片付けて、予定より早く終わっても、その空いた時間に別のお仕事を入れてしまうのが常なのだと」
「……あいつ、余計なことを……」
「その上に、ディートリヒ殿下の面倒まで見ていただいていますし」
それについて、本当に申し訳ない気持ちになる。
すると、アルノルトは口を開くのだ。
「言っただろう。あの男のことで、お前が責任を感じる必要は無いと」
「は、はい、分かっています! ……分かっては、いるのですが」
リーシェは俯いて、そっと呟く。
「アルノルト殿下が皇太子として、ディートリヒ殿下が王太子としてお育ちになられたように。……私自身も、『王太子妃になるため生きる』と育てられたのです」
「……そうだろうな」
「ディートリヒ殿下と婚約破棄したことで、王太子妃からは解放されました。いまはアルノルト殿下の婚約者として、のびのび暮らしているつもりです。だからこそ、ディートリヒ殿下を前にしたとき、なんとかしなければと感じてしまうというか……」
そうして、心の内側にある感情の形が見えてきた。
「罪悪感があるのかもしれません。それこそ、故国を捨てたという感情に、近いような」
「……」
それはなにも、今回の人生に限ったことではない。
過去の人生で、リーシェは故国に帰ることはなかった。ディートリヒがクーデターに失敗し、リーシェの国外追放が取り消されてからも、ずっとだ。
(……無意識に、避けていたんだわ。私自身の問題ね)
それは、責務から逃げたことへの感情だろうか。
あるいは、自身の誕生日を苦手に感じてしまうのと同じで、毎日泣きたかった子供のころの記憶がそうさせるのだろうか。
そんな風に思っていたところへ、アルノルトが告げる。
「お前は何も捨てていない」
「……アルノルト殿下?」
淡々としているけれど、はっきりとした声音だ。
「生まれてから国を出る前のあいだ、お前に出来るすべての努力をしてきたのだろう? それくらい、いまのお前を見ていれば分かる」
「……っ」
「その挙句追放された国に、いまでも情を寄せているんだ。それがどんな感情であれ、国を捨てたと呼ばれるべきはずもない」
アルノルトの言葉が、左胸にじわりと広がるような心地がした。
その温度はとても温かい。
言い方はいつも通りにそっけないのに、だからこそ尚のこと、温かく思うのだ。
続いてアルノルトは、あからさまに気に入らないという顔をしてこう続けた。
「……第一、お前が実際にあの国を捨てていたとしても、俺は当然だとしか思わないが」
「っ、ふふ!」
それがあんまりにも嫌そうな表情だったので、なんだかおかしくなってしまった。
笑ったリーシェを見て、アルノルトは小さく息をつく。
「そもそも、たとえ二度と戻ることが無かろうと、国を出たくらいで『捨てた』とは言えないはずだ。生まれた国の諜報をするくらいの裏切りでもなければ、そうそう気に病む必要はない」
「ふふふ。……はい、ありがとうございます」
気遣いを嬉しく感じつつ、リーシェはふと思いつく。
「アルノルト殿下。お礼というわけではないのですが、お力になれるかもしれないことがありまして。すぐにここを片付けますので、もう少しだけお時間をいただいても?」
「構わないが。どこかに行くのか」
アルノルトによって元気を取り戻したリーシェは、青い瞳を見て悪戯っぽく笑う。
「よろしければ、私とごっこ遊びをしていただきたくて」
「……ごっこ遊び?」
「はい」
リーシェは人差し指をくちびるに当てて、悪い微笑みのまま告げた。
「――『諜報員ごっこ』、という名の遊びを」
「…………」
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