164 私が彼に望むこと
(アルノルト殿下が、『おいで』って……!!)
その呼び方はずるいと思うのだが、何がずるいのかは説明できそうもない。
リーシェがはくはくと口を動かしていると、アルノルトが少し首をかしげ、微笑みに近い表情を浮かべる。
「ん?」
「……っ」
観念し、そうっと一歩踏み出した。
伸ばされていた手を取ると、アルノルトの傍に引き寄せられる。
(お聞きして、みなくては)
お互いの指同士を絡めたまま、リーシェはアルノルトのことを見上げた。
「……いつか、この先に、新しい戦争が起きたとして」
その『もしも』を、アルノルトの前で口にするには、リーシェにとって勇気のいることだ。
けれど、青色の瞳から目は逸らさない。アルノルト以外、他の誰にも聞こえないように、静かな声で口にする。
「アルノルト殿下は、ご自身のお命を、どのように使われるおつもりですか?」
「……」
リーシェの問いに、アルノルトは笑った。
「仮定の話に、興味はないな」
「ですが、覚悟はしていらっしゃるのでしょう」
「王も皇帝も、国のすべての責任を取る存在だ」
なんでもないことを話すかのように、彼は言い切るのだ。
「太子というものは、それを継ぐために生かされる。……俺の場合は、特にそう言えるだろう」
「……っ」
アルノルトの父は、生まれてきた大勢の赤子に対し、髪と瞳の色による選別を行なった。
恐らく最初に生まれた子供は、アルノルトではなかったはずだ。にもかかわらず、アルノルトが皇位継承権第一位を持つ皇太子であるのは、現皇帝が他の赤子を殺めたからだと聞かされた。
(アルノルト殿下に、罪は無くとも)
彼と繋いだ指へ、僅かに力を込めてしまう。
(殿下は、ご自身の存在そのものが、罪悪だと考えていらっしゃる……)
リーシェには、それがかなしくて、とてもさびしい。
先ほどのアルノルトは、王族や皇族に人として生きる権利があるはずもないと言った。しかし、弟のテオドールや妹姫たちには、そんなものは求めていないように見えるのだ。
それから、妃となるリーシェに対してだって。
(この方が、『人』であることを許さないのは。――お父君と、ご自身のみだわ)
アルノルトは、自分でその矛盾に気が付いているのだろうか。
そう思っていると、アルノルトがリーシェの頰に触れた。
「……拗ねたような顔をしている」
「……」
すでに見抜かれているようなので、遠慮なく表情に出すことにする。
「拗ねていますし、怒っています。……ただし、自分にですが」
「お前に?」
「我ながら、あまりにも不甲斐ないので」
くちびるを尖らせつつ、リーシェは項垂れる。
「アルノルト殿下に、幸せになっていただきたいのです」
「――――……」
アルノルトが、驚いたような顔をした。
「この先に訪れる殿下の未来に、幸福ばかりがあれば良いと願います。……たとえ、あなたがそれを不要だと仰っても……」
でも、願うばかりでは駄目なのだ。
「今後はもっと、創意工夫を凝らしますね」
「……創意工夫」
「世界中で一番美味しいご飯を食べたり、溶けそうなほどふわふわの寝台で眠ったり、目が眩みそうなほど綺麗な景色を眺めたり――」
思い付く限りのことを並べ、リーシェは吟味する。
「そういった経験をお届けすることで、アルノルト殿下に幸せの良さを知っていただくように務めます」
「……」
その言葉は、真剣な気持ちで告げたのだ。
けれどもアルノルトは、一瞬だけ虚を衝かれたような表情のあとで、小さく笑う。
「ふ」
それは、堪えきれずに零されたかのような、アルノルトには珍しい微笑みだった。
「それはもう、お前にもらった」
「……?」
頭をぽんっと撫でられて、首をかしげる。するとアルノルトは、こちらはなんだか見慣れつつある、意地悪な笑みを作るのだ。
「お前の方こそどうなんだ。『誕生日』に祝われたい内容は、決まったか」
「うぐ」
痛いところを指摘され、ぎくりとする。
「何か、欲しいものは」
「……アルノルト殿下の欲しいものが欲しいです、というのは……」
「それは却下だな」
「うぐぐぐ」
リーシェの誕生日までは残り八日だ。早く言わなくては、準備をするのにも大変だと分かっているのだが、やっぱりなかなか思いつかない。
「お前は欲が無さすぎる」
「それは! アルノルト殿下にだけは、言われたくないですから……!」
「へえ?」
「!!」
揶揄うように覗き込まれ、どきりとした。
アルノルトに他意はないのだろうが、いまのリーシェはどうしても、今後のことを意識してしまう。
(婚姻の儀での、キス問題も解決していないし……! こちらも残り日数が少ないのだから、急がないと。それに……)
リーシェはアルノルトに気付かれないよう、夜会のホールに目をやった。
ホールの警備は騎士が務める。そのうちのひとりであるグートハイルについても、もっと調べなくてはならない。
(ひとつずつ、着実に。まずは明日、テオドール殿下にお願いした方法で……)
***
翌日のこと。
皇城にある騎士の訓練場には、後片付けに動き回る新人騎士たちの姿があった。
「スヴェン、その巻き布をこっちにくれる?」
「ああ。そこにある木剣、ささくれだってるかもしれないから気を付けろよ」
「ありがとう! ついでにヤスリをかけておくね」
訓練の日々にも慣れてきた頃である彼らは、拾い集めた木剣を手入れした上で仕舞ってゆく。
そのうちのひとり、新人騎士スヴェンが、こちらを見ながら息をついた。
「まったく。……まさか、フリッツが居なくて人手が足りないところに寄越されたのが、お前とはな」
「僕?」
自分の話をされていると気が付いて、リーシェは顔を上げる。
「特別訓練以来なのに、相変わらずよく働くじゃないか。――ルーシャス」
「ふふ」
少年姿に男装し、『ルーシャス』と名乗ったリーシェは、以前の特別訓練で朝稽古をした仲間であるスヴェンに対して、にこりと微笑んだ。




