163 その呼び方は反則です!
潤んだ瞳で震えているディートリヒは、彼の父である国王にそっくりだった。
そんな様子を見て、リーシェは落ち着かない気持ちになる。
(いけませんディートリヒ殿下、夜会の場ではもっと堂々となさっていないと……!! 夜会の中盤以降はともかく、序盤におひとりでいらっしゃるのもマナー違反に……)
「…………」
隣のアルノルトに、じ……と視線を注がれる。アルノルトの腕に掴まっているリーシェは、それを受けてはっとした。
(そ、そうでした! いまの私は、ディートリヒ殿下に色々と進言する立場には無いはず)
アルノルトのまなざしの意味を受け取って、見上げたリーシェはこくこくと頷く。
(分かります。大丈夫です、アルノルト殿下!)
「…………」
アルノルトは少しだけ物言いたげな表情を作ったが、そこで口を開くことはなかった。リーシェは気を取り直し、柱の陰に声を掛ける。
「こんばんは、ディートリヒ殿下。本日はアルノルト殿下のご公務に同行されたとのこと、お疲れ様でした」
「う、ううう……」
「いかがでしたか? アルノルト殿下のお仕事ぶりは」
「い…………いかがでしたか? じゃなーい!!」
ディートリヒは柱の陰から出てくると、泣きそうな顔で詰め寄ってきた。
「ぼっ、僕は、僕は……!!」
「お、お待ちください! ひとまずバルコニーに移動しましょう、ね!?」
ディートリヒの様子を見た客人たちが、驚いてざわざわと顔を見合わせる。
大慌てで彼を連れ出し、アルノルトと三人でバルコニーに出る。ここならば、ひとまず周りの目も気にならないはずだ。
しかし、そんなことは構わない様子で、ディートリヒは堰を切ったように話し始めた。
「あ、アルノルト殿!! 貴殿はいつもあのようなスケジュールで仕事を詰め込んでいらっしゃるのか!?」
「そうだが」
「馬鹿なあっ!! そんなはずはない!! あれは僕を怖がらせるために、無理に組み上げた過密日程に違いないんだ!!」
リーシェは驚き、もう一度隣のアルノルトを見上げた。
「アルノルト殿下。今日のお仕事は、そんなに激務だったのですか?」
「いいや? 普段よりゆとりがある方だ。オリヴァーが勝手に調整したからな」
アルノルトの表情は、この状況でもまったく変わらない。
頭を抱えて身悶えるディートリヒに対し、アルノルトは平然としている。
「第一、あの男があまりにも『休ませろ』と喧しく、聞くに耐えかねて一度休憩を取らせた」
「いや、だからそこがおかしいと申し上げている!! 夜まで働く時間の中で、休憩がたったの一回ってなんなんだ!? 公務、移動、公務、移動公務公務公務! 移動の間にも馬車の中で書類!! 貴殿は『馬車酔い』という概念をご存知ないのか!!」
「もう。アルノルト殿下……」
リーシェはふうっと溜め息をつき、アルノルトに言った。
「駄目ですよ。定期的に休息は取っていただかないと」
「だから、その言葉はそのままお前に返す」
「なにを『これが普通の日常です』という顔で話しているんだーーーーっ!!」
ディートリヒはよほど疲れたらしく、ぜえはあと呼吸が辛そうだ。そのお陰か、声を張り上げているように見えても、あまり大声にはなっていない。
「人間か? 人間の体力なのか……!?」
(ディートリヒ殿下が怯えるのも、確かに無理はないかもしれないわ……。私から見ても、アルノルト殿下のお仕事量は尋常じゃないもの)
公務の様子を間近で見せられて、ディートリヒは怖かったのだろう。大体、アルノルトとディートリヒでふたりきりの馬車内というのが、あまりにも想像が付かなさすぎる。
ディートリヒは肩で呼吸をしていたが、やがて大きく息をついたあと、アルノルトを見て尋ねた。
「……貴殿は、疑問に思ったことはないのか?」
渋面を作ったディートリヒの声音に、どこか真剣な空気が滲む。
「王族というものは、朝から晩まで民のことを考えて、国の為に時間を犠牲にして。どれだけ身を粉にして働いたところで、誰が褒めてくれるわけでもない。自己犠牲が当たり前、滅私奉公が当然、それが出来なければ不要な存在として蔑ろにされる……」
「ディートリヒ殿下……」
ディートリヒは、その眉根をぐっと寄せて言葉を続けた。
「生き方は選べない。民からは裕福な暮らしをしているように見えても、その実態は不自由だらけだ! ならわしに縛られ、人目に捕らわれ、挙句の果てに……」
「――それがどうした?」
「!」
淡々としたアルノルトの声に、ディートリヒが身を強張らせる。
「王族にも皇族にも、人として生きる権利があるはずもない」
「な、にを……」
(アルノルト殿下?)
「分からないのか。王の命というものは、何百万もの民よりも、はるかに重い意味を持つものだ」
その言葉に、リーシェもこくりと息を呑んだ。
「小国が大国に攻め込まれた際、たとえ民を千人差し出そうとも、その侵略が止まることはないだろう。――だが、その国の王たったひとりの命を差し出せば、戦争は終わる」
(……!)
アルノルトの中指が、彼自身の喉仏の辺りをとんっと叩く。
「王たる人間ひとりの存在が、その国に生きるすべての責務を負っている。その自覚があろうと、なかろうと、王族の命というものは駆け引きに使われる駒だ」
「こ、駒……?」
「俺にも貴様にも、人として生きる権利などない」
アルノルトの言い切った言葉に、リーシェの背筋が凍り付く。
「だっ……だが、貴殿のそれは! ……まるで、いつか国の為に死ぬ覚悟をするべきだという、あまりにも極端な論調ではないか!!」
そしてアルノルトは、青色の双眸に暗い光を宿し、ふっと蔑むように笑うのだ。
「――皇太子として生を受けた以上、それは当然の義務だ」
「……アルノルト殿下……」
ディートリヒはぐっと歯を食いしばり、こちらに背を向けると、夜会の会場へ駆け込むように戻ってしまった。
リーシェはそれを追おうとし、数歩のところで立ち止まる。
夜のバルコニーには、アルノルトとリーシェのふたりだけが残されてしまった。
「……」
夏の夜風が、その場の沈黙を掻き混ぜるようにして吹き抜ける。
「……リーシェ」
名前を呼ばれて、リーシェはおずおずと顔を上げた。
数メートルほどの距離を離して、アルノルトの青い双眸と視線が重なる。リーシェが何も言えずにいると、アルノルトは小さく息をついた。
「ふむ。……先ほどのお前は、あの猫に対して、どのように呼びかけていたのだったか」
「殿下?」
何かを思い出そうとするように、彼が目を伏せる。
「……ああ。そうだったな」
そのあとに、アルノルトはもう一度リーシェの方を見る。
そうしてこちらに手を伸ばし、柔らかな表情と、同じくらい柔らかい声でこう言った。
「――……『おいで』」
「ひゃ……っ!?」
アルノルトらしからぬ言葉で呼ばれて、頬が一気に熱くなる。




