160 このどきどきは、違うのでは?
***
それからリーシェは、シルヴィアの健康状態が本当に問題ないかを診察したあと、来客用の庭園へと場所を移した。
護衛騎士には離れた場所で待機してもらい、侍女たちを呼んで、淡い水色のテーブルにティーセットを用意してもらう。
お茶と一緒に並ぶのは、色とりどりの小さなケーキだ。シルヴィアは金色のフォークを手にしつつ、リーシェの話を聞いてくれた。
「それじゃあリーシェは、婚姻の儀のキスに困っているのかしら?」
「むぐ……困っているというか、恥ずかしいの……」
こうして口にするだけでも、落ち着かなくて満身創痍だった。
テオドールには相談できないと思っていたが、同性が相手でもそわそわする。
「シルヴィアも、歌劇でのキスシーンに挑むことがあるでしょう? 心構えとか、人目を気にせず済む方法とか……」
尋ねると、シルヴィアはけろりと答えた。
「残念ながら、私では参考にならないと思うわ」
「どうして!?」
「歌っているときは、心までその人物になりきっているから。『愛する人と、ここでキスをして当然』って気分だし、なんの抵抗もないのよ」
言い切られて、リーシェは目をまんまるにする。
「愛する人って、役のお相手のこと?」
「そ。演目の間は、恋人役のことを本当に好きになっちゃう。劇場限定の恋人ね」
シルヴィアは、テーブルに両手で肘をつくと、その上に顎を乗せてにこりと笑った。
「……ただし。素敵な演目のときは、幕が下りてからもその気持ちを引きずって、本当にお付き合いすることもあるけれど」
「……ふわあ……」
リーシェにとっては未知の世界で、思わず声が漏れてしまう。
シルヴィアはくすりと笑うと、ラズベリーのムースケーキを切り崩しながら言った。
「私ね、浴びるほど恋をしてきたの」
「じゃあ、あなたに関する恋の噂は……」
「聞いたことある? どれもとーっても素敵だったわ」
それこそ歌うような軽やかさで、彼女は言った。
天才と名高いシルヴィアには、もうひとつの評判がある。それは、『恋多き歌姫』というものだ。
リーシェはあまり意識したことがなかったが、どうやら真実だったらしい。
「恋をすると、私の歌が豊かになる気がするの」
どこか誇らしそうな表情で、シルヴィアは教えてくれた。
「胸が疼いて、ときめいて、歌声にたくさんの栄養をもらえるわ! だから私、恋をするのが大好きよ。そして歌声がその栄養でいっぱいに満たされたら、お互い笑ってお別れするの」
「歌声に、栄養……」
「そう。恋をしてくれる相手によって、受け取れるものは違うから」
そう言ったあとで、彼女はそっと俯く。
「――なあんて、ね。どんな理由を並べたところで、人から見たらただ移り気な女でしかないんでしょうけど」
「いいえ。すごいわ! シルヴィア」
「え……」
リーシェの漏らした感嘆に、シルヴィアは虚を突かれたような表情をした。
「あなたの歌声が素晴らしい理由の、一端が分かった気がする。シルヴィアは人生で得たことのすべてを、一心に歌へと注いでいるのね」
「……!」
「経験を、すべて自分の糧に出来るなんて素敵。願わくは、私もそうありたいと思うもの」
リーシェが心からそう告げると、シルヴィアは何度か瞬きを繰り返したあと、綻ぶように笑った。
「っ、ふふ! リーシェったら! 誰かに私の恋の話をして、それを丸ごと分かってもらえるなんて、生まれて初めてだわ!」
シルヴィアは大人びた顔立ちだが、笑うととても可愛らしい。
あまりにも嬉しそうにしてくれるので、その笑顔を見てリーシェも微笑んだ。しかし、次に落とされた発言に、リーシェは固まることになる。
「リーシェは恋、してないの?」
「――――へあっ!?」
思わぬことを問い掛けられて、ティーカップを取り落としそうになってしまった。
咄嗟の反射神経でどうにかするものの、頰はすっかり火照っている。
「な、なんで、どうして!?」
「だって、結婚式のキスに悩んでいるくらいだもん」
「それがどうして恋の話に!?」
「そりゃあ……」
シルヴィアが、ずいっと顔を近付けてくる。
ふわりと漂うのは、上品な甘い香りの香水だ。人形のような睫毛に縁取られた蠱惑的な瞳が、リーシェのことをじっと見つめた。
「キスなんて、目を瞑っていれば終わるじゃない?」
「そ、それは……え!? そういうものなの!?」
「なのにそんなに重要視するから。そうなると、政略結婚のはずのお相手にうっかり恋しちゃったとか、そういうことなのかなあって」
シルヴィアにそう言い切られて、リーシェの心臓が痛いくらいに跳ねた。
「わ……私はまだ修行中の身だし。まったくそんなことは一切、全然!!」
「修行ってなに!? ――じゃあ聞くけど、リーシェ」
シルヴィアは、口紅を塗ったそのくちびるでにこりと微笑む。
「その人の一挙一動が気になって、どんなことを考えているのか知りたくなったり」
(……それはもう……)
問い掛けに対し、無意識に『彼』のことを考えてしまう。
(どの行動がお父君への反乱のための策なのかとか、どんな目的で私に求婚したのかとか……)
「会えないとき、いま誰と一緒なのかなあって悩んだり?」
(いまごろもしかして、グートハイルさまとご一緒なのかもしれないわ。近衛隊の拡張だけが目的ではなく、未来の侵略に繋げる手段だとしたら?)
「その人との将来のことを、思わず考えてしまったり!」
(とにかく平穏無事に、戦争回避して過ごしたい…………!!)
「だとしたら、それは恋なのよ」
そう言われて、リーシェはぶんぶんと首を横に振った。
「いえ! なんだか違う気がするわ、絶対に!」
「そう? その人のことを考えるだけでドキドキしない?」
(本当にアルノルト殿下を止められるのか、そういう意味ではドキドキするけれど!!)
口には出さず、焦りを誤魔化すためにお茶を飲む。一方のシルヴィアは、少し残念そうだ。
「もー。女の子の友達と、お茶をしながら恋の話がしたかったのに。……でも、恋してるわけじゃないのにキスだけで恥ずかしいって、皇太子さまはそんなに難があるお相手なの?」
「まさか! アルノルト殿下は本当に、私には勿体ないくらいのお方だわ!」
アルノルトに一切の非はなくて、リーシェ側だけの問題だ。
それを分かってもらうため、リーシェはケーキに手も付けず熱弁した。
「やさしくて博識だし、剣術はお強いし、政治にも強くていらっしゃるし! 常に気を配って下さるし、それは臣下の皆さまにも同じで。言葉だけでは言い尽くせないけれど、とても尊敬しているの」
「……」
なんだか昨日から、色んなところでアルノルトの素晴らしさを熱弁しているような気がする。
真剣に聞いてくれていたシルヴィアは、やがて聖母のような微笑みを浮かべ、リーシェの手をそっと握ってくれた。
「リーシェ。私、片想いだとしても応援してるからね」
「ぎゃあ!! 違っ、今のは違うってば……!!」
シルヴィアはくすくす笑ったあと、目を細めて言う。
「いいなあ。私もそろそろ、新しい恋がしたいわ」
「私『も』……」
どこか含みのある言い方が気になりつつも、リーシェは尋ねた。
「シルヴィアはいま、誰とも恋をしていないの?」
「夢で見た人に恋したの」
リーシェが首を傾げると、シルヴィアは肩を竦めて言う。
「昨日、倒れて苦しかったときに、リーシェが介抱してくれたでしょ? ……そのあと、また意識が遠くなったときに、男の人に抱き上げられた気がしたの」
「……え……」
リーシェの驚きに、シルヴィアは急いで言った。
「あ! もちろん分かっているのよ? 昨日看病してくれたのはリーシェで、私は朦朧としてたんだって!」
「……」
「でも夢の男の人は、無骨そうな口調なのに紳士的で、頼もしくて。目が覚めたらまた会いたいって、そう思ったわ。ふふ、夢の中の人にはもう会えないのにね」
ぱちり、と瞬きをした。
昨夜、リーシェがシルヴィアの応急処置をしたのは本当だ。
けれどもシルヴィアは、その出来事において、大きな思い違いをしている。
「シルヴィア」
「でも、今日は良い日だわ。こうして会えたリーシェは、すごく素敵な人だったし」
「昨日あなたを馬車まで運んだのは、私ではなくて、とある騎士の方なの」
「え」
彼は、シルヴィアの傍に跪き、恭しく抱き上げて運んだのだ。
「その方は、グートハイルさまという、背の高い殿方なのだけれど……」
そう告げると、シルヴィアが目を丸く見開いた。
「り…………リーシェ!!」
「はい!!」
両手を再び掴まれて、リーシェは思いっ切り頷いた。
こうして、リーシェがグートハイルという騎士について聞き回る、表向きの大きな理由が生まれたのである。




