159 是非とも教えてほしいのです
「――以上が昨夜の顛末です。私の元婚約者に対し、『アルノルト殿下がどれほど夫として素晴らしい方であるか』を証明する、と宣言してしまい」
薬草畑の真ん中で、リーシェはテオドールへの説明を終えた。
摘み取った薬草を籠に入れ、麦わら帽子を押さえながら立ち上がる。少し離れた木陰にいるテオドールは、人差し指でこめかみを押さえていた。
「どうしよ……。相談されてるんだか惚気られてるんだか、判断がつかなくなってきた……」
「テオドール殿下? ごめんなさい、蝉の鳴き声が大きくて!」
「んーん、なんでもなーい」
テオドールはとびきりの笑顔を浮かべ、軽やかに言い放つ。
籠を持ち上げたリーシェは、レモン色のドレスの裾をふわふわと泳がせながら、テオドールの座る木陰にとととっと歩いて行った。
「アルノルト殿下の素晴らしいところは、私だってたくさん挙げられます。けれど、言葉で伝えるだけではなく、きちんと実感していただきたいなと思いまして」
「それで義姉上は、僕に助けてほしいって?」
ここにいる義弟のテオドールは、兄のアルノルトを心から尊敬している。アルノルトの素晴らしいところを、とてもよく知っている人のひとりなのだ。
しかし、テオドールの反応は芳しくない。
「言いたいことは分かった。でも、僕は不参加」
「え……! 兄君の素晴らしさを、思う存分に語っていただける機会なのに……!?」
「だって、『人間として』とか『兄上の魂が』とかの話じゃなくて、『夫として』ってことなんでしょ? それを堂々と語る権利があるのって、世界で義姉上だけじゃない」
「うぐう……!!」
テオドールは大真面目に目を閉じて、左胸にそうっと手を当てる。まるで敬虔な信徒のようだが、その声にはどこか面白がるような響きが含まれていた。
「残念だけれど、僕は弟として見守るよ。あ、兄上の反応は逐一記憶しておいてね。あと、そのディートリヒっていう無礼者は完膚なきまでにボコボコにしてね」
「か、可愛らしいお顔で仰られましても……!」
「なにはともあれ、円満夫婦っぷりを見せつければいいんでしょ? そいつの傍で、いつも以上に兄上と仲睦まじくしてればいいじゃない」
テオドールは簡単に言い切るが、リーシェにとってはなかなかに難関だ。
それに、リーシェが言い出してしまったことが原因で、アルノルトにそんな迷惑を掛けるのは避けたい。
(あんまりお傍にいると、アルノルト殿下におかしな態度を取ってしまいそうだし……)
改めて、『婚姻の儀でキスをしなければいけない問題』についてを思い出す。
リーシェの顔色がいきなり変わった所為か、テオドールが不思議そうな顔をした。だが、その理由は説明できそうにない。
(キスのことは、さすがにテオドール殿下には相談できないわ。兄君のこんな話、きっと聞きたくないでしょうし)
リーシェに兄弟はいないが、リーシェの結婚後、生家のヴェルツナー家へ養子に来ることになっている従兄妹はいる。だから、テオドールの心情もなんとなく分かるのだ。
(テオドール殿下には、グートハイルさまのこともお聞きしてみたいけど……いまの私があの方を気にする理由がない以上、下手な動きは取れないわね)
そんなことを考えていると、向こうからエルゼがやってきた。
「リーシェさま。テオドールさまも」
「やーエルゼ。頑張ってるみたいだね? 義姉上もカミルも、お前のことをいつも褒めてるよ」
「あっ、ありがとうござ、ございます。でも、まだまだです」
恥ずかしそうにそう言ったエルゼは、ふるふると首を横に振ったあとでリーシェを見上げる。
「リーシェさま。城門に、お約束のないお客さまがいらしていると、伝達がありました」
「私に?」
「はい。他の侍女が、オリヴァーさまへお知らせしに行っています」
(まさか、皇都の宿屋にお泊まりいただいているディートリヒ殿下が乗り込んで来たんじゃ……)
嫌な予感に蒼褪めるが、エルゼの口から出て来た名前は、リーシェにとって予想外のものだった。
「あの、女の方だそうです。し……しる……」
エルゼは、侍女服から取り出した自筆のメモを、慎重に読み上げる。
「シルヴィア・ホリングワースさま、と」
「!」
昨晩応急処置をした歌姫の名前に、リーシェは目を丸くするのだった。
***
リーシェを訪ねた来客は、侍女たちが伝言しにいったオリヴァーからアルノルトに伝わり、応接室に通す許可が下りた。
テオドールと別れたリーシェは、急いでドレスを着替えたあと、護衛騎士ふたりと一緒に応接室へと向かう。
扉を開けると、そこには大輪の花のように美しい赤髪の女性が、リーシェのことを待っていてくれた。
「お待たせして申し訳ございません。リーシェ・イルムガルド・ヴェルツナーと申します」
「とんでもない! お目に掛かれて光栄です」
立ち上がった彼女は、リーシェに向けて丁寧な一礼をする。
「シルヴィア・ホリングワースです。昨晩は、助けていただきありがとうございました」
「どうかお顔を上げてください、シルヴィアさん。体調はいかがですか? ここまで来て下さって、お体が辛いのでは……」
顔色を見る限り、顔色は良くなっているようだ。とはいえ、化粧の効果だという可能性もあるので、見た目だけで判断は出来なかった。
心配したものの、シルヴィアは優雅に首を横に振る。
「手配いただいたお医者さまのところで、お薬をいただいてゆっくり休みました。寝る前には随分楽になっていたのですけれど、朝にはもうすっかり」
「よかった。それを聞いて安心いたしました」
そんなことを言いつつも、無理をしているのではないだろうかと不安になる。
昨日のシルヴィアは、一度気を失ったあと、朧げに覚醒した状態に見えた。病の発作である場合、それほど強い症状が出た翌日に、すっかり回復することは少ない。
とはいえ、注意深く観察してみても、確かに元気そうに見えるのだった。
「何よりもリーシェさまのお陰です。本当なら、すぐにでも昨日の公演の続きをお見せしたいのですが、一週間も延期になってしまって……」
心底残念そうに言うシルヴィアに、リーシェは苦笑した。
「すぐにでも劇場に行きたい気持ちは、私も同じです。ですが焦らず、ご自身のことも大事にして、ゆっくりとご療養なさってください」
「でも。――人間というものは、明日死んでしまうかもしれませんから」
「!」
微笑んで言ったシルヴィアは、まっすぐにリーシェのことを見ていた。
「私も、観に来て下さるお客さまも。誰にとって、どの日が最期になるかなんて分からないでしょう?」
そう言って、たおやかな指でそうっと胸を押さえる。
上品だけれど、とても妖艶で華やかな仕草だ。長い睫毛に縁取られた瞳からは、不思議な力が感じられる。
「私は歌うために生まれて来たのです。だから、一度でも多く舞台に立ちたくて、たまらなくて」
けれどもシルヴィアは、そう言ったあとで照れ臭そうに笑う。
「……なんて。体調不良でご迷惑をお掛けした方に、こんなことを言ってはいけませんね」
「ふふ。もっとシルヴィアさんの歌を聞きたい気持ちと、無理をしないでいただきたい気持ちで、複雑な気分です」
そう言うと、シルヴィアはとても嬉しそうにはにかんだ。
「リーシェさま、どうか私のことは『シルヴィア』と。話し方も、もっと楽にしていただければ……」
「では、私のこともどうかリーシェとお呼びください。同じように、畏まらず」
「そんな訳には! 本来であれば私のような身分の者が、次期皇太子妃さまにこうしてお会いするだけでも恐れ多いことです」
「あら。そういう意味でしたら、一介の歌劇好きが歌姫さまと直接お話していることこそ、本来なら許されない『身分違い』ですよ?」
「!」
何しろ観客というものは、本来演者と話すことは出来ないのだ。
そう言うと、シルヴィアは驚いたように目を丸めたあと、吹き出すように笑って言った。
「うふふっ、分かったわ。じゃあ、リーシェ」
「よろしくね、シルヴィア」
護衛騎士たちが、そんなやりとりを何故かにこにこと笑いながら見守ってくれる。リーシェはシルヴィアと握手をしつつ、改めて彼女のことを考えた。
歌姫シルヴィア・ホリングワースは、旅をする歌劇団に所属し、さまざまな国で人気を博している。
その歌声や美貌はもちろん、舞台上で目を惹く振る舞いやその表情で、観客たちを魅了してきた。
未来でも活発に活動し、戦争が始まって苦しい状況の中、シルヴィアの歌に勇気づけられた人は多かったはずだ。
「私、一年前にシルヴィアの歌を聴きに行ったことがあるの。故国のエルミティ国で公演があったときなのだけれど」
「ほんと? うれしい! 一年前のエルミティ国なら、『妖精婚姻譚』のときかしら」
「ええ、すごくすごく素敵だったわ! 特に終盤、姫が二回目の婚儀で誓いのキスを交わす場面が……」
そこまで言って、リーシェははっとする。
「リーシェ?」
「……ごめんねシルヴィア。こうしてお友達になったばかりで、変なことを聞いてしまうのだけれど……」
リーシェは、手袋をはめたシルヴィアの手を再びきゅっと握り、切実な気持ちでこう尋ねた。
「誓いのキスについて、詳しいことを知りたくて――――……」




