155 かつての婚約者に宣言します
照れ臭さと共に、アルノルトの言葉を噛み締めてしまう。
だが、聞いていたディートリヒは、がくりと俯いて唸り声を上げた。
「うぐう、うう……!」
(は……っ!! そうだわ、いまはディートリヒ殿下……!)
ふにゃふにゃしている場合ではない。リーシェは一刻も早く、アルノルトをディートリヒから離さなくてはならないのだ。
「僕が……間違っていたというのか……?」
(ここは、どうするのが正解なのかしら)
どうにか切り替えて、思案する。
(これまでの人生通りなら、ディートリヒ殿下はいまから一年も経たないうちに、お父君へのクーデターを目論んで失敗なさるのよね)
その噂を過去人生で耳にした時は、あまりのことに呆れてしまった。
クーデターとは言ってみるものの、その顛末はお粗末なものである。ディートリヒは臣下たちに唆され、父王への背信めいた行動を取るものの、すぐさま露呈してしまうのだ。
武器を集めることも出来ず、国家機密を流出させることも出来なかった。父王に傷の一本も与えたわけでなければ、騎士たちが動く事態にすらなっていない。
あまりにも気付かれるのが早すぎて、ディートリヒが何らかの行動を起こす暇もなかったと聞いている。
言うなれば、ディートリヒの犯した罪は、『国王への背信を計画した』その一点のみなのだ。
しかし、それは絶対に許されることのない大罪でもある。
ディートリヒは王太子の権限を剥奪され、軟禁状態へと追いやられるのだった。そしてエルミティ王国王太子の座は、年の離れたディートリヒの弟へと渡る。
そんなことを思い出しながら、リーシェはちらりとアルノルトを見上げた。
(本当に、アルノルト殿下とは正反対だわ……)
「?」
過去すべての人生において、父帝から皇位を簒奪してみせたアルノルトは、リーシェの視線を不思議そうに受け止めた。
(『私がディートリヒ殿下に干渉することは出来ない』と、婚約者だった十五年間で身に染みて分かっているもの。止めなかったとしても、あのクーデターで失われるのはディートリヒ殿下の王位継承権くらいだし……)
リーシェはううんと考え込む。
(でも、以前のディートリヒ殿下なら素通りされていたような諫言が、今日はいつもより届いている気がする。マリーさまのご教育の結果……? アルノルト殿下の迫力のお陰かしら。今なら私にも、何かディートリヒ殿下をお手伝い出来るかも)
ディートリヒが顔を上げたのは、その時だった。
「いや――――僕は、僕は間違っていない! 胸を張るんだディートリヒ!」
「……殿下?」
「いまこそ話してやろう! この僕が何故、お前の十六歳の誕生日を前に、ガルクハインまで来てやったのか、本当の理由を……!!」
涙声のまま突拍子もないことを言われ、リーシェはきょとんとしてしまう。
「私の誕生日、ですか」
確かにリーシェは九日後、七の月三十日に誕生日を迎える。
だが、それがどうしたというのだろう。
「ガルクハインも我が国と同様、十六歳にならないと婚姻を結べないだろう? つまりリーシェ、お前が十五歳であるうちは、ガルクハインに正式には嫁いでいないというわけだ!」
「……?」
力いっぱいの発言に、ますます混乱してしまった。
「分からないか? お前が婚姻の資格を得ていない今のうちに、僕が助けてやると言っているのさ」
「助ける? 私を? 一体何から?」
「もちろん!」
びしり、と人差し指の先が向けられる。
「お前にとって不本意であろう、その婚約からに決まっている!!」
「――――……」
リーシェは思わず絶句した。
「大体、父上も父上だ! 仮にも僕の幼馴染であるリーシェを、『冷酷で残虐』と噂される男の元に差し出すなど。いくらなんでもリーシェが可哀想じゃないか!!」
「……」
ディートリヒはぐすっと泣き啜りながらも、自信を取り戻したらしき表情で言う。
「だが、僕は大国相手にも屈しない。こうしてまだ間に合ううちに、リーシェを助けてやろうとしているわけだな!」
「……」
「そしてこの皇都に辿り着き、歌姫シルヴィアの名前を見て劇場に入っただけだというのに、こうして偶然の再会を果せたんだ! うん、考えれば考えるほど、女神は僕の味方をしている!」
「…………」
「喜べリーシェ。お前の誕生日祝いの祝宴は、我が国に帰ってから開けるぞ」
そしてディートリヒは、きりっとした涙目でアルノルトを見た。
「アルノルト・ハイン殿! 僕は貴殿を恐れない! ……いや、本当は少し、大分怖いが……これは乗り越えるべき試練!! 僕は王たる資質に満ちた、未来の国王なのだから!」
無礼な言葉を向けられたはずのアルノルトは、心からどうでもよさそうな表情をしている。
アルノルトにとって、もはや相手をする価値もないのだろう。ディートリヒにまったく反応を返すことなく、アルノルトがこちらを見遣った。
「リーシェ。もうそろそろ気が済んだか」
「…………」
「なら帰るぞ。騎士に命じて、この男はどこかに引き渡す」
「な……っ!! ぼ、僕を追い返すつもりか!?」
リーシェは深呼吸をしたあと、俯いてから口を開いた。
「ディートリヒ殿下」
「!?」
ぽつりと名前を呼ぶと、ディートリヒが肩を強張らせる。
「……私は。あなたに婚約破棄をされようと、国外追放を命じられようとも、それについて何か申し上げるつもりはありませんでした」
「り……リーシェ……?」
「ですが」
リーシェは真っ直ぐに、ディートリヒのことを見据えた。
「――あなたが、アルノルト殿下のことを悪し様に仰るのは、絶対に看過できません」
「ひえ……!?」
これまでの十五年間、リーシェは何度もディートリヒを叱ってきた。
だが、彼にこんなにも強い感情を向けたのは初めてかもしれない。
現に目の前のディートリヒは、驚いて何も言えなくなっている。
「アルノルト殿下は、私に対して世界一おやさしいです。街に出ることを許し、乗馬のための馬を貸して下さって、ときには剣術の稽古をつけて下さる。あなたの婚約者だった私には、どれも許されないことでした」
「な、なんだと……!?」
リーシェがお忍びで出掛けたことを、アルノルトは怒らなかった。
離宮を自分で整備することも、畑で薬草を育てることも、侍女の採用や教育も任せてくれた。リーシェが剣術手合わせを頼めば、忙しいときでも時間を作ってくれる。
リーシェが選択したことを、彼は認めてくれるのだ。
貴族家の女性にとって、リーシェにとって、それがどれだけ掛け替えのないことだろうか。
「私に気を配り、私の体調を案じて、自由に過ごせているかを慮って下さって。アルノルト殿下が私を叱るのは、私が何か危険なことをしたときだけです。……それなのに、私を助けるなどと、世迷言を仰るのなら……」
次の瞬間、リーシェは言葉の勢いのまま、アルノルトにぎゅうっと抱き着いた。
「!」
「なななあ……っ!?」
アルノルトとディートリヒの驚きが、一気にリーシェへと向けられる。
アルノルトの体は、剣士としては細身にも見える体型だ。それなのに、こうして実際に腕を回すと、体格の良さや筋肉の硬い感触にびっくりする。
そのことを深く考えないようにして、リーシェはディートリヒをきっと睨んだ。
「ディートリヒ殿下に証明いたします! アルノルト殿下が、夫としていかに素晴らしいお方であるかを!」
「のっ、ののののの、望むところだ……!!」
「………………」
けれど、そんな体勢でいられたのは、ほんの数秒ほどである。
リーシェはその後、帰りの馬車で、顔を真っ赤にしながらアルノルトに謝ることになるのだった。
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