153 かつての婚約者の弁解は
気恥ずかしくなり、リーシェは慌てて俯く。
そのとき、向かいのディートリヒが、ようやくこちらの状況に気付いたらしき声を上げた。
「というかその体勢はなんだ!? まだ夫婦ではないのに、腰を抱くだとう……!?」
ディートリヒは、耳まで真っ赤にしながらアルノルトを見る。
「そういうのはっ、はれっ、破廉恥なんだぞ!!」
「は?」
「わおうあ……っ!!」
アルノルトが放った短い言葉に、ディートリヒは長椅子で跳ね上がる。
あまりにも冷たい殺気だった。隣で聞いているだけのリーシェでも、背筋が凍り付きそうなほどだ。
ディートリヒを黙らせたあとも、アルノルトは殺気をやわらげない。
重い視線を向けられ、縮こまるディートリヒを見つつ、リーシェはアルノルトに謝罪する。
「アルノルト殿下……。その、なんだか申し訳ありません……」
「お前が謝ることは、なにひとつないだろう」
リーシェに向けられる言葉だけは、穏やかでやさしい。
けれどもアルノルトは、再び冷たい目でディートリヒを見遣ったあと、どことなく怠惰な雰囲気を纏いながら口を開いた。
「……それで?」
「ぐ……っ」
言葉数の少ない問い掛けに、ディートリヒが身構える。
「ぼ、僕はいま、貴殿ではなくリーシェと話しているんだ!」
「リーシェが対話を望むからこそ、貴様がこの場にいることを許している。本来であれば、貴様は『この国の妃と直接会話できる立場ではない』ということを理解しろ」
「だ……だからといって、リーシェはまだ貴殿の妃ではないはずだ。自分のもの扱いするには早いぞ!」
すると、アルノルトは静かな軽蔑のまなざしをディートリヒに向ける。
「『夫』の持つ権利について、根本的な思い違いをしているらしい」
「なんだって!?」
「リーシェは俺の妻とはなるが、俺のものになるわけではない。彼女に関する権利を所有するのは、彼女のみだ」
「うぶう……!」
「俺はリーシェに危険が及ばない限り、その行動を制限することはない。俺が自由な行動を許さないのは、貴様に対してだと弁えるんだな」
(……本当に、アルノルト殿下はいつも、私のしたいことを尊重してくださる。ディートリヒ殿下とお話の場を設けて下さったのも、そのお陰だけど……)
アルノルトは、地を這うように低い声で言う。
「リーシェの最初の問いに答えろ。……『なぜ、貴様がこの国にいる』」
(……本格的にご機嫌ななめだわ……)
いくら大国ガルクハインの皇太子といえど、これが普段のアルノルトであれば、もう少し違った言葉の選び方をしているはずだ。
少なくとも他国の王族と話す際は、それが戦時中の敵国でもない限り、いきなり命令口調で話すことなどなかっただろう。
やはりディートリヒとの会話は、アルノルトにとって精神衛生上よくないものなのだ。
「ディートリヒ殿下」
早くこの場を切り上げるためにも、リーシェは口を開く。
「実はわたくし、ここ最近は、マリーさまとお手紙を交わしておりまして」
「なあっ!? お前がマリーと文通だと!?」
「そのお手紙に書いてありました。マリーさまは、私がエルミティ国を出立してからというもの、ディートリヒ殿下の『教育』に身を捧げていらっしゃると」
「!!」
リーシェがガルクハインに着いた直後、マリーからはありったけの謝罪が届いていたのだ。
便箋には何枚にも渡り、マリーがリーシェにしたことのお詫びと、それを償うために決めたことが連ねられていた。
言葉を尽くして綴られた中に、ディートリヒの今後についても書かれていたのである。
「マリーさまは、たとえご自身が王太子妃になることは無くとも、ディートリヒ殿下が立派なお方になれるように傍で支えると仰っていました」
「ぐ……うぐぐ……」
「……ですが、不思議に思っていたのです。ディートリヒ殿下が、たとえ愛するマリーさまの指導といえど、そのような『教育』に耐えられるなんて……と」
リーシェはすんと目を細め、ディートリヒを見遣る。
「ディートリヒ殿下。――エルミティ国から、逃げて来られたのでしょう?」
「ちちちちちちちちっ、違あーーーーーーう!!」
「寄るな。座れ」
「ひいっ」
叫びながら立ち上がったディートリヒを、アルノルトが淡々と威圧する。その瞬間、更にぎゅうっと腰を抱き寄せられ、リーシェは心臓が爆ぜそうになった。
「この僕が、逃げたりするはずないだろう!」
(そんなことより、アルノルト殿下は何故、どことなく私を庇うような体勢に……!?)
座り直したディートリヒは、必死に言葉を探しながら言う。だが、リーシェの心情はそれどころではない。
「マリーはものすごく繊細だから、あの婚約破棄を気に病み過ぎてしまっているんだ……!! 『私たちがリーシェさまにしてしまったことは、到底許されない大罪です。寛大なお気持ちに報いるためには、私たちが変わらないと』なんて言い始めて……」
アルノルトに抱き寄せられ、どきどきする左胸を押さえつつ、ディートリヒに対しては冷静に告げた。
「ど……どうぞ私のことなどお気になさらず。ですが、そんなマリーさまのお気持ちは嬉しく、心より痛み入ります」
「お前はいまのマリーを知らないからそう言えるんだよ!! いいか、あれ以来マリーは左手に教本、右手に強靭な鞭を持って微笑み、『今日も頑張りましょうディーさま』とにこやかに鞭をしならせるんだぞ!?」
(……それはちょっと、どういう状況なのか見てみたい気もするけれど……)
この様子だと、リーシェの見立ては当たっているのだろう。
「国王陛下をはじめ、皆さまマリーさまに協力的だそうですね」
「ぐっ、ぐぬぬぬぬ!!」
「お勉強に、改めての礼儀作法教育、帝王学の再履修。ディートリヒ殿下はそんな諸々に耐えかね、自国内で行き場を無くし、だからこそガルクハインまで来られたのでは?」
「………………」
しん、と室内が静まり返った。
隣のアルノルトは無言だが、項垂れたディートリヒに対し、もはや汚いものでも見るようなまなざしを向けている。
リーシェは小さく溜め息をつき、口を開いた。
「ディートリヒ殿下。マリーさまも国王陛下も、決してあなたへの意地悪で仰っているのではないのですよ?」
「う……っ!!」
「私だってそうでした。ディートリヒ殿下をお支えしなければと思うからこそ、さまざまな進言をさせていただいたのです。それを……」
「ぼ、僕を誰だと思っているんだ!?」
リーシェの言葉を遮って、ディートリヒが声を上げた。
「よってたかって教育されるほど、落ちこぼれているわけじゃない! 昔から才能がある、やれば出来ると言われてきたんだ!!」
「でも、やりませんでしたよね。一度も」
「ぐなあっ!?」
何かが心臓に突き刺さったかのように、ディートリヒが左胸を押さえた。
「『やれば出来る』という言葉は、『やっていないから出来ない』と同義です。仕舞われていて出すことの出来ない道具は、存在していないものと変わりません」
「うっ、うううう……!」
「ディートリヒ殿下。『やろうと思えばいつでもやれる』という環境にいられることは、本来とても恵まれたことなのです」
婚約者だった時代には、もう少し言葉を選んでいた。けれども今日は、アルノルトの精神衛生上、なるべく早く帰りたい。
だからこそ、ディートリヒへ告げることにする。
「私の元にいる侍女は、どれだけ勉強をしたくとも、幼い弟妹の世話をしなくてはならない子たちでした。『何かを学ぶために努力する』という、それすら許されない日々を、想像なさったことは?」
「ぐ……っ!」
「マリーさまだってそうでしょう。ご家族を助けるためにと裕福なお相手との結婚を望み、必死に学院への入学を果たされた。そんなマリーさまが、『王太子妃になれなくとも構わないから』と、ディートリヒ殿下に尽くされていることをどうお考えに?」
「そ、それは!!」
マリーの名前を出したことで、ディートリヒの顔色が変わった。
けれども彼は、ぐっと両手を握り締め、振り絞るように言うのだ。
「お、お前に何が分かるんだ……!! 僕だって生まれて数日くらいは、普通に努力しようとしていたさ!!」
「生まれて数日の赤ちゃんは、まだそういうことを考えられません」
「細かいことはいいんだよ!! そうだ、お前に分かるものか、僕の気持ちが!!」
ディートリヒは顔を真っ赤にし、リーシェに叫ぶ。
「望まないのに王太子に生まれ、生まれたときからお前という人間が傍にいた、僕の気持ちがなあ!!」
「……」
思わぬ言葉を向けられて、リーシェはぱちぱちと瞬きをした。
「僕の前にはリーシェ、いつもいつもお前が立ちはだかっていた!! 僕より試験の点が高く、物覚えが良くて、常に大人に注目される……!!」
「ディ……ディートリヒ殿下?」
「僕の家庭教師なのに、お前だけが対等に教師と話をして! 馬場に連れて行けば、お前が先に馬と仲良くなる! 走るのも僕より早いし、剣術に至っては無惨に負かされたんだぞ!!」
「……」
リーシェは言葉に迷い、口を閉ざす。
「僕が努力したって、絶対お前に敵いっこないんだ! だが僕にだって、優れたところはたくさんある! 王太子にさえ生まれて来なければ、僕の実力は相応に評価されたはずなのに……王太子に生まれるのであれば、せめてお前のような能力があればよかったのに! そんな気持ちをずっと、僕は、僕は僕は……」
驚いているリーシェの前で、ディートリヒが再びがくりと項垂れた。
「僕は――ぐすっ」
「!!」
どう声を掛けていいか分からないでいるうちに、ディートリヒから涙声が聞こえて来る。
「本当は……お前のような人間になりたかった……!!」
(な……泣いてる……!!)
リーシェは愕然としてしまう。
十五年も身近で育ってきたものの、こうしてディートリヒが泣くところを見るのは、リーシェにとって初めてのことだった。
(いくらなんでも、言い過ぎたのかしら)
狼狽えたリーシェは、思わず隣のアルノルトを見上げる。
ここ最近のリーシェは、困ったときについついアルノルトを頼ってしまうのだ。彼に甘えている自覚はあって、よくない傾向だとも反省していた。
(殿下だって、こんなときに助けを求められても困るわよね)
そう思ったのだが、アルノルトはリーシェを見下ろして、仕方がなさそうな顔をする。
「……分かった。任せておけ」
「え!」
どうやら、リーシェが困っていることに、気が付いてくれたらしい。
(もしかして、アルノルト殿下がディートリヒ殿下を慰めて下さるのかしら? そうかもしれないわ。アルノルト殿下は、本来とてもやさしいお方だし)
そしてアルノルトは、ディートリヒを見遣って口を開いた。
「――どのような理由や、経緯があろうと」
(……んん?)
どう考えても、慰めの言葉が続く雰囲気ではない。
リーシェがそう思うのと同時に、アルノルトはきっぱりと言い放つ。
「一切の非がないリーシェと婚約破棄し、国外追放しようとした、貴様の愚行の釈明にはならない」
「ぐうううう!!」
(あ、アルノルト殿下----っ!!)
その瞬間、ディートリヒが泣きながら崩れ落ちた。




