152 かつての婚約者に困惑です
リーシェに婚約者が決まったのは、リーシェが生まれてから、おおよそ一か月が経ってからだと聞いている。
つまり、エルミティ国第一王子、ディートリヒが生まれた直後のことだ。
リーシェは物心ついたときから、公爵家のひとり娘という身分に加え、『未来の王太子妃』という立場を抱えながら生きて来た。
そして、王太子のディートリヒとは、婚約者であり幼馴染として育ったのである。
『リーシェ! おまえ、このあいだの試験で、ぼくをさしおいて百点をとったらしいな!?』
小さかったころのディートリヒは、城や公爵家でリーシェと会うなり、こんな風に怒ることがしょっちゅうだった。
『だってディートリヒさま。あの試験は、すごく分かりやすい教本をいただいたでしょう? せんせいは、「よんで分からないところがあれば、いつでもおしえます」って言ってくれました』
『む、むむ……!』
『あした、全部おんなじ問題で、もういちど試験がありますよね?』
王太子妃教育には、夫を励まして応援することや、夫の支えになることも組み込まれている。とはいえそれだけでなく、リーシェは本心からディートリヒに告げた。
『きちんと教本をよめば、ディートリヒさまならぜったいに、ぴかぴかの百点が取れます!』
『っ、ぼくは……』
『ディートリヒさま。だから今日は、わたしと一緒におべんきょうを……』
『ええい、うるさいうるさい!』
リーシェが伸ばした手を振り払い、ディートリヒはこちらを睨みつける。
その顔は耳まで真っ赤になっていて、心底悔しそうな表情だ。
『ぼくは天才だぞ!? まったくべんきょうをせず、三十五点もとれたんだ!! だから、必死にべんきょうして百点のおまえよりも、ぼくのほうがずーっとすごい!!』
『ディートリヒさま……』
『そ、そうだとも……。自信を持てディートリヒ!』
自分に何事かを言い聞かせたあとで、ディートリヒはリーシェを指さした。
『ぼくを甘くみるなよリーシェ! おまえはそのうち! ぼくのほんとうのすごさに! ひれふすことになるんだからなあ!!』
『……い、行っちゃった……』
王城を駆け出していくディートリヒの背中を、いまでもはっきりと思い出せる。彼は結局、すぐさま騎士に見つかって、連れ戻されていた。
とはいえそんなやりとりは、勉学に関することだけではない。
お互いが成長していく中でも、ディートリヒは幾度となくリーシェに対し、色々な抗議を向けて来たのだ。
『駄目だ駄目だ、女性が自ら馬に乗るだなんて! そんなことをすれば、僕の乗馬が下手な所為だと思われるだろう?』
『街にお忍びで出掛けたい? 冗談じゃない! 万が一見つかってみろ、婚約者の僕まで品位が疑われる!』
『色々な学問に挑戦してみるよりも、お前には「王太子妃としての本分」があるじゃないか。そんな調子だと、どれもこれも中途半端になるんだぞ?』
恐らく、ディートリヒからも両親からも禁じられなかったことといえば、「護身用に、剣術を習得したい」と提案したときくらいだろう。
『お前が剣を習う……? そういえば、王妃の護身術によって、王が暗殺者から守られたという事例があったな。よし、いいだろう! せっかくだし僕も付き合ってやるぞ! 剣を自由自在に扱ってみるというのは、なかなか楽しそうだからな!』
けれどもこれも、束の間のことである。
一年ほど経ち、初めて行った手合わせでリーシェが勝った。
その直後、ディートリヒは烈火のごとく怒り、リーシェが剣術を習うのを辞めさせたのだ。
『やはり、王妃が剣術だなんて言語道断だ! そんな野蛮な女性は、エルミティ国の国母にふさわしくない!!』
そして、その日にリーシェが帰宅すると、家にあった稽古の道具はすべて処分されていた。
『ディートリヒ殿下がお嫌なのであれば、当然あなたにそれを行う権利はありませんよ』
『っ、お母さま……』
『確かに私もお父さまも、あなたに優秀であれと命じました。それはすべて、より優れた王妃となるためです。身に着けた技能によって、殿下のお心を傷つけるくらいなら……』
リーシェの母は、聞き分けのない子供に言い聞かせるように、淡々と冷たく言い放った。
『そんな技能に、一切の価値はありません』
『……!!』
そんな出来事があったのが、リーシェが十三歳のときだ。
それでもあのころのリーシェは、自分の生きている意味なんて、『未来の王太子妃になることだけ』なのだと思い込んでいた。
だから我慢し、努力をして、ディートリヒを傍で支え続けたのだ。
ディートリヒの勉学の補助をしたし、素行を正す役割はリーシェのものだった。
けれどもそれは当然で、彼の妃になるのだから仕方がない。
そして王立学院を卒業し、本格的な花嫁修業が始まる直前である、五の月一日の夜会でのこと。
『リーシェ・イルムガルド・ヴェルツナー! 王太子の婚約者にあるまじき、陰湿な女め』
正装したディートリヒは、まっすぐにリーシェを指さし、幼いころから変わらない調子で言い放ったのだ。
『今日この時をもって、僕は貴様との婚約を破棄する!!』
『――――――……』
この瞬間、リーシェは晴れて、自由の身になったのである。
***
(もちろん、『一回目』の婚約破棄の瞬間は、混乱しすぎてそんな風に思えなかったけれど……)
ガルクハイン皇都の劇場で、用意してもらった特別室の椅子に腰を下ろし、リーシェは深く溜め息をついた。
この部屋は、皇族や貴族が観劇前後の歓談に使うための一室だ。
テーブルは無く、数脚の椅子が向かい合う形になっていて、リーシェはそのうちの長椅子に座っている。
そして、向かいの椅子に座るディートリヒを、どんよりとした心境で見据えるのだった。
「ふ。顔を見るのは数か月ぶりだが、思ったよりも元気そうじゃないか! この僕と再会できて、お前も嬉しいだろう?」
(これまで繰り返して来た人生の中で、婚約破棄後にディートリヒ殿下とお会いしたのは、この人生が初めてだわ)
「聞いているのかリーシェ。……なあ、なあってば!」
(色々と整理したいことはあるのだけど。…………だけど、まず、何よりも先に……)
額を押さえていた手をどけて、リーシェはちらりとアルノルトを見上げる。
アルノルトは僅かに眉根を寄せて、同じ長椅子、リーシェの隣に掛けていた。
ここまではなにも問題ない。
だが、気になるのはアルノルトの右手についてだ。
(……どうしてアルノルト殿下のお手々は、私の腰をがっちりと抱き寄せているの……!?)
「…………」
その上、ものすごく距離が近い。
左手は肘掛に頬杖をつき、ぞんざいに脚を組んだアルノルトは、黙ってディートリヒを眺めていた。
(ディートリヒ殿下を無視できないから、仕方なく場所を設けてもらったけれど……)
リーシェは先ほどまでの大騒動を思い出す。
ディートリヒの姿を見止めた瞬間、先に動いたのはアルノルトだった。
アルノルトは迷わずリーシェの手を引き、劇場の外に向かおうとしたのだ。
しかし、ディートリヒが全力で存在を主張してきたため、リーシェが諦めてアルノルトを止めた。そのまま劇場の廊下で騒がれては、他の人や騎士たちの迷惑になるからだ。
そして、今に至る。
リーシェの隣にいるアルノルトは、心底機嫌が悪いようだった。
(アルノルト殿下はどう考えても、ディートリヒ殿下のようなタイプがお嫌いだものね)
そもそもが、リーシェが夜会などで観察する限り、アルノルトは声の大きい人間が好きではないのだ。
(で、でも、だからといって! 何故こんなに、ぎゅっとされているのかしら……)
アルノルトの手は、リーシェの腰にしっかりと回されている。
お互いの距離は、先ほど特別席にいたときよりも近いかもしれない。
ダンスをするわけでもないのに、人前でこんなに触れ合っていると思うと、なんだか落ち着かない気持ちになる。
「あ、アルノルト殿下……。ディートリヒ殿下に事情を聞くのは、私ひとりで十分ですので」
リーシェはそわそわとアルノルトを見上げ、小さな声で尋ねてみた。
「ご気分が優れないようでしたら、アルノルト殿下は別の場所に行って、お待ちいただいても……」
「おいリーシェ! なんとなく分かるぞ、いま僕の話をしているだろう!」
「…………」
ディートリヒから視線を外したアルノルトは、リーシェの方を見下ろして、静かに目を伏せる。
「――行かない」
「……え」
そして、はっきりと口にするのだ。
「お前のそばにいる」
(っ、うぐう……!!)
どことなく誠実な物言いに、どきりと心臓が跳ねてしまった。




