150 緊急事態なのですが!
アルノルトは、リーシェとアルノルトの間に挟まれたクッションに肘を掛けている。
体重は殆どそこに乗せているらしく、リーシェにとって重すぎるということはない。
けれども左肩には、確かな重みが感じられるのだ。
体同士の距離だけではなく、感情や心のようなものまでもが近しい気がして、リーシェは頬が火照るのを感じた。
ここは劇場内だ。大きな声を出しすぎないよう、なるべく抑えながら、ひそやかに尋ねる。
「っ、あの、殿下……?」
「……なんだ」
アルノルトの声音は、いつもとそれほど変わらない。
この状況が当然であるかのような、なんの変哲もない事態であるような、そんな雰囲気を帯びている。
それでいて、やはり何処か倦怠的でもあるのだった。
リーシェはどきどきしつつ、アルノルトの方を見ながら尋ねてみる。
「も……もしかして、おねむですか?」
「……」
尋ねると、アルノルトは視線だけでこちらを見上げた。
いつもはリーシェが見上げる側だから、こうしてアルノルトに上目遣いをされるのは初めてだ。海色の綺麗な瞳に見つめられて、どうしてか心臓が跳ねてしまう。
「眠くはない」
(眠く『は』……?)
リーシェの動揺を知りもせず、アルノルトははっきりと言った。
「俺の問いに、お前が答えてくれるのだろう?」
(そうですが、何故この体勢で!!)
そう思ったが、とても直接突っ込む勇気はなかった。
リーシェが驚いていることも、頬が赤くなっていることも、きっとアルノルトは分かっている。
それなのに、リーシェのそんな様子を観察して、彼は少しだけ満足そうにしたようだ。
そのくせ、ここから離れてくれるようなことはせず、再びパンフレットの方に視線を落として言う。
「そもそも、歌劇とはどういうものなんだ」
「っ、それは」
アルノルトがすぐ傍で紡ぐ声は、リーシェの耳をくすぐった。
音響の良い劇場だからなのか、いつもよりも低音に聞こえるその声音に、左胸の鼓動がますます早くなったような気がする。
けれども質問をされた以上は、誠心誠意応えたい。
「普通の演劇は、お芝居のみで表現されるものですが……。歌劇となると、その表現方法に、歌が合わさるのです」
「ふうん」
相槌を打ったアルノルトが身じろぐと、くしゃりと髪の擦れる音がする。肩越しに体温が伝わってくるお陰で、改めてこの距離の近さを感じた。
アルノルトが、右手の黒手袋をするりと外す。
どこか怠惰なその仕草が、妙に絵になるので息を呑んだ。そうして露わになった大きな手が、リーシェの膝へと伸ばされる。
アルノルトは、そこに乗せたパンフレットのページを、ゆっくりと捲ってみせるのだ。
「これから始まる演目は、お前の好きなものなのか?」
「そ、それが……この劇団は、事前に演目を公表しないのです。始まってみるまで、どんな物語を演じて下さるのか分からないのが、楽しみのひとつで」
以前の婚約者だったディートリヒは当初、それに対する不満を口にしていたことを思い出す。
その記憶が過ぎったのと、アルノルトが再びこちらを見上げたのは、何故かほとんど同時だった。
「お前が以前観たのは、どのような内容だった」
そんなことを尋ねる理由は、今夜の演目を予想するための参考にしたいのだろうか。
リーシェは、動揺を落ち着かせるための深呼吸をしながら、アルノルトを見下ろして答えた。
「魔法が存在する設定の世界で、婚姻を主題にしたものです」
「へえ?」
「お姫さまが政略結婚をするのですが、その婚儀の際に行われる、誓いのキスを巡る物語と――……」
そこまで説明したところで、リーシェは口をつぐむ。
見つめるのはアルノルトの青い瞳だ。
双眸を縁取る睫毛は長く、特別席に揺れる蝋燭の灯りを受けて、白い頰に影が落ちている。この薄明かりの中でも、青い瞳は宝石のようだった。
リーシェは、その瞳から目を逸らせないまま、とある事柄に思い至る。
(婚姻の、儀式……?)
リーシェはあと一ヶ月もしないうち、アルノルトと結婚することになっている。
そのことはもちろん分かっているし、そのための準備で日々動き回っているのだ。当日の大まかな流れについては、リーシェの故国とそれほど変わらない。
だからこそ、現時点では軽く目を通すだけに留め、アルノルトの戦争阻止に繋がる動きの方を優先してきた。
けれどもこの瞬間、リーシェは改めて思い至る。
(…………婚姻の儀で、キスをするのは……)
それは、リーシェとアルノルトも同様ではなかっただろうか。
「――――――……」
「……リーシェ?」
ぴしりと固まったリーシェのことを、アルノルトが怪訝そうに見上げた。
(……婚姻の儀は、女神さまの前で婚姻を誓い、夫婦となる儀式。……城内の神殿で誓約を交わして、そのあとに…………)
そこで、口付けを交わすのだ。
改めてその事実を認識し、ぱちぱちと瞬きをする。
(――誓いのキスを? アルノルト殿下と? 参列者の人たちの前で?)
「……おい、どうした」
アルノルトが身を起こし、リーシェの顔を覗き込んできた。
肩の重みからは解放されたが、結局至近距離であることに変わりはない。その上にお互いの顔が近付いてしまったせいで、二ヶ月ほど前のことを思い出す。
テオドールに呼び出された礼拝堂で、リーシェはアルノルトと言葉を交わした。
その末に、アルノルトの指におとがいを捕らえられ、そのままキスをされたのである。
「〜〜〜〜……っ」
その瞬間、ただでさえ火照っていた顔が、一気に熱くなったのを感じた。
あのときのことについて、リーシェはなるべく考えないようにしている。
アルノルトに何か思惑があったのは明白で、それなのにこちらは翻弄されてしまうから、考えては駄目だと自分を諌めてきたのだ。
「なんだ? まさか、熱でも……」
「で、殿下……!」
アルノルトが、リーシェの頰に触れようと手を伸ばしてきた。
リーシェは慌ててその手首を掴むと、ドレスの膝上に彼の手を置き、閉じ込めるように両手でぎゅうっとくるむ。
結局触れ合ってしまうことには変わりないが、アルノルトに触られるよりも、自分からこうしていた方がずっと心臓にやさしい。
「大丈夫です。……問題、ありませんから……」
「……」
だが、アルノルトの方はといえば、なんだか複雑そうな顔で眉根を寄せるのだ。
アルノルトは剣士だから、両手が不自由なのを厭うのだろう。落ち着かない状況にさせてしまうのを申し訳ないと思いつつも、いまアルノルトに触れられるのは避けたい。
こんなに近くにいる状況で、またあの時のキスを思い出したら、泣きそうになってしまう自信があった。
そこに、開幕のベルが鳴り響く。リーシェは必死に平常心を取り繕い、何事もないかのように振る舞った。
「あ……! は、始まりますね……!」
「……」
劇場係員によって、客席内のあちこちに灯されていた蝋燭が消されていく。
辺りが暗くなるのに反比例して、客席がにわかに騒がしくなる。それはきっと、幕が上がる直前の高揚感によるものだろう。
そうして一拍置いたのち、今度は示し合わせたかのように、劇場内はそうっと静まり返った。
だが、いつもならわくわくする静寂も、いまのリーシェにとっては不都合だ。
(……心臓の音が、殿下に聴こえちゃう……!!)
観劇前だというのに、舞台に集中できないなんて由々しき事態だった。
アルノルトの表情を窺いたいが、彼と目を合わせる勇気がない。思考がぐるぐると回っている間に、赤い緞帳が上がり始める。
(――あ)
シャンデリアに照らされた舞台の上に、ひとりの女性が立っていた。
ここは四階席のため、オペラグラスを使わずには、はっきりとその顔を見ることは出来ない。
それでも美しさが伝わってくるのは、彼女の立ち姿が咲き誇る花のようだからだ。
さらさらとした長い髪は深紅に近く、そのドレスも鮮やかな赤色をしている。舞台の前方に歩み出た彼女は、客席の方に向け、妖艶な仕草でその手を伸ばした。
けれどもその瞬間、リーシェは何か、違和感を覚える。
「……アルノルト殿下」
「ああ」
隣にいたアルノルトも、同じものを感じ取ったのだろう。リーシェは先ほどまでの動揺を一旦振り払い、彼女を注視する。
(なにか、様子がおかしいような……)
リーシェがオペラグラスを手に取り、異変の状況を確認しようとしたそのときだ。
「!」
歌姫シルヴィアが、舞台の上に倒れ込んだ。




