149 あらゆる不測の事態です!!
その夜のこと。皇都一番の劇場前には、多くの観客たちが集まっていた。
今夜の舞台を楽しみにして、誰もが期待を膨らませている。一般客とは入り口から区別されたロビーでは、着飾った貴族たちが顔を合わせ、開演前の社交にいそしんでいた。
穏やかではあるものの、どこか浮足立った話し声は、まるで柔らかなさざなみのようだ。
けれどもやがて、その場にいる多くの人のまなざしが、とある一点へと注がれた。
「――リーシェ。手を」
「はい。アルノルト殿下」
隣を歩くアルノルトに促され、リーシェは彼の手を取った。
その瞬間、ロビー内に聞こえていた話し声の質が変わる。リーシェの耳で聞き取れる限り、驚きに満ちた声音が大半のようだ。
貴族たちはみんな、観劇のために着飾ったリーシェを一瞥したあとで、その手を引くアルノルトを窺っている。
正装を身に纏い、黒い手袋に赤のマントを着けたアルノルトは、一切に興味がなさそうな表情をしていた。
(それはもう、皆さまびっくりなさるわよね……)
王侯貴族にとっての劇場とは、一種の社交場となっている。
そして、リーシェがこの国に来る前のアルノルトは、皇城の夜会にすら顔を出さなかったのだそうだ。
そんな皇太子が、こうして劇場で女性をエスコートしているなど、貴族たちにとっては驚愕の事実に違いない。
(まさか、私が何気なく口にしただけなのに、数日で席を手配してくださるなんて)
赤い絨毯の上を歩きながら、リーシェは数日前を振り返る。
婚姻の儀までは残り一か月を切り、準備も慌ただしくなってきた。
アルノルトの執務室を借り、オリヴァーと世間話をしながら当日の確認をしていたリーシェは、無意識にぽつりと呟いていたのだ。
『皇都の劇場で、歌劇が公演中なのですか? わあ、行ってみたい……』
『…………』
それはほとんど独白に近い、そんな願望のつもりだった。
けれど、執務机で書類を整理していたアルノルトが、顔を上げてこちらを見た気配がした。リーシェも手を止めて顔を上げると、彼はこんな風に言ったのである。
『……分かった。少し待て』
『――え』
『オリヴァー』
『はい。仰せのままに、我が君』
まさかと思いながら瞬きをしていたら、本当にそれから数日経った今日、歌劇の席を用意されてしまった。
(殿下のお仕事が、迅速な理由がよく分かったわ……。やると決めたら先延ばしにせず、すぐに実行なさるのね)
注がれる視線がうるさいのか、アルノルトの横顔はどことなく不機嫌そうだ。
「……」
けれど、リーシェが見上げているのに気が付くと、その険しさがふっと和らいだ。
相変わらずの無表情なのに、穏やかにも感じられるまなざしだ。アルノルトは空いている方の手を伸ばし、リーシェの右耳、しゃらしゃらと揺れる耳飾りへと触れる。
「ひゃ……」
「――細い鎖に、髪が絡まる」
そう言って、耳飾りの鎖をそうっと撫でたあと、リーシェの横髪を耳に掛けてくれた。
黒い手袋ごしとはいえ、その感覚がくすぐったい。周りの貴族たちも、なにか見てはいけないものを見たかのような反応をして、ロビー内のざわめきがますます大きくなる。
そのことが、なんだか妙に気恥ずかしかった。
「ありがとうございます……」
「うん」
リーシェの頬が熱くなるのに対して、アルノルトはやっぱり平然としている。
そのまま、上階に続く階段に手を引かれかけたところで、こちらを呼び止める声があった。
「アルノルト殿下。リーシェさま」
ふたりで揃って視線を向けた先には、長身の男性が立っている。
茶色の髪を短く切り揃え、生真面目に背筋を正したその男性は、ガルクハイン騎士団の所属を示す制服を身に纏っていた。
「ルドルフ・ゲルト・グートハイルです」
「……」
その瞬間、リーシェが僅かに緊張したのは、アルノルトに悟られなかったと信じたい。
「本日の警備に任命いただき、ありがとうございます。殿下の近衛騎士と協力し、上階をお守りいたします」
「貸し切ってある最上階には、誰ひとり立ち入らせないようにしろ。貴族であろうと例外はない」
「は。仰せの通りに」
ふたりのやりとりを聞いたリーシェは、グートハイルと名乗ったその男に頭を下げる。
「グートハイルさま。よろしくお願いいたしますね」
「安心してお楽しみになれますよう、命を賭けてお守りいたします」
少々大袈裟に感じられる発言を、グートハイルは真面目に言い切った。
意志の強さが感じられる、切れ長の目だ。グートハイルが腕の良い剣士であることや、軍を率いる才覚があるということを、リーシェは知っている。
(……この方が、未来でアルノルト殿下の直属となり、侵略戦争に貢献する臣下のひとり……)
けれど、もちろん顔に出したりはしない。
そのままアルノルトにエスコートされて、大劇場の最上階へと向かう。リーシェが、護衛をしてくれるはずの騎士を警戒していることなど、きっと誰にも気づかれなかっただろう。
***
皇帝アルノルト・ハインには、戦場で重用する五人の臣下がいた。
彼らはアルノルトが不在の地において、侵略戦争の任を受けて働き、アルノルトが命じるままに勝利を収めたのだ。
ガルクハインの世界侵略が瞬く間に進んでいったのは、アルノルト本人だけでなく、従えていた彼らの功績も大きいのである。
そのうちのひとりが、先ほど警備の挨拶に来た、ルドルフ・ゲルト・グートハイルである。
(まさか、ここであの人に会うなんて……)
劇場四階に設けられた特別席で、リーシェはそっと目を伏せた。
赤いベロア張りの椅子はふかふかしていて、いくつもクッションが置いてある。
ひとり用の席ではなく、ゆったりと座れる長椅子型の座席で、アルノルトと並んで座る形だ。
席自体は広いのだが、おさまりが良い位置に腰を下ろそうと思うと、自然と肩が触れるほどに近くなる。
アルノルトのすぐ傍で、リーシェは公演のパンフレットをめくりつつ、それを読むふりをして思考を巡らせた。
(未来のアルノルト殿下が重用する臣下は、まだひとりも揃っていなかった。だからこそ、この点については、まだ猶予があると思っていたのに)
リーシェは手を止めて、アルノルトに尋ねる。
「アルノルト殿下。先ほどのグートハイルさまは、どのような経緯で今夜の警備に? ほかにも、この席に来るまでの廊下の警備に、殿下の近衛騎士ではない方々がいらっしゃいましたが」
するとアルノルトは、僅かに驚いたような表情をした。
「殿下?」
「……俺の近衛騎士は五十名ほどいるが、お前とは直接会話をしたことがない者もいるだろう。もしやお前は、全員の顔を覚えているのか」
「? はい。だって近衛騎士の方々は、アルノルト殿下がお選びになった臣下の方々なのでしょう?」
それはつまり、アルノルトが明白な意思を持ち、自身の配下にした騎士だということだ。
アルノルトが、こう見えて部下に目を掛けていることを、リーシェはちゃんと知っている。
彼の妃になる身としては、たとえ一度しか会ったことのない騎士だとしても、その顔や名前を忘れるわけにはいかない。
「……」
アルノルトは、心なしか柔らかなまなざしをリーシェに向けた。そのあとで、こんな風に教えてくれる。
「俺の近衛をコヨル国へ貸し出すにあたり、人員の不足が生じつつある。加えて、そろそろ近衛の規模を拡大しようと思っていた」
「……つまり、人数を増やすと……」
なんとなく、嫌な予感を抱いてしまう。
アルノルトの近衛騎士は、せいぜい五十名ほどしかいない。けれど、リーシェの故国のような小さな国でも、王太子の近衛騎士は百人を超えるのが普通である。
(ガルクハインのような大国、それも軍事に特化している国で、皇太子殿下の近衛騎士が五十人では少なすぎるわ。それは分かっているのだけれど……)
本当に、単なる拡大だけが目的なのかは分からない。
(過去人生のアルノルト殿下は、今から二年後に、実のお父君を殺めて皇帝になる。……その際の兵力は当然、殿下の近衛騎士たちだったはず)
アルノルトの言う『近衛の拡大』は、未来で起こすクーデターや、戦争の準備と取れることでもあった。
(婚姻の儀の準備と並行して、その辺りも情報を集めないと)
リーシェはそっと深呼吸をする。
とはいえ、あまり考え込んでは怪しまれそうだ。気を取り直し、膝の上のパンフレットに書かれた名前を指でなぞった。
「それにしても、今夜の主演が歌姫シルヴィアさんだなんて。彼女の歌声を聞くのは久し振りなので、すごく楽しみです」
「……以前にも、その役者が出る歌劇を見たことがあるのか」
「はい。あれは確か、ええと……」
他の人生の記憶と混ざってしまわないよう、一瞬だけ言葉を止めて情報を整理する。
「――私の以前の婚約者だった、ディートリヒ殿下と!」
「…………………………」
その瞬間、アルノルトがぴたりと口を噤む。
「演目は違うのですが、そのときの主演も彼女だったんです。透き通っていて、それでいて力強い歌声で、すごくどきどきしました」
「…………」
「一緒に見ていたディートリヒ殿下も、楽しかったみたいなんです。普段は歌劇を一緒に見に行っても、途中で飽きてらしたのですが」
「……………………」
アルノルトはリーシェの言葉を聞きながら、僅かに目を伏せた。
(アルノルト殿下は、歌劇を楽しんで下さるかしら?)
そんなことを思いつつ、パンフレットのページを捲り、ひとつ前に戻る。
(あんまり興味はなさそうだけれど……だけど、歌劇自体は初めてだっておっしゃってたわよね。一度も経験したことがないより、経験した上でお気に召さなかったと感じていただける方がずっといいもの)
きっとそうだと信じながら、リーシェはひらめいた。
「殿下、何か歌劇に関してのご質問などはありますか? 私でお答えできることなら、なんでも……、っ!?」
その瞬間、のしっと肩に重みが掛かる。
(え……)
びっくりして思わず息を呑んだ。
椅子からずり下がるように浅く掛けたアルノルトが、ぱちぱちと瞬きをするリーシェの肩に、その頭を乗せている。
つまりアルノルトは、リーシェに凭れ掛かるような体勢で、少し気だるげにパンフレットを眺め始めたのだ。
「――――!?」




