17 売られた喧嘩は買いますが?
ダンスの後、会場は隣のホールへと移り、立食形式の歓談時間となった。
最初はアルノルトの傍で、招待客の挨拶を受けていたリーシェだが、アルノルトが不意に言った。
「先ほどのワインが回っているんじゃないか。バルコニーで風に当たってこい」
アルノルトがそう声を掛けて来たのは、リーシェをこの人だかりから逃すための嘘だろう。
リーシェはワインを飲んでいない。そもそもこの夜会に来てから、ひっきりなしに話しかけられて何も口にしていない状態だ。
(意外と紳士的というか、なんというか)
これはリーシェが参加を決めた夜会であり、アルノルトの方は乗り気ではなかったのに。
これはもしや、リーシェが『怠けて働かないぐうたら生活を送らせてもらう』と宣言したせいで、そこに配慮されているのだろうか。
(飲まず食わずで働くのは、他の人生で慣れているけれど……)
辺りをそれとなく観察し、アルノルトを見上げた。
「ありがとうございます、殿下。では失礼して、少しだけ」
リーシェはその場にいた面々へ丁寧にお辞儀をすると、人だかりからそっと離れた。
そのままバルコニーに向かうのではなく、食事を楽しんでいる人々に紛れ、会場内をゆっくり歩いてみる。
アルノルトの傍にいるだけでは、分からないこともきっとあるのだ。
(とにかく情報を集めなくては。過去六度の人生では、ガルクハインの国内情勢までは分からなかったもの)
リーシェが知っているのは、国外にも伝わるほどの大きな出来事や、噂話だけだった。
アルノルトが父帝を殺したことは知っていても、そこに至るまでに何があったのかは分からない。
アルノルトを取り巻く環境や、城内で何が起きていたのか、それらの情報を探らなければ。
(国外に噂が流れるにあたって、歪んで伝わったこともあるはずだわ。そもそもアルノルト・ハイン本人だって、いまの十九歳時点では噂と違うもの。他国で話を聞いていたほど悪逆非道という感じではないし、意地は悪いけど、やさし……)
思わずそんなことを考えて、リーシェは複雑な気分になった。
(そうね。いまのところやさしいのは、間違いないわ。『真意が分からない』とか、『ちょっと意地が悪い』とか、注釈はつくけれど……)
気を取り直して、周囲の状況を再び観察した。
この先を生き延び、城でぐうたら怠けた生活を送るためにも、いまは忙しく動き回らなくては。
(あちらは確か、ハンナヴァルト卿。ゲアル伯爵と仲が良いんだわ。……フーデマン公爵とテーニッツ公爵は、一見親しそうに談笑なさっているけれど距離感が遠い)
先ほど挨拶で聞いた名前を思い浮かべつつ、頭の中に記録していく。すると、甘い香水の香りがした。
リーシェに話しかけてきたのは、金色の髪をふわふわと揺らし、可愛らしいドレスに身を包んだ少女だ。
「はじめまして、リーシェさま。わたくし、コルネリア・テア・トゥーナと申します」
トゥーナ家は、今日の三十一番目に挨拶を受けた公爵家だ。リーシェは微笑んで、挨拶を返した。
「リーシェ・イルムガルド・ヴェルツナーです。これから、どうぞよろしくお願いいたします」
「ふふ。お話しできて光栄です」
柔らかい笑みを浮かべたコルネリアは、両手にひとつずつグラスを持っている。
ぱっちりとした大きな目に、ふっくらしたくちびるの愛らしい彼女は、そのうちひとつをリーシェに差し出した。
「リーシェさま。よろしければ、こちらのワインをどうぞ」
その言葉と同時に、すぐ傍でリーシェを見ている他の女性たちがくすくすと笑い始めた。
「――人質のくせに。いつでも捨てられる駒として選ばれたこと、自覚いただかなくてはね」
「アルノルトさまの傍にいられるのも、いまのうちでしょうし……」
「所詮、弱小国のご出身でしょう?」
そんな囁きが聞こえてくる中、コルネリアが潤んだ瞳でじっと見つめてきた。
「私のお渡しするワインでは、ご不満ですか……?」
(……確か、トゥーナ公爵家は、ガルクハインの南側に広大な領地を持っているのよね)
リーシェは一歩歩み出ると、彼女のグラスを受け取るべく手を伸ばした。
「とんでもない。ありがとうございます、コルネリアさま」
リーシェの指がグラスに触れる直前、コルネリアがわざとらしく声を上げる。
「きゃあ、いけない! 手が滑って……」
グラスが不自然に手放され、リーシェの方に落ちてきた。
その瞬間、リーシェは片手でドレスの裾を摘んで腰を落とし、もう片手でぱしっとグラスを掴む。
「え!?」
コルネリアが驚きの声を上げると共に、零れそうだったワインがグラスへ戻った。
リーシェはグラスの脚を持って、中のワインをゆるゆると回す。香りが立ちのぼり、それを確かめるように鼻先を近づけた。
(磨り潰した唐辛子の香りね。どこで仕込んできたのか知らないけれど、食べ物で遊ぶなんて)
そもそもワインに仕込みをしたくせに、それをドレスに掛けようとするのも詰めが甘い。飲ませるのか掛けるのか、どちらかに作戦を統一すればいいのに。呆れながらも、表向きは嬉しそうに微笑んでみせる。
「どこか刺激的な香りのする、珍しいワインですのね」
「……っ」
とびきりの微笑みを向けてやると、コルネリアはぐっと悔しそうにくちびるを噛む。笑顔の似合う素敵な顔立ちなのに、そんな顔をしていては勿体ない。
リーシェはコルネリアに歩み寄ると、彼女の目を見つめ返した。
「私の国にはなかったものですから、とても興味深いです。殿下にもお勧めしようと思うのですが、どちらから取ってこられたグラスなのですか?」
「え!? そ、それはその……」
売られた喧嘩は買う主義だ。当のコルネリアに、そんな覚悟はなかったようだが。
「も、申し訳ございませんリーシェさま。広い会場ですし、忘れてしまいました」
「それは残念。では、殿下にこちらのグラスをお渡ししましょう。トゥーナ家のご令嬢がよくしてくださったとお伝えしておきますね」
「あ、あの!」
コルネリアは慌てふためき、首を横に振った。
「そ、そちらはリーシェさまに差し上げたものですので、リーシェさまに飲んでいただければ……いえ、やっぱりやめてください! 申し訳ありません、そのグラスを返して……あっ!」
青ざめるコルネリアをよそに、リーシェはグラスに口をつける。
そして、ワインをこくりと一口飲んだ。
「う、嘘……」
「想像した通りの、とても刺激的な味です」
愕然とする女性たちの前で、リーシェは再び微笑む。
「このように歓迎いただけたこと、とても嬉しいです。……コルネリアさま、今度よろしければ、個人的なお茶会にお誘いしても?」
「わ、私をですか!?」
「はい。特に、トゥーナ家の領地である地域がどんなところなのか、とっても興味がありますの」
コルネリアは訳が分からないという顔をしていたが、やがておずおずと頷いた。
(これでいいかしらね)
リーシェのとある計画のために、ゆくゆくは温暖な気候の土地が必要となる。トゥーナ家の領地はふさわしいはずだが、コルネリアを通していくつか情報を探りたかった。
(売られた喧嘩は買うわ。けれど)
左手にワイングラスを持ち、右手はコルネリアに差し出した。
「では、楽しみにしております。コルネリアさま」
「は、はい……」
(――商人は、利益の出ない売り買いはしないものなの)
かつて商人だった人生で、商いごとの師だった男に、口酸っぱく言われたものだ。