従者と第二皇子と、そして皇太子のお話
※アルノルトとオリヴァーとテオドールのお話。3章と4章のあいだくらいの時系列です。
「オリヴァー。兄上が去年やった区画整理政策の資料ってどこ?」
「……おやまあ、テオドール殿下」
アルノルトの従者であるオリヴァーは、第二皇子テオドールの問い掛けに、思わず瞬きを繰り返した。
テオドールと鉢合わせたのは、離宮から主城に向かう回廊の途中だ。
現在は午前九時前、比較的早い時刻であり、以前のテオドールなら城の目立つ場所で眠っていた時間でもある。
「珍しいこともありますね。あなたが自分めに質問なさるとは」
「僕だって、好きでお前に聞いているわけじゃない。ただ、公務をする上でどうしても見ておきたい資料だし、義姉上がオリヴァーに聞いた方が良いって言うから……」
(なるほど。リーシェさまの提案か)
この第二皇子は、昔からオリヴァーのことを嫌っている。
というのも、テオドールはアルノルトのことを崇拝しているからだ。
だが、アルノルトは弟を遠ざけてきた。
そこでテオドールは、どうしても兄に構われたいという想いを募らせ、たくさんの悪戯を仕掛けてきている。
そのどれもが害はあるものの、アルノルト本人が動けばすぐに解決するようなものばかりだった。しかし、アルノルトも徹底しており、対処はすべてオリヴァーに命じていたのだ。
テオドールの悪戯は、見て欲しかったアルノルトによってではなく、代理のオリヴァーによって片付けられている。
そんな訳でテオドールは、邪魔者でしかないオリヴァーのことを、いまも変わらずに嫌っているのだ。
そんなテオドールが、オリヴァーに何かを教えてもらいに来るというのは、今までならば有り得ないことである。
(……テオドール殿下に対する我が君の接し方は、頑なだった。それをリーシェさまが仲裁し、和解させてしまったのだから、テオドール殿下も未来の義姉君の言葉なら聞き入れるという訳だ)
内心で納得していると、テオドールはその中性的な顔立ちをむすっと歪ませた。
「言っておくけど、調子に乗るなよオリヴァー」
「……と、言いますと」
「兄上に関するお前の知識は、あくまで局所的なものだからな」
オリヴァーがきょとんとすれば、テオドールは腕を組んでふんっとこちらを見上げてくる。
「公務についての知識だけは、お前の方が詳しいだろうから質問してる。――だけど、それ以外の兄上については、僕の方が絶対に詳しい」
「…………っ、ふ」
「おい!! なに笑ってるんだよ!?」
「いえ。これでも堪えようとしたのですが……」
なんとか笑いを抑え、代わりに従者としての微笑みを作って、皇族であるテオドールを立てる。
「失礼いたしました。テオドール殿下があまりにもお可愛らしいものですからつい。そうですね、我が君のことはテオドール殿下の方がたくさんご存知ですよね」
「お前、どう考えても僕のこと馬鹿にしてるだろ! あとその『我が君』って呼び方、気持ちが悪いからやめろ!」
「ははは」
兄弟揃って同じことを言う。それを微笑ましく見守っていると、テオドールは顰めっ面をした。
「大体、なんでそんなに普通なんだよ」
「普通、ですか?」
「以前はもっと僕のこと、冷め切った目で見てただろ。臣下のくせに、僕のことを『邪魔者』って思ってるの、隠しもしない顔で」
「ああ……」
心当たりはあったので、オリヴァーは頷く。
「以前までのテオドール殿下は、我が君にとっての障害でしかありませんでしたから」
「……」
「あの方の邪魔になるものは、総じて遠ざけさせていただきますよ。――それがたとえ、血を分けた弟君であろうとね」
「……ふん」
僅かに目を伏せたテオドールは、これまでよりも少し大人びた、冷静な表情を作った。
「お前のその、兄上に対する忠誠心だけは、認めてやってもいい美徳だな」
「おや。お褒めに与り光栄ですね」
「っ、でもその余裕はムカつく。いいからさっさと資料の場所を――――――うわっ!!」
テオドールが短い悲鳴をあげ、いきなりオリヴァーの腰を引っ掴んだ。
そうかと思えばぐるりと回され、訓練場のある方角を振り向かされる。何事かと思ったが、回廊の先を見据えて理解した。
「我が君」
「……」
アルノルトが、こちらに向かって歩いてきている。
テオドールは、最愛の兄が近付いてくるのに気が付いて、やむをえず大嫌いなオリヴァーの後ろに隠れたのだ。
年長者として、これを見捨てるのも可哀想だろう。オリヴァーはそのまま背中にテオドールを隠してやり、アルノルトに微笑んだ。
「おかえりなさいませ。今朝の訓練はいかがでしたか?」
「いつも通りだ」
淡々とした返事のあと、立ち止まったアルノルトがオリヴァーを見る。
正しくは、オリヴァーの後ろに隠れている、血を分けた弟を見ているようだ。整った顔立ちは無表情だが、十年来の従者ともあれば多少は分かる。
「…………」
(これは、『何をしているんだ』というお顔だな……)
オリヴァーは苦笑し、そっと後ろのテオドールを振り返った。
「テオドール殿下。ほら、兄君ですよ」
「分かってるよ。分かってるから隠れてるんだよ馬鹿!! それ相応の覚悟もなしに、こんな朝から麗しの兄上を視界に入れたら、最悪の場合倒れちゃうかもしれないだろ……!!」
「おや、それは困りましたねえ」
以前までのテオドールは、ここまでではなかった。
この過剰なまでの反応は、『和解した兄と、どう接したらいいか分からない』という戸惑いから来ているものらしい。それと、兄のことを慕っているのを隠さなくても良くなったため、却って混乱してしまうのだろう。
(確かリーシェさまも、『兄君のことでテオドール殿下が死にそうになっていたら、助けてあげてくださいね』と仰っていたな)
オリヴァーは、ふむ、と顎に手を当てる。
「我が君。実はテオドール殿下は、前髪に寝癖がついているため、自分めの背に額を押し付けて直していらっしゃいま……痛っ!!」
掴んでいる腰を思いっきりつねられた。どうやらこの助け舟は、テオドールのお気に召さなかったらしい。
「オリヴァーお前、兄上のお世話以外のことは本気で適当になるのやめろよ……!!」
「申し訳ありません、自分の人生の優先度はそこに全て割り振っていますので……」
「そういうところはムカつくけど信用が出来る! くそっ!!」
どうしたものかと思っていると、アルノルトが僅かに目を伏せた。
そして、そのくちびるを開く。
「……テオドール」
「!!」
びくっとテオドールの体が跳ねた。
「な…………なに? 兄上」
(おや、精一杯の平静を装おうとなさっている)
ただし、相変わらずオリヴァーの後ろに隠れたままだが。
「先週の報告書を見た。お前の政策を適用後、一部区画の犯罪発生率が下がっているようだな」
「あ……あんなの、ほんの少し下がっただけだよ。減ったのだって、盗難やスリの被害だけだし」
「だが、確かに改善は見られている」
「……」
テオドールが、オリヴァーの上着をぎゅっと掴み直す。
「……普通に働いて、それだけで明日の食べるものの心配をしなくてもよくなる稼ぎがあるなら、好き好んで食べ物を盗む奴なんていないから」
「……」
「だから、効果が出るのは当然なんだ。僕はただ、皇族として差し伸べるべき手を、当たり前に伸ばしたに過ぎないよ」
テオドールの言わんとしていることは、オリヴァーには分かる。
自分のやったことは些細なことで、偉大な兄に褒められるまでもないと思っているのだろう。だからテオドールは本気で恐縮し、気まずそうにしているのだ。
(だが)
オリヴァーは、ふっと笑う。
(分かっていらっしゃらないな)
テオドールは先ほど言っていたが、アルノルトに関する知識に関しては、オリヴァーの方が上の部分もある。
「テオドール殿下のなさったことは、とてもご立派ですよ。……ねえ、我が君?」
「っ、馬鹿オリヴァー! 余計なことを……」
「――そうだな」
「!?」
テオドールが、こくりと息を呑む。
「お前は、俺の期待に十分応えた」
「…………っ!!」
アルノルトが口にしたその言葉を、オリヴァーも少々意外に思った。
(まさか、これほど率直にお褒めになるとは……)
そういえば先日、テオドールに対しては言葉でもっと伝えるように、リーシェがアルノルトに説いていたのを耳にしたのだ。
(これも、リーシェさまの影響か)
アルノルトは、彼が弟に向けるにしては穏やかなまなざしで、こう続ける。
「……これからも、存分に励め」
「……う……」
オリヴァーにしがみついていたテオドールの手が、するりと離れる。
「うん、兄上。……頑張るよ」
「ああ。……オリヴァー」
「はい、そろそろ参りましょう」
オリヴァーが動くのを待ちもせず、アルノルトは離宮に向かって歩き始めた。オリヴァーはそれに続く前に、テオドールのことを振り返る。
「よかったですね、テオドール殿下」
「っ、うるさい……!!」
「泣きそうなのでしたら、もうしばらく背中をお貸ししますが」
「誰がお前の背中で泣くか。あと、別に泣いてない」
「はははは」
しかし、俯いたテオドールは耳まで赤い。それに触れるのは可哀想なので、やめておいた。
「お探しの資料については、後ほどお部屋に届けさせましょう」
「ふん。……その…………頼んだ」
「これはこれは」
本当に、随分と素直になったものだ。
「後で未来の義姉君に、ちゃんとお礼を言いましょうね」
「だから、お前に言われるまでもないんだよ……!!」
オリヴァーは大いに笑ったが、遠くで振り返ったアルノルトに睨まれたため、彼を追うべく歩き出すのだった。




