狩人の人生 ラウルが恋をした日のお話
※狩人人生のラウル視点のお話しです。
※本編143~144話に関連したシーンが出ます。
自覚してから考えてみれば、あれはいわゆる『一目惚れ』というものだったのだろう。
ラウルはその少女に一目惚れをした。生憎と、自分でそれに気が付くのは二年後のことになるのだが、こうして振り返ると明白だ。
あの日、森で命を助けてくれたリーシェという少女は、ラウルにとって未知の感情を連れて来たのである。
***
あの日のラウルは任務中、ちょっとしたことに気を取られて左腕を負傷した。
土砂降りの雨が降る中、なんとか縄張りの森に逃げたものの、血が止まらない。腕とはいえ、心臓に近い位置なのが最悪だ。
片腕だけでどうにか応急処置をしたが、間に合わないのは一目瞭然だった。
降り注ぐ雨が止血を邪魔する上、容赦なく体温を奪っていく。かといって仲間を呼ぶ力も、雨をしのげる場所に行く力も残っていない。
(はは。……やべえ、死ぬかも)
大きく深呼吸したところで、ラウルは猛烈な痛みを自覚した。
いっそ笑えてくるほどで、実際に笑っていたと思う。どくどく脈打つ場所を指で探ったら、辿り着く前にぬるりと滑った。
雨で傷口が流されているのに、それ以上の出血があるらしい。これは、どう考えても終わりだ。
(命の捨て所としては、クソすぎる)
任務のために心を捨てろという先代の教えは、どうやら正しかったらしい。
ハリエットを救う手段が見つからず、焦って集中力を乱したのだ。それが、こんな無様な結末に繋がった。
だが、どうにも抗えそうにない。
覚悟して目を瞑り、意識が朦朧とした。遠くで鳴る雷鳴が、断続的にラウルを覚醒させる。
(……雨は、助かるな)
潜り込んだ先では犬を飼っていた。万が一追跡されていても、きっと土砂降りが洗い流してくれる。
(これならせめて、あいつらを巻き込まずに済むはずだ……)
安堵して意識を手放した。
――そして、次に目を開けたとき。
「――気が付いた?」
「……っ!!」
エメラルド色をしたその瞳が、ラウルを覗き込んでいた。
(……女の子?)
その瞳と間近に視線が重なって、眩暈に近いような心地を覚える。
そこにいたのは、ふわふわした珊瑚色の髪の少女だった。
桜色の柔らかそうなくちびると、通った鼻筋。長い睫毛に、丸い形をした大きな瞳。可愛らしい顔立ちに、意外なほど意思の強そうな双眸が、ラウルを射抜いた。
少女の瞳に、森の木漏れ日が差し込んで、流れ星みたいにきらきらと瞬く。
その様子の、あまりの美しさを目の当たりにして、夢でも見ているのではないかと錯覚した。
この美しい少女に命を助けられたのだと、ラウルは瞬時に理解する。
(雨が、止んだのか……)
まったく関係ないことを考えると同時に、少女がほっと息をついた。
「血も、止まったみたいね」
「……あんたが止血を?」
「本当は、雨の降らないところにも連れて行きたかったけれど。私では難しくて、ごめんなさい」
「いや。ありがとう、助かった」
言いながら上を見ると、木を組んだ簡易的な雨よけが作られていた。
腕には包帯が巻かれていて、薬草か薬の匂いがする。ラウルは息をつき、再び少女を見遣って口を開いた。
「あんた、血だらけだ」
「それよりも深刻なのは、お腹がとても空いていることだわ」
「……ははっ!」
確かにそれは一大事だと、ラウルは笑みを浮かべた。
それと同時に、自分も空腹なのを理解する。どうやら命の危機を脱して、体が生命活動をしているらしい。
「お嬢さん、悪いが俺の仲間を呼んできてくれないか。手当の礼とは別に、出来立ての食事を振る舞おう」
「え、いいの!?」
「俺の命の恩人にはなんだってするさ。――俺の名前はラウルだ。俺の国の言葉で、『助けに導く狼』って意味」
いつもの通りに名乗ったあとで、不意にこんなことを口にしたくなった。
「まあ、この名前も表向きの出身国も、全部嘘なんだけどな」
「……偽名を名乗った上に、それを偽名と明かすだなんて変わってるわ」
「でも、偽名だってバラしたのはあんたが初めてだよ?」
自分でも、どうしてそんなことを言おうと思ったのか分からない。いくら命を助けられたからといって、初対面の少女を相手にだなんて。
そう思っていると、少女が笑った。
「ふふっ。変なの!」
「……!」
その微笑みも、息を呑むほどに美しかった。
「私はリーシェ。ただの旅人だけれど、ちょっとだけ薬の知識があるわ。……清潔な水で傷口を洗ったあと、改めて手当をしたいの」
リーシェと名乗った少女は立ち上がり、ラウルに言う。
「だからもう少し、あなたの傍にいさせてね」
「……ああ」
そうして仲間を呼びに行った上、引き続きラウルの治療をしてくれたリーシェに対し、出来ることは何でもするとラウルは誓った。
それに対するリーシェの答えは、弓を習いたいというものだ。
それだけでも驚いたのだが、リーシェはどんどん上達していった。
狩人としての『表向き』の生き方を教え、裏の仕事も伝えてさえ、彼女はここに残ると言ってくれたのだ。
それから二年が経ち、リーシェがいる日常が当たり前になったある日、ラウルはとうとう気が付いた。
――自分が、リーシェに恋をしているということを自覚したのである。
***
「ただいまリーシェ。お前は今日も可愛いな」
「…………おかえりなさい」
狩人たちの暮らす小屋に戻ると、椅子に座って弓の手入れをしていたリーシェが、顰めっ面で返事をしてくれた。
こういう顔も可愛いと思ってしまうので、つくづく自分も末期だと思う。
ラウルはへらっと笑みを浮かべつつ、表面上はいつも通りにリーシェに接していた。そしてリーシェは何も気づかず、やっぱりいつも通りの反応を返してくる。
「ラウル、なんだか髪が濡れていない? 雨でも降った?」
「いや。最近よく遊んでた子に別れ話を切り出したら、汲んで来た井戸水をぶっかけられた」
「……ラウル、どうしたの?」
リーシェは手入れの手を止めて、心配そうな顔をした。
「このところ、たくさんの女の人とお別れしてない? まさか大きな戦いが控えていて、そこにひとりで行くつもりなんじゃ……」
「違う違う、死に支度じゃない」
大体、死ぬかもしれない戦に行くくらいでは、女との縁を切ったりしない。
「だってお前、女遊び激しい男は嫌いだろ?」
「男性でも女性でも、誰かに不誠実なのは駄目だと思うけれど……」
「な。リーシェに嫌われたくないから、とりあえず素行を改めようと思って」
「……ラウル」
リーシェはじとりと目を細め、手入れの道具をテーブルの上に置いて、こちらに向き直った。
「そういうのは良くないわ。前にも言ったでしょう? 仕事と関係ないところでは、あまり嘘をつかない方がいいって」
「えー。本音なのに」
「あのね……」
「逆に、お前はどうして嘘だって思うわけ?」
ラウルはテーブルに手をついて、リーシェの顔を覗き込む。まるでキスでもするときのように、親密すぎるほどの間近さで。
「なあ」
「……」
だが、リーシェは表情ひとつ変えないのだ。
ラウルの顔立ちは、客観的に見ても整っている。この顔立ちを武器にして、あらゆる情報収集に利用することもあった。
それなのにリーシェは、頬すら染めることもせず、なんにも意識していない表情で言う。
「前に、ラウルが子供のころ仕えた王女さまの話をしてくれたことがあったわよね」
「……あー。言ったなあ、そんなこと」
そういえばラウルは、そんなことまでリーシェに話してしまっていた。
どういうわけか、彼女に対しては異様なまでに口が軽くなるのだ。『自分のことを教えたい』という、このむやみやたらな欲求が恋愛感情の所為ならば、恋とはつくづく恐ろしい。
(まあ、全部を話したわけでもないけど)
「政略結婚で、遠くの国にお嫁に行ってしまったって。……私、それを聞いたときに気が付いたの」
そしてリーシェは、大真面目な顔で言うのだ。
「ラウル、その王女さまのことが好きでしょう!」
「………………」
すぐさまなにか言おうとして、そこに浮かべる言葉がなかった。
その反応が、ますますリーシェに確信させたらしい。
彼女はぐいっとラウルの肩を押しやりつつ、こう続ける。
「だけど年齢も離れているし、身分違いだからって諦めたのではない? その恋愛感情を誤魔化すために、色んな女の人と付き合っているのだと感じたわ」
「……そっか」
「ラウルは時々、自分でも自分の感情が分からなくなっていることがありそうだから。身近な女性に好きだって嘘をつくことで、そういう気持ちを整理しているように見えるの」
「…………ううーん……」
ラウルは引き攣った笑みを浮かべた。そのあとで、思わず自分の額を押さえる。
(やべえ、どうしよう。鋭いのか鈍いのか全然わかんねえ)
そして、念のため告げてみた。
「あの王女のことは、どっちかって言うと忘れたい過去だよ。だってもう会えないから」
リーシェに話してはいないものの、彼女はもう亡くなっている。
けれど、リーシェは迷わずに言うのだ。
「忘れたい、というのは嘘ね」
「……なんだって?」
「ラウルにとって王女さまとの別れは、確かに辛い思い出だったと思うの。話を聞いていて、そのことはとても伝わってきた。でも……」
ラウルの目をじっと見つめて、柔らかそうなくちびるが紡ぐ。
「そうではなく、王女さまと過ごした日々のことを話してくれるラウルは、とても楽しそうだったわ」
「……!」
そう言われて、何かを思い出したような気がした。
彼女が懸命に、ラウルの幸せを尋ねてくれたこと。
甘い菓子を、柔らかな毛布を、かぐわしい花畑を見せてくれたこと。そんな時間を過ごした記憶が、短い瞬間に蘇る。
『幸せになってね、ラウル』
「…………」
ここにいるリーシェとあの王女とは、どこかで似ているような気もした。
そのあとで、全然なにひとつ似ていないとも感じるのだ。ラウルに与える感情も、何もかもが。
「たくさんあった出来事のうち、なにかひとつが忌まわしいものだったとしても、付随するすべてを嫌わなくたっていいの。……その方が、誰にとっても嬉しいでしょう?」
「……」
胸の中に、色々な感情が去来したような気がした。
自分の感情を殺しながら生きてきて、なにが嬉しいのかも分からなくなっていたラウルにとって、それはとっても稀有なことだ。
あるいは、奇跡とさえ呼んでも良い。
「そーだな」
ラウルはふっと笑い、改めて彼女に告げる。
「俺は、リーシェのそういうところが好きだよ」
「……ありがとう」
リーシェは少し驚いた顔のあと、真摯なお礼を返して来た。その顔を見るに、どうやら恋愛感情ではなく、人間的な好意として受け取られたようだ。
「嬉しいけれど、先に頭を拭いてきて」
「はいはい。……まあ、本気に取ってもらえないくらいがちょうどいい」
本心からそう思い、ラウルは歩き出す。すると髪からぽたぽた落ちる雫が、リーシェと出会った日の雨を思い出させた。
改めて、やはり自分は一目惚れをしていたのだ。
そんな風に思いながら、くちびるに笑みを浮かべるのである。




