147 かつての頭首に願うこと
※昨日3回更新しています。前話をお読みでない方は、そちらからご覧ください。
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海風がカーテンを膨らませるその部屋には、夏の日差しが降り注いでいる。
ハリエットを鏡台に座らせ、鋏を動かしていたリーシェは、仕上げを終えてからクロスを外した。
「いかがですか? ハリエットさま」
クロスの上を滑り落ちるのは、金色の髪だ。
目の前の鏡には、長かった髪を短くし、肩までの位置で切り揃えたハリエットが映っていた。
「ありがとうございます、リーシェさま……!」
「とってもお似合いですよ。肩までの長さだと乾くのも早いので、湯上りの読書に最適ですね」
鋏を仕舞いながら、リーシェはにこにことハリエットを褒める。
「それに、新しいお化粧も」
前髪も短くしたハリエットの目元には、先日と違う化粧が施されていた。
彼女が気にしていたその吊り目を大いに強調し、凛とした印象の化粧姿である。先日初めてしたお化粧は、その吊り目を和らげて垂れ目に近く見せるものだったので、正反対の系統だ。
「ふ、不思議です……。私の吊り目を強調したお化粧なのに、嫌じゃないなんて……」
「はい、これもお化粧の効力のひとつなのです。自分のお顔の中で、嫌いな部分を『隠す』のではなく、『活かす』ことだって出来るんですよ」
「嫌いな部分を、活かす……」
ハリエットは、その言葉を噛み締めるように繰り返した。
「そ……そうですよね。自分の嫌いな部分を嫌っているだけじゃ、駄目なんだ……」
ハリエットは決意したように、鏡の中の自分を見据える。
「リーシェさま、私、頑張ります……!! 大嫌いだった私の性格も、国の為に役立てることが出来るかもしれない。私は臆病ですが、それを活かして、慎重な国政に貢献します……!」
「ハリエットさま……」
ハリエットが捕らわれた先日の騒動から、今日で二日が経っていた。
ファブラニアの騎士は捕縛され、アルノルトの近衛騎士による取り調べが行われている。贋金の告発や、シグウェル国の今後について、アルノルトはシグウェル国と協議をしてくれるそうだ。
シグウェル国に向けては、さっそく書状が送られているという。ハリエットの一筆も添えられており、今後は本物のカーティスがやってきて、話を進めていく流れになるだろう。
(ハリエットさまは、決して臆病ではないと思うのだけれど……)
アルノルトの前に飛び出して、自分がすべての責任を負うと宣言できるのは並大抵の勇気ではない。ハリエットには、まだまだ自分自身で気付いていないたくさんの可能性があるのだ。
「リーシェさま。……ガルクハインとシグウェル国が同盟を組めば、シグウェル国の立場はきっと、大陸内でも大きく変化すると思います」
決意を込めたハリエットの瞳が、リーシェを見据える。
「だからこそ、頑張るって決めました……! 人形としての王女ではなく、自分で考える力を持った人間として。わ……私なんかには無理かもしれないですけれど、『私には無理かもしれない』ということを、頑張らない理由にはしたくないって思うんです……!」
ハリエットは恥ずかしそうに両手で顔を覆った。それを見て、リーシェは微笑む。
「私も全力でお手伝いします。……もちろん、ハリエットさまの健康維持についても」
ぱっと顔を上げたハリエットが、鏡台の上の小瓶を手に取る。
「眼薬、欠かさずに瞼に塗っています……! 心なしか、眩しさも少し和らいだような……」
「はい。数日前よりも、眉根に力が入っていらっしゃらないですよね? 瞬きも意識して下さっているようですし、これからどんどん回復するかと」
「わあ……」
そんな話をしていると、ノックの音が響いて来た。
「リーシェさま。カーティス殿下がお呼びとのことです」
「ありがとうございます、侍女長さま」
姿を見せた侍女長は、ハリエットの姿を見てほんの僅かに眉を動かした。
ハリエットは一瞬怯えた様子を見せたものの、思い直したように背筋を正す。それを見た侍女長は、ぽつりと口にした。
「……とてもお美しいですよ。ハリエット殿下」
「っ、え……!」
「リーシェさま。お送りいたしますので、こちらへどうぞ」
リーシェは頷き、ハリエットに『またあとで』の視線を送った。
にこりと微笑んだあと、小さく手を振ってくれたハリエットの姿は美しい。短く切った金色の髪に、夏らしい白のドレスがよく似合っていた。
(本当によかった。侍女長さまとハリエットさまも、これからもっと仲良くなれるわ)
にこにこしながら廊下に出て、侍女長と一緒にラウルの元へ向かう。しかし、しばらく黙っていた侍女長は、廊下の途中でこんな風に口を開くのだ。
「……ハリエット殿下の侍女を、辞させていただくかもしれません」
驚いて振り返ると、侍女長は相変わらず難しい表情をしたまま続けた。
「ファブラニアの騎士があの方をかどわかそうとした際、私は何のお役に立つことも出来ませんでした。普段口うるさくお叱りしておきながら、肝心なところでお守りできないなど……」
「お、お待ちください侍女長さま! 侍女長さまはご自身を顧みず、命懸けでハリエットさまを守ろうとなさったとか。それについて、ハリエットさまはとても感謝されていましたが……」
「大切なのは、結果だけですから」
彼女はハリエットにだけでなく、自分自身にも厳しいのだ。リーシェは眉を下げ、せめてもの気持ちを伝えてみる。
「これからのハリエットさまにとって、どんなときもご自身の味方でいてくれる方が傍にいらっしゃるのは、とても心強いことだと思います」
「……とはいえ……」
「私が、『侍女長さまはファブラニア側ではなくシグウェル国のご出身』だと分かったのは、ハリエットさまへの叱り方が本当のお母さまみたいだったからですよ」
そう告げると、侍女長は目を丸くした。
リーシェは苦笑しつつ、侍女長にそっとお願いもしてみる。
「もっとも。今後は出来ればもう少し、優しい叱り方をして差し上げては、と思いますが……」
「……これからもお傍仕えを続けるとしても。私がお叱りする必要なんて、ないのかもしれません」
侍女長は呟き、ハリエットの部屋の扉を振り返る。
「ハリエット殿下の猫背癖も、いつのまにか直っているようでしたから」
こちらに向き直った侍女長は、ほんの少しだけ寂しげな、清々しい微笑みを浮かべていた。
リーシェは同じく微笑みを返し、頷いて、それからラウルの部屋へと歩き始める。
***
そして訪れたラウルの部屋で、リーシェは困惑してしまった。
「――本当に、あんたたちには迷惑を掛けた」
にわかに信じがたい光景だ。
いつも飄々とし、謝罪なんて滅多にしなかったかつての頭首が、深々と頭を下げているのである。
(ラウルが、こんな神妙な顔をするなんて……!!)
どうしたらいいか分からずに、思わず周囲を見回した。しかし、侍女長とは廊下で別れており、ここにいるのはリーシェとラウルだけだ。
いまのラウルは、カーティスの姿をしていない。本物のカーティスが来るまでは『影』を続けると聞いていたが、カーティス本人はしばらく部屋に閉じこもっているという設定だそうなので、この姿でも問題ないのだろう。
「あのねラウル、謝らないで。私があなたに被った被害なんて、なにひとつ無いのだし」
「……被った被害が無い? あんたそれ、本気で言ってんのか?」
「本気も何も、事実だもの」
「…………」
するとラウルは目を細め、こんなことを言った。
「薬盛られてこんな調子じゃ、あの皇太子サマも苦労してるんだろうな。同情する……」
(ど、どうしてここでアルノルト殿下の話に……!?)
分からなかったが、声に出して聞いてはいけない気がする。リーシェがぎゅむっと口を噤んでいると、ラウルは肩を竦めて言った。
「とはいえ、甘んじる訳にはいかないんでね。掛けた迷惑の分は、恩を返させてもらう」
それは、リーシェにとって聞き覚えのある言葉だ。
五度目の人生のはじまりに、リーシェは森でひとりの男を助けるという出来事があった。薬師としての知識を使い、彼の怪我を治療して、ねぐらにしているという場所まで運んだのだ。
その怪我人が、ラウルだった。
いま思えば、彼があんな大怪我をすること自体が珍しい。ひょっとすると、ハリエットを救う方法がなかった焦りの所為だったのだろうか。
回復したラウルは、当時まだ新しい人生での職業を決めていなかったリーシェに対し、『掛けた迷惑の分は、恩を返させてもらう』と言ったのだった。あのときのリーシェは、こう答えた。
『……なら、私にも弓の使い方を教えて』
『弓? ――そんなもの、あんたみたいなお嬢さんが覚えてどうするんだ』
『どうするなんて目的があるわけじゃないの。私はただ、新しいことを学んでみたいだけ』
どんな知識や技術を得られるのか、とてもわくわくした気持ちでラウルを見上げると、彼が楽しそうに笑ったことをよく覚えている。
「さて、あんたは俺にどんなことを望む?」
リーシェは、ラウルの赤い瞳を真っ直ぐに見詰める。
「お願い事が出来るなら、もっと仲間を頼ってほしいわ」
「……は」
ラウルがぽかんとしてこちらを見た。
「昔、私に弓を教えてくれた人がそうだったの。自分ひとりで何かを背負って、いつでも笑って嘘をついて……ちゃんと姿は見えているのに、実体のない幽霊みたいだった」
狩人人生のラウルは、『そんなことはないよ』と笑っていた。けれども、いま目の前にいるラウルになら、あのときよりは届くかもしれない。
「今回みたいに、自分ひとりで何かを背負うんじゃなくて。……嬉しい顔も、悲しい顔も、周りの人にいっぱい見せて」
「……俺が?」
「そう。私の恩人には、最期まで分かってもらえなかったから」
リーシェが死んだあの森で、きっとラウルも亡くなったのだと思う。
ガルクハインに攻め込まれ、焼き払われて、狩人が身を隠す木々すらなくなった。仲間たちを庇い、騎士団を守りながら戦ったラウルは、リーシェ以上に傷が深かったはずだ。
「私のお願いを聞いてくれるというのなら、これからの人生を、そんな風に過ごして。――自分が幸せだって思うことや、嬉しいって思うことを、あなたの本物の笑顔で教えて」
「……」
ラウルはそのとき、目の前のリーシェのことを見て、どこか遠くを眺めるような表情をした。
「……かーわいいなあ」
そして、つい先日リーシェに言ったのと、まったく同じ台詞を口にする。
「皇太子サマじゃなくて、俺の奥さんにしたいくらいだ」
「もう。そういう冗談も、もう必要ないはずでしょう?」
「はいはい、そうでしたそうでした。あんたはアルノルト・ハインのお嫁さんになるんだもんな」
「!!」
事実なのだが、改めて言われると妙に気恥ずかしい。リーシェがむぐぐと顔を顰めると、ラウルはふうっと息を吐いた。
「あんたの結婚が、政略結婚でも。……その嫁ぎ先が、ガルクハインだとしても……」
「……ラウル?」
こちらを見たラウルの表情には、柔らかな微笑みが浮かんでいる。
「願ってるよ。あんたが、幸せになれるようにって」
「――ええ。任せておいて!」
そうしてリーシェは、彼の部屋を後にしたのだった。
***
それから、リーシェがさまざまな覚悟を決めているあいだに、驚くほど時間は早く過ぎていった。
夕暮れどきの砂浜には、柔らかな波音が響いている。懐中時計の文字盤を眺め、大きな深呼吸をしたリーシェは、心の中でそうっと考えた。
(……約束の時間まで、あと十分……)
十分あれば落ち着けるだろうかと、そんな期待は打ち砕かされる。砂浜にしゃがみこんだリーシェのことを、待ち人の声が呼んだからだ。
「リーシェ」
リーシェはぱっと立ち上がり、慌てて城の方を振り返った。
「アルノルト殿下……!」
夕焼け色の砂浜を、アルノルトが歩いてくる。日差しが眩しいのか、彼は僅かに目をすがめた。
「オリヴァーから、お前が呼んでいると。……何かあったのか」
「……殿下にお話したいことがあり、オリヴァーさまにご相談したのです」
リーシェはアルノルトの前に駆け寄ると、呼吸を正してから彼を見上げた。
「夫婦喧嘩の……仲直りを、したくて」
「……」




