146 こうして未来に結ばれる
※本日3回目の更新です。
前話をお読みでない方は、ひとつ前のお話からご覧ください。
アルノルトが、他国に対する同盟の要望を口にした。
これは、以前までなら到底考えられないことだ。雪の国コヨルが同盟を申し出た際、アルノルトは『手を組むよりも侵略する方が性に合っている』と返した。
けれどもいまは、そうではない。
嬉しくて、リーシェの心臓がどきどきする。その一方で、これまでの話を聞いていたラウルが、困惑を隠しもせず口にした。
「……待てよ、そんなの夢物語だろ。紙の金? それで国の経済を運用するつもりか?」
アルノルトの眼差しを向けられたラウルは、ハリエットの傍から立ち上がって言う。
「ガルクハインの皇太子さまともあろうお方が、一体何を言い出してんだ。そんなものの価値なんて、信じるやつがいるわけない」
ラウルの発した言い分は、アルノルトも理解しているだろう。
それどころかきっとアルノルトは、元々ラウル側の考えだったはずだ。一度はこの考えを否定して、オリヴァーにも話していなかったのだから。
「そうだな」
ラウルの言葉を、アルノルトは淡々と肯定する。
「『実態のないものを信じ続けることの出来る人間など、いるものか』と」
そのまなざしが、隣に立つリーシェの方へ注がれる。
「――……俺も、最初はそう考えていた」
リーシェと目を合わせたアルノルトは、その双眸を僅かに細めたあと、柔らかな声音で続ける。
「だが。世の中には、死霊の類を本気で恐れる人間がいる」
思わぬ矛先を向けられて、リーシェの頬が熱くなった。だが、揶揄うための言葉でないことは、その目を見ていればちゃんと分かる。
「教会に属する者たちは、女神の存在を心から信じている。……それは、実態の有無が重要なのではなく、根本にある信心が成せることなのだろう」
アルノルトの話すことについて、心当たりがあった。
昨晩、彼と同じ寝台の上に座り、リーシェが語って聞かせたことだ。幽霊を信じているリーシェや、女神を信じている教団の人々にとって、それらは揺るぎ無いものであると告げた。
形がなくたって、確かに存在しているものはある。
たとえば、昨日のアルノルトが、リーシェに海を見せたいと願ってくれた心のように。
「貨幣とは国が発行するものだ。その価値の実態は含まれている金の量などでなく、発行した国への信頼によって担保される。金貨であろうと紙幣であろうと、それは変わらない」
(殿下の仰る通りだわ。他国の金貨は、たとえ本物の金が含まれていようと、日常で使えないもの)
それと紙とが同じだというのは、さすがに豪胆ではあるものの、本質的には変わらない。
「紙幣への信用を得ていくには、段階的な調整が必要だろう。信用を得られるかどうかは、すべて国家の行動次第だ」
「……意外な答えだな。やんごとなき皇族さまが下々に、『信じてくれ』と訴えるって?」
「国政への信用とは、懇願して得るものではない。これまで民に応えてきたかどうか、これから信じるに値する仕組みを作り上げられるかどうか、それだけの話だ」
そしてアルノルトは、再びリーシェを見下ろした。
「……国への信用が足りないのであれば、すでに信用されている存在の名を借りればいい。それこそ、女神であろうとな」
「アルノルト殿下。では、クルシェード教団に協力の要請を……?」
これもまた、先日までのアルノルトであれば、決してしなかったであろう発言だ。
アルノルトは教団を嫌悪していた。そんな彼が『教団の名を借りる』だなんて、思ってもみなかったことである。
「いくら新しい素材を使うといえど、偽造を目論む人間は出てくる。それについては、裏社会に人脈を持つテオドールに一任し、不審な動きを監視させるつもりだ」
「っ、アルノルト殿下……!」
リーシェは心底嬉しくなって、アルノルトを見上げた。
「きっと、喜んで協力して下さると思います。テオドール殿下も、アリア商会も、コヨル国も……ミシェル先生も、クルシェード教団も!」
そうしてアルノルトの袖をきゅっと掴んだ。リーシェがどれだけ嬉しいか、少しでも伝わってほしいと望みながら。
「そこにアルノルト殿下の政治手腕と、シグウェル国の印刷技術が加われば、決して『夢物語』などではありません。――絶対に、実現可能です……!」
するとアルノルトは、リーシェにまなざしを向けたまま、少しだけ表情をやわらげた。
「……お前がいたから、夢物語が現実になる。これらの人脈は、お前がガルクハインに来たからこそ繋がれたものだ」
「……?」
リーシェは首を傾げ、アルノルトの言葉を訂正した。
「違いますよ、アルノルト殿下」
「……なにを」
「この国に来た私に、アリア商会との自由な商談を許して下さったのはアルノルト殿下です」
通常なら、『人質』であるはずのリーシェにそんな我が儘は許されない。単純な買い物だけでなく、商会との商いまで出来たのは、アルノルトがいたからこそだ。
「弟君と和解なさったのも、街中に火薬を仕掛けたミシェル先生をお許しになられたのも。コヨル国との金加工技術における提携も、クルシェード教団と協力体制が組まれたのも、すべてアルノルト殿下がなさってきたこと」
それらは決して、リーシェが繋いできたものではない。他ならぬアルノルトが決断し、関わってくれたことによって結ばれたものだ。
「殿下は以前、『他国と手を結ぶよりも、侵略する方が性に合っている』とご自身のことを評されましたが……」
けれど、そうではない。
「この人脈は、アルノルト殿下が、殿下ご自身の選択によって築き上げたものに他なりません」
「……!」
アルノルトは、ほんの僅かに驚いたような顔をした。
そのあとで、微笑むように目を伏せる。
「いいや。――これは間違いなく、お前によって繋がれたものだ」
「……?」
あんまり腑には落ちないものの、アルノルトがどこか楽しそうにも見えたので、リーシェはひとまず口を噤んだ。
一方で、ラウルとハリエットは呆然としたまま、リーシェとアルノルトのことを見詰めている。
「……あんたら、本当に何者なんだよ。あのクルシェード教団までもが、ガルクハインに力を貸すだって……?」
「あう、わ、私、まだ全部は追いつけてないかもしれないけれど……! だけど、でも、ラウル」
ハリエットは一呼吸を置いたあと、覚悟を決めた顔をした。
「お……お父さまやお兄さまは、突然でびっくりするかもしれない。だけど、私は説得したい。シグウェル国はいままで、ファブラニアの言いなりだったけれど、そうじゃなくて……」
「……ハリエット」
「ファブラニアじゃない、どこか別の国と協力しあうとしたら、今までみたいに一方的に守ってもらうのでは駄目なの。自分たちの国の技術で、しっかりと進む国じゃないと、きっと……」
それが簡単でないことは、きっとハリエットも分かっているのだろう。
その声はやっぱり震えている。けれどもハリエットの双眸から、怯えの色は消えていた。
「し……シグウェル国の作る本の美しさを、ずっと誇りに思ってた。よそから力を借りるだけでなく、自分たちの国が誇るもので、他国と対等な関係を築けるなら……」
小さな手が、ぎゅっときつく握り締められる。
「どれほど弱くて、小さな国でも。……自分たちの力で、自分たちの国の持つものを誇れるように、変えていきたい」
ラウルが眉を歪ませた。
彼があんな表情をしてみせるのは、本当に珍しいことだ。
「そんなのは綺麗事だ、ハリエット。国の在り方を変えるのは、並大抵のことじゃない」
「で、でも! ……変わろうと決意しないと、何も変えられない……!」
強い意志のこもったハリエットの言葉に、ラウルはぐっと顔を顰める。
「……まったく」
そのあとに額を押さえ、長い長い溜め息をついてからこう言った。
「つくづく狩人失格だ。……こんな強い目をしたお姫さま、攫って逃げる自信はないな」
その言葉を耳にして、リーシェは心の底から安堵する。
(……狩人人生で、ラウルのあんなに困ったような表情を見たことは、一度もなかったわ)
彼はいつでも軽やかに笑い、本心を隠し、自分に嘘をついているように見えた。
(だけど、これでもう大丈夫な気がする)
あの人生で守れなかったハリエットは、望まない罪に手を染めることもなくここにいる。
そんなハリエットを、狩人として命懸けで守ろうとしたラウルも死ななかった。そして、恐らくは彼の本心に近い表情を浮かべてくれているのだ。ひとつ息を吐き、アルノルトを見上げた。
(やっぱり、アルノルト殿下はすごいわ)
そう思い、にこりと笑う。
アルノルトは僅かに目を瞠ったあと、少しだけ眉根を寄せてこう言った。
「……どうして俺を見るだけで、そんなに嬉しそうな顔をする」
「っ、うえ……!?」
リーシェは驚き、自分の頬を両手でぱっと押さえる。
「……してましたか? 嬉しそうな顔」
「先ほど、俺がこの教会に入ったときもそうだった」
思い出そうとしてみるけれど、あまり記憶に残っていない。恐らくは自分でも無意識に、表情を緩めてしまったのだろう。
(だって、アルノルト殿下があっという間に教会を制圧なさるから! たとえ目の当たりにしてなくても、剣士なら誰だってわくわくするに決まっているし……)
「それと、夫婦喧嘩とやらはもう気が済んだのか」
「……!!」
言われてリーシェは思い出す。そういえば、いまは大事な夫婦喧嘩の最中だったのだ。
「ん?」
揶揄うような笑みに、リーシェは慌てて反論する。
「ま、まだです……!! この件については、色々と考えたいことが残っているので!!」
「そうか。では俺も、お前が俺のあずかり知らぬところで動き、『いざとなったら自分を切り捨てれば済むように』などと言ったらしいことについては、改めて詰めよう」
「うぐぐ……!」
やっぱり従者のオリヴァーは、洗いざらいアルノルトへ報告していたようだ。
頭を抱えそうになったリーシェに対し、アルノルトがふっと挑むように笑ってみせる。
「覚悟しておけよ」
「……殿下こそ!」
リーシェは視線で宣戦布告をした。
そのあとでハリエットに駆け寄り、彼女を抱き締める。それから、随分と遠回りなやり方をしたラウルを見遣るのだ。
ラウルはどこか、ばつの悪そうな表情をしていた。
これもきっと、ラウルの本心の顔なのだ。それが分かり、なんだかとても可笑しくて、ほんの少しだけ懐かしかった。
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