145 尊ばれる技術
※本日2回目の更新です。
前話をお読みでない方は、ひとつ前のお話からご覧ください。
彼女は空中でフードを被り、そのまま体を丸めると、受け身を取りながら床に転がった。
彼女が纏うローブの布は、自分たちが森に入るときに使う生地のようだ。硝子片を物ともしない少女が、起き上がりざまに剣を抜く。
そして、ラウルのナイフを的確に弾いた。
「!!」
完全に予想していなかった所為で、ナイフが遠くに吹っ飛ばされる。
少女はそのまま身を返し、鮮やかに剣を構え直すと、そのままファブラニアの騎士に突っ込んだ。
呆気ない悲鳴が聞こえてきて、残った三人が床に倒れる。その一連の出来事を、ラウルは呆然と眺めてしまうのだ。
「ラウル!」
彼女にはっきりと名前を呼ばれ、そこでようやく我に返る。
だが、有り得ないはずなのだ。
彼女がここにいるわけがない。だって先ほど間違いなく、痺れ薬の入った茶を飲んでいる。第一に、正面の扉から入ってくるのではなく、上から降ってきた意味も分からなかった。
「言ったでしょう? ハリエットさまを救うなら、協力したいって。……けれども救出の方法が、あなたを犠牲にする方法であっていいはずがない」
そして彼女は、当然のように言い切るのだ。
「だから、あなたを助けに来たの」
その言葉に、思わず眩暈がしそうだった。
「大丈夫? 怪我をしたり、早まって毒を飲んだりはしていない? ひとまずあなたはここを離れて、もう一度ゆっくり話し合いを……」
「……待てよ。能天気な心配してるみたいだけど、ファブラニアの騎士は他にもいる」
ハリエットを逃がした部下たちは、見つかるようなヘマを犯していないはずだ。とすれば残る十数人の騎士は、いまも教会の外を守っている。
「この教会は囲まれてるぜ。さっさと逃げないと、あんただって無事では……」
ラウルの言葉を遮るように、教会の扉が開く音がした。ラウルは咄嗟にナイフを抜き、少女を背中へ庇おうとする。
だが、そこに姿を見せたのは、危惧していたファブラニアの敵ではない。
(……嘘だろ)
「アルノルト殿下!」
少女が嬉しそうに名前を呼ぶ。
彼女のくちびるが綻んで、一番美しい微笑みを作った。エメラルド色をした宝石の瞳が、大切なものを見るみたいに輝いている。
彼女の視線の先にいるのは、つまらなさそうな表情の色男だった。
「どうしてあんたがここに。それに、ファブラニアの連中は……」
「それなら既に片付いている」
当然のような口ぶりで、アルノルト・ハインが歩いてきた。
開け放たれた扉の向こうには、言葉通りの惨状が見える。ファブラニアの騎士たち全員が、そこで気を失っているようだ。
(有り得ない。部下たちが、アルノルト・ハインを足止めしていたはずで……)
「ごめんねラウル。あなたの弓と矢を借りて、他の人たちには眠ってもらったの」
「…………は?」
言葉を失ったラウルの横を、アルノルト・ハインが通り抜けてゆく。彼は少女の目の前に立つと、ローブのフードを脱がしてやりながらこう尋ねた。
「リーシェ。怪我はないな」
「はい。この通り、傷のひとつも」
(……狩人謹製の、強力な痺れ薬を飲んでおいて……)
腕利きの弓兵たちを配置した、そんな街中を突破しておいて。
ステンドグラスを叩き割って落下し、五点接地で着地をして。騎士相手に戦っておきながら、『傷のひとつも』ないらしい。
そしてアルノルト・ハインの方は、十人以上の騎士を相手にし、ラウルが気付くような悲鳴すら上げさせずに全滅させてしまったのだ。
「……いやいやいや。本当に、勘弁してくれ」
ラウルは思わず額を押さえた。
せめてリーシェが普通に扉から入って来ていれば、それくらいでは動揺せず、そのまま自害を決行できていた自信がある。だが、上から降ってくるのは予想外だ。
そのお陰で、すっかり毒気が抜かれてしまった。
「……あんたら夫婦、化け物かよ……」
そう言うと、リーシェは一気に頬を赤く染める。
「ま……まだ、正式な夫婦じゃないもの……!!」
どう考えても、真っ先に反論するのはそこではない。
(そんなに恥ずかしそうな顔して)
こちらを睨んでくるその表情は、どこか拗ねたようでもあった。彼女の顔を見て、ほとほと参った心境になり、ラウルは舌打ちをしたくなる。
(可愛いな。……くそ)
残念ながら、毒を仕込んだナイフはあれだけだ。
失敗すると思っていなかった驕りに、自分の未熟を思い知らされたような気がした。
(こんなんじゃ、嘘をつくどころの話じゃない……)
***
(本当に、間に合って良かったわ……)
黒色の剣を鞘に収めながら、リーシェはそっと溜め息をついた。
ラウルの手から弾いたナイフには、刃先に毒が塗られていたのだ。その時点で、ろくでもない計画を抱えていたのは想像がつく。
(嫌な予感は正しかったわ。ラウルが本気で逃げているなら、いくらアルノルト殿下の近衛騎士でも、あんなに早く発見できるわけがないもの)
そもそも今回のラウルには、あちこちに無防備な隙があった。
リーシェが知っている彼であれば、計画の一端が暴かれたって、残りの全てを自分から話すようなことはしない。敵に痺れ薬を飲ませたいなら、断られたとしても上手に丸め込み、その場にいる全員に飲ませていたはずだ。
(単純に攫って殺すだけなら、廃教会なんて目立つ場所も選ばないわ。そうなると、教会の高い天井を利用したくて……つまり、狩人にとって有利な戦場を選んだって想像はついたけれど)
アルノルトと辿り着いた教会の周囲には、ファブラニアの騎士たちが警備を固めていた。
とはいえそれも予想済みだ。彼女たちの対処をアルノルトに頼むと、リーシェは教会の屋根へと登り、そこから中に飛び込んだのである。
最善の選択だったと思っているが、目の前のアルノルトは、どうにも苦い顔をしていた。
「……侵入するにしても、わざわざステンドグラスを割る必要はあったのか?」
「大きい音を立てた方が、全員の気を引けると思いまして」
普通の窓も存在したし、狩人たちはそこからハリエットを連れ出したようだが、それではラウルを止められなかったと思う。とはいえ、物を壊してしまったのは心が痛んだ。
「ガラスを割ってごめんなさいって、シュナイダー司教にお手紙を書かなくちゃですね……」
「どのみち取り壊し予定だった廃教会だ。お前に怪我がなかったのであれば、あとは放っておけ」
「そういう訳には参りません。解体作業に不都合が出るかもしれませんし」
しかし、いまの最重要項目はそこではない。
会衆席の背もたれに浅く腰掛け、額を押さえたラウルの姿は、狩人人生で一度も目にしたことのないような空気を纏っている。
リーシェがラウルに声を掛けようとしたそのとき、背を向けていた扉の方から、ひどく辛そうな声が聞こえてきた。
「っ、ラウル……!!」
「ハリエットさま!?」
休まずに駆けてきたのだろう。教会に飛び込んで来たハリエットは、浅い呼吸を継いでいる。
「い、生きてる……」
泣き出しそうなほどに、弱々しい声だ。
けれどもハリエットは、それで崩れたりしなかった。ぎゅっとくちびるを結ぶと、視線をすぐさまラウルから外し、今度はこちらを見上げてくる。
ほとんど倒れ込むように膝をつき、額を床につけるほど深く頭を下げた。
「……っ、アルノルト殿下、リーシェさま! 申し訳、ございませんでした……!!」
「は、ハリエットさま! 大丈夫ですから、どうかお顔を……」
ハリエットの白い手首には、擦り切れたような傷がついていた。
必死に縄から抜けたのだろう。痛々しく滲んだ血が、彼女の必死さを物語る。
ハリエットは頭を下げたまま、苦しそうな呼吸で必死に紡いだ。
「ガルクハインに、多大なご迷惑をおかけしました。……この者、ラウルが行ったことの責任は、すべて私にあります……!」
「やめろ、ハリエット」
ふらりと立ち上がったラウルが、ハリエットの傍に膝をついた。
「お前は何も関与してない。そんな人間が頭下げたって、まるで意味ないって分かるだろ」
「駄目! 私を、助けるためだったのに、『関与してない』なんてあるはずない。私は……」
本当に呼吸が限界らしく、ハリエットが咳き込んだ。リーシェはやっぱり見ていられず、ハリエットに駆け寄ろうとする。
けれど、隣のアルノルトに腕を掴まれた。
「アルノルト殿下……」
リーシェを止めたアルノルトは、代わりに前へと進み出る。
こつりと鳴った靴音に、ハリエットがびくりと肩を跳ねさせた。ラウルは眉根を寄せたあと、アルノルトを見上げてへらりと笑う。
「皇太子さま。悪いが、ハリエットはこの計画に無関係だ」
何も言わないアルノルトが、ラウルの方を見遣る。リーシェから顔は見えないが、恐らくは冷めた表情をしているのだろう。
「な? やろうとしたことは洗いざらい吐く。そのあとで、俺のことは好きにしてくれればいい。一思いに殺すなり、気晴らしに殴って遊ぶ奴隷にするなり、どうぞご自由に」
「ラウル……! や、やめて。お願いだから」
ハリエットの言葉を遮って、アルノルトがラウルにこう尋ねた。
「その末に、貴様はどうするつもりなんだ」
「……意地の悪いことを、聞いてくれるなあ」
自嘲の含まれた笑みを滲ませ、ラウルはぐっと顔を顰める。
「大国ガルクハインに無礼を働いたんだ。こうなりゃ、俺の命を以て償うしかないだろ?」
本気の謝罪をしているとは思えない、軽薄さの残る態度だった。しかし、ラウルがそんな振る舞いをしているのは、彼の思惑があってのことなのだ。
(ラウルはきっと、わざと不遜な態度を取っているわ。アルノルト殿下のお怒りが、ハリエットさまから自分に向けられるように……)
アルノルトは、つまらなさそうに口を開いた。
「『責任を取る』などという言葉は、責任を取れる人間が口にしてこそ意味がある」
ハリエットが、ぎゅっと体を縮こまらせる。
「命を差し出すなどという、くだらない提案も同様だ。お前の命など、俺にとって価値は無い」
アルノルトの言葉に、ラウルが笑って首をかしげる。
「だったらあのまま死なせてて欲しかったぜ。想定外の乱入で、こっちの計画は丸潰れだ」
「……ラウル。あなた、やっぱり自分が死ぬことで、ハリエットさまをファブラニアから助け出そうとしていたのね?」
これまで見てきた状況を重ねれば、ラウルが考えたことの想像はつく。
リーシェは知っているのだ。狩人だった人生で、ラウルははっきりと口にしていた。
『俺はこう見えて、シグウェル王家への忠誠心に篤いんだよ』
あれは、ハリエットのことを救うことが出来なかった未来の話だ。
冗談のふりをした本心だったことくらい、かつての仲間として、ちゃんと分かっていた。
ラウルは笑顔のままで言う。
「だって仕方ないだろ? 単純に贋金のことをファブラニアに詰めたって、ハリエットが生贄にされるだけだ。シグウェル国とハリエット、両方を守ろうと思ったら、多少の策は必要になる」
ラウルの言う通りだった。
ガルクハインが告発したとして、それだけでファブラニアが罪に問われる訳ではない。ファブラニアは疑惑に抗うだろうし、ファブラニアに味方をする国もあるだろう。その混乱に乗じて、戦争を仕掛けてくる他国もあるかもしれない。
それこそ、アルノルトが起こす戦争を待たずに、別の新たな戦争が起きてもおかしくはない。
アルノルトの父であるガルクハインの現皇帝がこのことを知れば、どういった動きを取るかも想像がつかなかった。きっと、アルノルトだってそれは分かっている。
(だからラウルは毒のナイフを……ラウルの死があれば、世論がシグウェル国側に傾いて、ファブラニア側の不利に動くもの)
もしかしたら、それを加速させるための証拠品を偽造しているのかもしれない。ラウルがこんなときに選びそうな手段は、リーシェにだって想像がつく。
(せめてシグウェル国に、ガルクハインの後ろ盾があれば……)
そのとき、アルノルトが口を開いた。
「ファブラニアの贋金については、当然見逃すつもりもない」
「……アルノルト殿下」
リーシェは彼の隣に立ち、その横顔を見上げて言った。
「どうか、私に少しだけお時間をいただけませんか。コヨル国の時のように、シグウェル国とガルクハインの同盟について、妙案がないかを考えたいのです」
先ほどのアルノルトはリーシェに対し、騎士としてではなく、皇太子妃としてハリエットを助ける方法もあると言ってくれた。
現皇帝に怪しまれず、シグウェル国との同盟を結ぶ理由さえ見付けられれば、その事実はシグウェル国の後ろ盾になるだろう。シグウェル国が贋金偽造の濡れ衣を着せられたとしても、同盟国にガルクハインの名があれば、一方的にファブラニアから攻撃されることはない。
その道を、何がなんでも見つけ出す。しかし、アルノルトはリーシェの方を見てはくれなかった。
「殿下……」
「その必要はない」
言葉は冷たい響きを帯びており、リーシェは反射的に息を呑む。
けれど、アルノルトは次の瞬間、こんな風に続けるのだ。
「……我が国は今後、貨幣の作り直しを行っていくことを予定している」
思わぬことを切り出され、瞬きをした。
「だが、いまの貨幣制度には、いずれ限界が来るとも考えていた。――金や銀などの素材は有限であり、いずれ枯渇することが予想されるものだ」
「……?」
ラウルとハリエットも、アルノルトの意図が読めないらしい。そんなことは承知の上であるかのように、アルノルトは淡々とこう話した。
「偽金防止のため複雑な造りにすれば、製造の費用が嵩む。鋳造にも技術が必要となり、量産には向かない。その課題を解決するには、そもそもまったく別の道を選択する必要がある」
「殿下。別の道とは?」
「金貨や銀貨よりも原価が安く、枯渇の恐れがない素材で作られるものだ。量産が可能であり、それでいて偽造が困難な、新しい貨幣でなければならない」
アルノルトは、ハリエットたちを見下ろしたまま、はっきりと口にするのだ。
「いま選び取れる最善は、紙を用いた貨幣だろう」
「……!?」
ハリエットがぽかんとアルノルトを見た。
ラウルだって、信じられない物を見る目でアルノルトを見上げている。けれどもリーシェは、アルノルトがいま言った言葉の意味を、必死に頭の中で組み立てた。
(もしかして、昨日アルノルト殿下が仰ったのは……)
貨幣の改鋳をするにあたり、アルノルトには別の考えがある様子だった。
けれど、リーシェたちがそれについて尋ねると、アルノルトは自身でそれを否定したのだ。
『……あれは、どうあっても現実味のない策だ』
『夢物語に近い案で、馬鹿げていると言ってもいい。だから、その別案は検討するまでもなく、すでに切り捨てている愚策に過ぎん』
それに対し、リーシェは言ったのだ。『あなたが本気で願うなら、実現可能な夢ではありませんか?』と。そして、アルノルトはそれを否定した。
『形のないものの実態を信じられる人間などいるものか』と、言い聞かせるような物言いだった。
あれはリーシェに対してではなく、アルノルト自身への言葉だったのかもしれない。
しかし、何かがアルノルトの考えを変えたのだ。
「紙の、お金……」
リーシェが呟くと、アルノルトは答える。
「当然ながら、ただの紙に資産価値などありはしない。その紙……紙幣は、額面に書かれた金額の金銀と引き換えられる、そういった意味合いを持つものだ」
その説明に、なんとなく理解できたような気がした。
「普段はその紙を金貨の代わりにし、買い物などに利用できるということですか? そして、いままで通り本物の金銀が必要になったときは、両替所などで交換できると」
「ああ。同額の金貨を持ち歩くよりも嵩張らず、携帯性も高くなる。たとえ国内の金銀が枯渇しようと、安定して貨幣を発行することが出来れば、それによって国の経済が滞ることはない」
金貨の価値は、本物の金が使われているからこそ担保されるものだ。
けれどもアルノルトの話す策は、その観念を根本から覆すものだった。実際の資産価値があるものではなく、その『価値ある金銀への交換券』を、日常の取引で使用するということなのだ。
(世界中のどこに行ったって、そんな方法を取っている国なんかひとつもなかった。……だけど)
リーシェの胸が、どきどきと早鐘を刻み始める。
(この方は、今まさにその仕組みを作ろうとなさっているんだわ。誰も試したことのない、初めてのことを!)
「……紙幣を刷るための金属版には、コヨル国の職人の技術を使用する」
アルノルトの言葉に、リーシェはますます目を輝かせた。
「リーシェ。錬金術師ミシェル・エヴァンの作り出したもののひとつに、耐水性の高いインクや紙があったはずだな」
「は、はい。水だけでなく、摩擦でも滲みにくいとお聞きしています」
「錬金術師の生み出した新素材であれば、その辺りの人間が入手して偽造するのも難しい。偽金防止のための刷新という、当初の目的も達成できる」
どきどきしながら頷くと、彼はこう続けた。
「紙幣の流通を促進させるためには、アリア商会の人脈を利用すればいい。あれだけの情報を集めるのであれば、強固な網があるはずだ。だが……」
アルノルトはそこで目を伏せる。
「紙とインクを用意し、精巧な金属版を完成させようとも。印刷物を量産する技術がなければ、実現は出来ない」
ここまで来れば、リーシェにだってちゃんと分かった。ハリエットとラウルが到着した日の夜、リーシェとアルノルトは本を読んだのだ。
それは、シグウェル国から贈られた本だ。細やかな表紙の意匠まで、繊細に刷られていた。
「――シグウェル国には、優れた印刷技術があるのだろう?」
「あ……っ!」
ハリエットが、思わずといった調子で声を上げる。
「シグウェル国に協力を依頼するのは、こちらの方だ。今後の我が国の造幣事業には、その印刷技術が不可欠になるだろう」
そしてアルノルトは、静かに告げるのだ。
「そのための同盟を、シグウェル国と結びたい」
「……!!」




