144 殻を砕いて
※昨日も更新しています。前話をお読みでない方は、ひとつ前のお話からご覧ください。
そのときに覚えたことがある。
それは、国政の駒にされる姫たちが、政略結婚で幸せになれることなんて無いということだ。
実際に王室は、自国の姫がそんな目に遭っても、なにひとつ抗議などしなかった。
『あの子を差し出したお陰で、ガルクハイン皇帝はこの国を見逃してくれた。……あの子は、私たちの誇りだ』
どうやら王族というものは、国のために生きて死ななければならないらしい。その責務を果たすため、望まない結婚でも笑って受け入れ、嫌だと泣くことも許されないのだ。
(なんだ。じゃあ、俺たちとおんなじじゃないか)
本当の笑顔を見せてほしいと言われていた。けれどもラウルが抱いたのは、新たな決意だけだ。
(自分自身の感情なんて、持つものじゃない。……必要なときだけ笑って、必要なときだけ悲しんで、そう振る舞った方がずっと楽だ)
それからもラウルは、養い親である頭首たちと一緒に、色んな国を渡って行った。
この狩人集団というものは、言うなれば雇われの傭兵だ。金を出されればどこにでも行くし、その度に仕える主君を変える。
大金を出せる国でなくとも構わない。小国に仕えた際の情報は、大国に雇われたとき役立つからだ。特に先代頭首は、跡目であるラウルのために、小国の依頼も積極的に受けていた。
その中に、シグウェル国があったのだ。
そこに居たのは、当時のラウルと同じ十五歳である王子カーティスと、十歳のハリエットだった。
大人びた微笑みを浮かべたカーティスは、使い捨ての護衛でしかないラウルと目を合わせ、真っ直ぐに握手を求めてきた。
『これからよろしく頼む、ラウル。……こちらは妹のハリエットだけど、気が弱くてね』
兄の背中に隠れ、ラウルをじっと見ている少女は、見た目だけは気の強そうな顔付きをしていた。
一見すれば、こちらを睨んでいるような様子だ。しかし、他人の観察に慣れているラウルには、怯えて恥ずかしがっているだけだということがすぐに分かった。
だから、にこやかに笑ったのだ。
気弱な少女を怖がらせないよう、明るく穏やかで、押し付けがましくない表情で。
『こんにちは。これからよろしくお願いします、カーティス殿下、ハリエット殿下』
『……!』
その甲斐もあって、ハリエットは少しずつラウルに懐いていった。ふたりの前で笑いながらも、ラウルは内心で考える。
(どうせこの王女さまも、政略結婚で不幸になる)
けれどもその一方で、彼ら兄妹はラウルに対し、屈託なく歩み寄ってくるのである。
『ラウル! ラウルはすごいな。足音をまったく立てずに歩けるし、弓矢は百発百中だ。ラウルが私に化けたときは、父上たちだって中々気付かない。なあハリエット?』
『ん……!』
カーティスの言葉に、ハリエットは頬を紅潮させてこくこくと頷く。
こんなもの、生きるために身に付けただけだ。だが、ラウルは嬉しそうなふりをした。
『お褒めに預かり光栄です。両殿下』
『言っただろう、そんなに堅苦しい話し方をしなくてもいいと。私たちは歳も近いのだし、友人だと思って接してほしい』
『……友人?』
そのときばかりは、妙な顔をしそうになってしまった。だが、カーティスとハリエットは、なんの疑問も持たずに微笑む。
『そうだ。ラウルは私たちの友人だよ』
『……おともだち。だって、ラウルのことが大好きだから』
そのときは、彼らに心底呆れてしまった。
一国の王族と、傭兵になるため拾われただけの人間とが、友人関係になどなれるはずもない。とはいえ、この場で求められているのは、まさしく友人らしき振る舞いなのだろう。
『ありがとう。……そう言ってくれて、嬉しいよ』
ラウルはそのとき、いつものように嘘をついたつもりだった。
だが、胸の内側に、なんとなく温かなものが生まれたように感じられたのだ。
(……なんだこれ)
不快なようで、落ち着かなくて、それでいて覚えのある感覚だ。
(もしかして俺は、嬉しいのか?)
冗談じゃない。
生きるのになんの必要もない感覚だ。こんなものを持っていては、仕事に支障が出てしまう。
(捨てろ捨てろ、こんなもの。この感情の所為で、こいつらを守るのに失敗したらどうする?)
今度こそ、守り切らなければいけないのだ。
そんな決意とは裏腹に、シグウェル国内での本格的な王妃教育が始まると、ハリエットはどんどん俯きがちになっていった。
ウォルターに言われたことを気にして、顔を隠すように前髪を伸ばし、周りの人間の目を見て話すのを止めた。
もともと気弱な性格だったところに、母親からの厳しい教育も始まって、どんどん笑顔が失われていったのだ。
本を読んでいるときや、その本の話をしているときしか、明るい表情を見せなくなってしまった。
その状態で数年が過ぎ、養い親が亡くなって、ラウルは狩人の頭首を継いだ。そのころ、同盟国ファブラニアから、ハリエットを国へ招きたいとの申し出があったのだ。
名目は花嫁修行だが、どうにも嫌な予感がする。ラウルはカーティスに進言し、護衛としてファブラニアへの同行を申し出た。
男の護衛がつくことに問題があるのなら、女のふりをすればいい。しかしファブラニア側は、同行者を侍女一名までとし、一切の護衛を断ってきたのである。
『ラウル。どうか一度だけでも、ハリエットの様子を見てきてくれないか?』
カーティスがラウルに懇願したのは、ハリエットが旅立ってしばらく経ったころだ。
『おかしいんだ。半年も経つというのに、手紙の返事すら来ないなんて……』
(馬鹿だな。妹の嫁ぎ先で起きていることなんか知ってどうするんだよ、お前は)
だって、どうにも出来やしないのだ。
(シグウェル国に、他国と渡り合えるような武器はない。同盟国同士で助け合わなければ、大国の侵略から身を守ることも出来ない。……同盟のリーダー格であるファブラニアに背いたら、この国は生き残れないだろうに)
それでもラウルは、慰めるようにカーティスの肩を叩き、にっと笑った。
『任せろよカーティス。俺がばっちり探ってきて、ハリエットに何かあったら助けてやる』
『ラウル……!』
そしてラウルはファブラニアに出向き、ハリエットに起きていることのすべてを知った。
蔑まれ、罵られ、嘲笑される。その挙句、贋金沙汰に巻き込まれているらしい。
同行させた侍女長は、必死にハリエットを庇っていたようだ。率先して叱ってみせることで、第三者がハリエットに何か言い難い空気を作っているらしい。
だが、そんな小細工ではどうにもならない。
『おかえり、ラウル。……ハリエットは、どうだった?』
シグウェル国に戻ったラウルは、憔悴しきっていたカーティスに微笑んだ。
『忙しそうだけど、幸せそうだったよ。妹のことになると、お前は心配性だよなあ』
『ほ、本当か……!?』
きっと、あのときほど完璧な笑顔を浮かべられたことは無かったと思う。
『ハリエットは絶対に幸せになれる。――だからお前も、妹を犠牲にしたって、自分を責めるなよ』
それからのラウルは、最善だと思える準備を重ねてきた。
諜報活動も、贋金の証拠集めも、自分の部下の訓練も。カーティスに進言し、女性の騎士を育てさせて、『機会』が来ればすぐさま動けるように準備をした。
けれども問題は、その機会の訪れる気配が無かったことだ。
たとえファブラニアに潜入しようとも、ハリエットには近づけない。贋金のことがある所為か、城内の警備が厳しいばかりでなく、ハリエットの傍にはつねに国王がついていた。
一度でも贋金を使わされればお終いだ。焦っていたところに、思わぬ話が飛び込んできた。
ガルクハイン皇太子が婚約し、各国に招待状を撒いたのだ。
予想通り、ファブラニアはこの機会に食いついた。これまで頑なに国から出さなかったハリエットの外出を許し、贋金を使うよう命じて。
一方のシグウェル国では、ちょうどカーティスが体調不良を起こしていた。
ラウルは彼の影を申し出ると、ガルクハインに向かうのではなく、王室に黙ってファブラニアに向かった。
そうして船に潜り込み、ファブラニアの女性騎士たちの飲み物に薬を混ぜたのだ。ガルクハインに到着次第、護衛の騎士たちをハリエットから離し、『目的』を果たすつもりだった。
思わぬ誤算が生じたのは、リーシェという名前の、あの美しい少女が現れたからだ。
珊瑚色の髪をした少女は、護衛がいなくなったはずのハリエットの傍に、凛とした姿で現れた。
ガルクハインに女性騎士などいなかったはずだ。ならば急拵えの護衛かと考えたが、少女の体捌きには無駄がない。あれはほとんど、一流の騎士の立ち振る舞いだ。
ラウルは建物の屋上を飛び移り、気付かれるはずもない場所で監視していた。なのに少女は、ラウルのことを真っ直ぐに見上げたのだ。
桜色の柔らかそうなくちびると、通った鼻筋。単眼鏡越しに覗いていても分かるほど長い睫毛に、丸い形をした大きな瞳。
意思の強そうな双眸が、ラウルを射抜いた。
思わず息を呑むほどに、美しい目をした少女だった。
彼女が路地裏に入った瞬間、誘われているのは分かっていたのだ。けれどもその上で、反射的に彼女を追っていた。
その剣捌きは、とても繊細で鮮やかだ。なのに、次に顔を合わせた彼女は、自らを『ガルクハイン皇太子の婚約者』だと名乗るのである。
(まさか、あのお嬢さんが本物で、ハリエットを見事に変えちまうとは)
ラウルは小さく息をつく。
(あのお嬢さんも、他人にかまけてる場合かよ? ……ガルクハインの花嫁で、政略結婚の人質。絶対に幸せになれるわけがない)
だから、ラウルは彼女に言ったのだ。
『あんたが、あの皇太子さまと結婚したくないんなら、俺が攫ってやろうか』
冗談めかしたふりをして、その実は心からの提案だった。政略結婚で輿入れをしても、花嫁が幸せになれることはない。
ハリエットも、かつて守れなかった王女も、みんなそうやって不幸になった。
挙句、リーシェという名の少女が嫁ぐのは、あの王女と同じガルクハインだ。しかし、リーシェははっきりと口にした。
『あの方との結婚で、どんな災いが降り掛かることになったとしても、その所為で不幸になるとは思わない』
それは、一切の迷いすらない言葉である。
『あの方の花嫁になる。――私は、この人生をどんな風に生きるかを、すでに選んでいるわ』
反射的に、「この少女は危険だ」と感じた。
ラウルが恐れていることや、内心で望んでいることを、すべて見抜かれているように錯覚したからだ。出会ってほんの数日だというのに、まるで何年も傍にいたかのようだった。
浮かべている感情が偽りだと知られ、心の中にある本音に気付かれてしまえば、きっとラウルは立ち行かなくなる。
(……今更だ。怖いと思うことだって、不必要だろ?)
ラウルはゆっくりと瞼を開く。
礼拝堂の扉が開き、ファブラニアの女騎士たちが入ってきた。
(外の気配は、少し増えて十四。ここにいるのはこれで十五人。……二十九人、揃ったな)
そしてその女騎士たちは、ラウルを窺うような視線を寄越してくるのだ。
(へったくそだな。殺気がまったく隠せてないし)
もっともこの場合、最初から隠す気がないというのが正解なのかもしれない。ラウルはこきりと首を鳴らし、目の前で縛られているハリエットを見下ろした。
「……助かったよ、ハリエット」
小さな声で紡げば、ハリエットがびくりと肩を跳ねさせる。
「お前は昔から、周りの空気を読もうと必死になって、その所為でずっとびくびくしてた。……俺がやりたいことに気付いて、合わせてくれてたんだよな?」
「ら、ラウル。あなた、やっぱり……」
ラウルはハリエットに背を向けた。
「とはいえ、狩人としては若干傷付く。お前と言い、あのリーシェってお嬢さんといい、こうも簡単に見抜かれたら立場が無い」
「……さっきから、何をこそこそと話しているのです?」
女騎士のひとりが、ラウルの前に歩み出る。
「なんでもないよ。ただ、今生の別れは済ませておこうかと」
「ラウル!! だ、駄目……」
「そうですね。……なにせ、あなたたちはどちらもここで死ぬのですから」
安っぽい台詞に呆れてしまい、ラウルはひょいっと肩を竦めた。
「ひどい話だ。ファブラニアで雇われるのを楽しみにしてたのに、まさか騙されて殺されるとは」
「ふざけたことを。あなたは最初から、ハリエットを逃がすためにここに来たのでしょう?」
「そうだな。そしてあんたたちも最初から、俺とハリエットを両方殺すつもりだった――と」
馬鹿馬鹿しい茶番だ。この辺りで十分だろうと、ラウルは大きく伸びをした。
「……随分と余裕がありますね。たったひとりでその女を守り、三十人近い騎士を倒せるとでも?」
「根本的に勘違いしてる。俺たちはあんたら騎士と違って、『戦い』にはこだわらない」
彼女たちは、言っていることが理解できないという顔をする。だが、それでも別に構わなかった。
「それに、そもそもふたりで生き延びようなんて考えてない」
「……なるほど? その女を置いて、自分だけで逃げ出すと」
「最後にもうひとつ」
ラウルは笑い、すっと真上を指差した。
「別に、俺はひとりでいるわけじゃない」
次の瞬間、女騎士たちは一斉に警戒を露わにする。
けれども遅い。
彼女たちが瞬きをしたその瞬間、ラウルの周囲には、五人の部下が天井から降り立っていた。
「馬鹿な!! 仲間など、いつのまに……!?」
「最初から。気配が読めなくて残念だったな」
「頭首! ハリエット殿下を確保しました!」
振り返らないラウルの後ろで、ハリエットが抱えられた気配がする。縛られた状態で抵抗しているのか、ハリエットが悲痛な声で叫んだ。
「待って、は、離してください……!! このままだと、ラウルが……!!」
「それじゃあ頼むぜお前たち。手筈通りに」
「頭首。本当に……」
「行けって」
しっしと追い払う仕草をすれば、それ以上の異論は飛んでこなかった。
ハリエットの口が塞がれたらしく、くぐもった声だけがするようになる。部下たちは、天井から吊るしたロープを使い、このまま上に逃げる算段だ。
(戦うつもりなんか毛頭ない。……俺たちが目指すのは、ハリエットを逃すところまでだ)
ラウルはぺろりとくちびるを舐め、首を傾げて軽い笑みを浮かべた。騎士たちには、それが不快に映ったのだろう。
「上に逃げるぞ、絶対に許すな! 下から掴んで引き落と……っ」
「おっと」
駆け出そうとした騎士を目掛け、袖に仕込んでいたナイフを投げる。
騎士が怯んだその瞬間、一気に飛び込んで間合いを詰めた。鳩尾に膝を叩き込み、その勢いのまま体の軸を回して、別の騎士を踵で蹴り飛ばす。
「貴様……!!」
たじろいだ騎士を、ラウルは冷めた目で真っ直ぐに見た。
「安心しろよ。殺しはしないでいてやるから」
「最期まで、舐めた真似を!」
「うーん。だから、台詞がいちいち安いんだよなあ」
別に侮辱のつもりはない。死体にするより気絶させておく方が、敵方の士気を削げるという話だ。
それに、ここで勝っては意味がないのである。
「っ、んん……!!」
ハリエットがこちらを呼んでいる、くぐもった声が聞こえていた。
教会の屋根には仲間がおり、ロープを引き上げているはずで、そこまで登りきってくれればなんとかなる。声の位置からして、残り数メートルというところだろう。
(単純にハリエットを逃すだけなら、事態はもっと簡単だ)
それこそ機会はいつでもあった。ファブラニアでも、ここまでの航路でも、ガルクハインで過ごした数日間にも。
(だが、それだけじゃあ意味がない。ここでハリエットが消えれば、ファブラニアは口封じのため、ハリエットに濡れ衣を着せてから捜索するだろうからな)
そうなれば逃げ道はない。シグウェル国に対しても、ハリエットがしたことの責任を取るように詰め寄ってくるだろう。
「頭首! 上窓に到着した、ここから抜けるぞ!」
「ああ。頼んだ」
「あなたたち! ハリエットを逃してはなりませ……ぐあっ!!」
投げたナイフが騎士の足に刺さり、失神させる。刃に塗られた痺れ薬は、薄めていない原液だ。
ラウルは会衆席に飛び乗ると、その背もたれを飛び石代わりにした。主身廊に飛び降りると、扉に背を向けて道を塞ぐ。
「あと十二人?」
「……っ、殺せ!!」
騎士たちが一斉に掛かってきた。
ひょいっと軽く身をかわし、五本のナイフを放射状に飛ばす。細身の刃が突き刺さり、騎士たちが音を立てて崩れ落ちた。
続いて瞬時に身を屈めると、床に手をつく。斬りかかってきた騎士の足を払えば、面白いくらいに引っ掛かった。卑劣な手段を使ってくるファブラニアの騎士でも、剣での戦いは正攻法らしい。
正々堂々とした勝負なんて、ラウルにとってはくだらないものだ。
(評価されるのは結果だけだ。過程がどうであれ、目的を果たした方が勝つ)
あっというまに数は減り、残りは三人の騎士だけになる。ラウルは笑い、短く息を吐いた。
「……あんたらの国に忍び込んだとき、贋金についての綿密な計画書を見つけてさあ」
「……なに……?」
「国王ウォルターの直筆で書かれてて、署名もきっちり残してあるんだ。さすがはウォルター陛下! 素晴らしい計画に惚れ惚れして、自分の手柄って記録しておきたくなったんだろうなあ」
「そ、そんなものが存在するはずはない!」
もちろん騎士の言う通りだった。いくら愚かな国王だって、わざわざそんなものは残さない。
けれど、存在しないのであれば作ればいいのだ。
ラウルはファブラニアの情報を集め、国王ウォルターの筆跡を覚えた。そうして計画書をでっち上げ、計画を始動させたのである。
「人間ってさ。面白くない真実よりも、面白そうな嘘の方が好きなんだよ」
「……貴様……」
「嘘をつくのが生業だから、そのあたりの心境には詳しくてね。面白そうな噂に、刺激的な後押しが加われば、それを事実として広めたがる連中は大勢いる」
ファブラニアの連中は、そのことをよく分かっているはずだ。ハリエットに罪を着せるにも、ガルクハインに汚名を被せるにも、民衆のそういった心理を使おうとしていたのだろうから。
「実態がないような噂でも、それを信じていることにして、真実であるかのように扱われることもあるんだよ。――だから、ここでひとつ」
ラウルは笑って、一本のナイフを取り出した。
「ファブラニアに敵対する人間の、死体を用意するとしよう」
「な……っ!?」
騎士たちが、信じられないものを見るような表情で絶句した。
「ウォルターの署名入りの、贋金計画書。それを盗んだと思われる、シグウェル国傭兵の変死体。……そんなものの存在が、ファブラニアで制御できないガルクハイン国民に知られたら、情勢はどんな風に動くかな?」
「ま、まさか……」
「そう! 噂は広まりに広まって、いずれ正式な国交に関わる。国際社会に疑われたとき、実際に贋金を作っていたファブラニアは、どうあっても逃れることは出来ないだろ」
ラウルが言うと、騎士たちはじりっと一歩後ずさった。
「正気ですか……!? まさかあなたは、そんなことのために」
「死ぬよ。それが一番手っ取り早くて、全体の損害も少ないし」
ラウルは手にしたナイフを翳し、ゆらゆらと遊ぶように揺らしてみせた。
「この刃には毒が塗られてて、そりゃもう苦しんで死ぬ猛毒だ。これで絶命した死体が出来れば、噂にはますます尾鰭がつくな」
「……やってみなさい。あなたがそれで自害しようと、死体を処分すればそれで済むこと」
「残念ながら、俺の部下が残って監視してる。俺が死んだらすぐさま騒ぎを起こして、民衆をここに呼び集めるって計画」
そうなれば、彼女たちはラウルの死体を隠すことはおろか、大勢の目撃者から逃れられない。
(――まあ、俺に出来るのはこの程度かな)
騎士たちの顔を見ながら、ラウルはふわりと微笑んだ。
(あのリーシェってお嬢さんにも、動けなくなる量の薬を盛った。……これで、ガルクハインは巻き込まれただけの被害者だって理論が成り立つだろ)
こうして迷惑を掛けることを、悪いと思わないでもないのである。
ラウルは苦笑した。このガルクハインという国には、恨みに近いものすらあったはずなのに。
(部下たちには、『ガルクハインの皇太子が追ってきたら、死なない程度の足止めをしろ』とも言ってあるし)
騎士を全員気絶させてしまっては、ラウルが彼女たちに殺されたという理屈が通らなくなる。ここにいる三人程度なら、たとえハリエットを追おうとしても、部下たちが完璧に撒くはずだ。
「付き合ってくれてどうも。……じゃあ、そろそろ終わらせるか」
ラウルはくるんとナイフを回すと、切先を自身の方へと向けた。
「待て!! 貴様、それ以上……」
「待たない。悪いけど、そこから一歩も動くなよ」
これで、せめてハリエットは守れるだろう。
こんなに幸せな気持ちで笑うのは、随分と久しぶりのことだ。掛かっていた雲が晴れたのか、ステンドグラスから光が差し込む。
その光に祝福され、自分の喉に刃を突き立てようとしたその瞬間、妙な気配を感じ取った。
「――……あ?」
ラウルはすぐさま顔を上げる。
視界に飛び込んで来るのは、天井いっぱいに描かれた女神の絵だ。だが、そんなものに目を奪われている暇はない。
教会の上窓に嵌められたステンドグラスが、ばりんと音を立てて砕けたからだ。
「な……」
ばらばらになったその破片が、瞬きながら砕け落ちる。
赤や青、色とりどりの結晶となり、陽光を受けてきらきらと瞬いた。そんな硝子の雨を避けるように、何かが飛び込んでくる。
「――っ!?」
靡いたのは、美しい珊瑚色の髪だった。
茶色のローブを纏った少女が、ドレスの裾をふわりと膨らませながら落ちてくる。
いいや、落下というよりも、舞い降りるかのような軽やかさだ。
そしてその腕には、体格に釣り合わない黒色の剣を抱えている。




