143 ガルクハインの不幸な花嫁
その小さな廃教会は、街の中央に大きな教会が建てられたことにより、人々の記憶から忘れ去られたかのようだった。
女神像が撤去され、がらんどうになった講堂の会衆席には、うっすらとした埃が積もっている。
ラウルは、その背凭れに腰掛けて、膝の上に頬杖をついた。
ファブラニアの女騎士たちはラウルに背を向け、お互いだけで準備を進めている。ラウルはその光景を眺めながら、のんびりとした口調で茶々を入れた。
「おたくら、ちょっと集まってくるのが遅いんじゃない?」
狙い通り、女騎士たちはラウルを睨んでくる。
「黙りなさい。あなたと違って、こちらは陛下のご命令を遵守せねばならないのです」
「ピリピリしてるなあ。ま、そりゃそうか」
ラウルは笑い、ちらりと後ろを振り返る。
「……ハリエットを上手く殺さないと、ガルクハインに罪をおっかぶせるのに不都合だし?」
講壇には、後ろ手に縛られたハリエットが、力なく項垂れるように座っていた。
騎士たちは不愉快そうに、ラウルのことをきつく睨んだままだ。
「言葉が過ぎますよ。あなたがどうしてもと頭を下げるから、計画の一員に加えてやったことを忘れないように」
「お言葉だな。そっちこそ、俺がカーティスの偽物だってことに気付かなかったくせに? 俺がファブラニアの味方だったから良かったものの、もしシグウェル国からハリエットを助けに来た立場だったら……」
「黙れ、と言ったはずです」
彼女たちにとっても、失態だったという自覚はあるらしい。ラウルは笑い、廃教会の中を見回した。
「なんでもいいけど、さっさとファブラニアの騎士全員ここに連れて来いよ」
ここにいるファブラニアの女騎士は、全部で二十人だ。
集まっていないのは、残り十人ほどだろうか。ラウルはこきりと首を回しつつ、冗談めかして言う。
「なにせ、ガルクハインの皇太子さまに喧嘩売ってきちゃったからな。俺がファブラニアに逃げ切るまで、おたくらに守ってもらわなきゃ困る」
「……ふん。卑怯者の、狩人風情が」
「その言い方はひどいだろ。ハリエット誘拐の功労者に向かってさ」
とはいえ勿論ラウルにも、細かいことを言うつもりはない。じとりとした視線を浴びながら、ラウルは椅子の背凭れから降りる。
そして、軽い足取りでハリエットに近付くと、彼女の前にしゃがみ込んだ。
「ハーリエット。泣いてんの?」
「……ラウル。どうして、こんなことを……」
ハリエットが震えながら顔を上げ、ラウルは意外に思う。
彼女は怯えてはいるものの、どうやら、涙を流して泣いていたわけではないらしい。
(驚いたな。こいつのことだから、絶対に青褪めて混乱して、泣き続けてるって決めつけてたけど……)
そう思いつつも、冷めた表情をハリエットに向ける。
「『どうして』はこっちの台詞だよ、ハリエット。お前、どうしてファブラニアを裏切るような真似をした?」
「……っ」
「ウォルター陛下から預かった金貨を、あのお嬢さんに渡しちゃったりしてさ。……あのお嬢さんなら、あれが贋金なのを見抜いて、助けてくれるかもしれないって期待したみたいだけど」
実際にあのリーシェという少女は、その事実を探り当ててしまったのだ。
あれには、さすがのラウルも驚いた。
「王女の癖に悪い子だ、ハリエット。そんなことしたら、ファブラニアに守ってもらえなくなって、シグウェル国が困るって分かってたよなあ」
「う、うう……っ」
「だってシグウェル国には、せいぜい造本技術しか得意なことがない。同盟国と助け合わなきゃいけなくて、同盟の代表であるファブラニアに睨まれたらお終いだ。……俺たち『狩人』は、あくまで金で雇われた傭兵集団で、お前たちに忠誠を誓った騎士でもないんだから」
ファブラニアの女騎士たちが、ラウルの言葉へ便乗するように、侮蔑の視線をハリエットに向ける。
一介の騎士ですら、王族であるはずのハリエットを見下しているのだ。
ファブラニアという国の王室が、シグウェル国のことをどれほど見下しているのか、騎士を見るだけでもはっきりと分かる。
その国へ花嫁修業に行き、不当な扱いを受けてきたであろうハリエットは、しばらく会わないうちに痩せていた。
ラウルは、蒼褪めたハリエットを眺めながら、ひどくつまらない気持ちで続ける。
「お前が気弱なのは分かるけど、ガルクハインを騙すなんて簡単だっただろ? 罪悪感を我慢して、適当に買い物でもしとけばよかったんだよ。たったそれだけで、お前はファブラニアの王妃として、きっと認めてもらえたんだぜ?」
「……っ」
ハリエットが息を詰めた気配がする。
そして彼女は、ふるふると首を横に振った。
「つ……使わない」
「……」
彼女は、何かを覚悟したように、拙くともゆっくりと話し始める。
「偽の金貨を使えば、私の『欲しかったもの』が手に入るって分かってた。きっと、ウォルター陛下に、よくやったと褒めていただける。『利用価値がある』って、そう思っていただける……でも、それは駄目」
震える声が、怯えながらも紡ぐ。
「買い物なんか、出来ない。……偽の金貨は、一枚でも市場に出てしまったら、終わりだもの」
「……へえ?」
「それだけで……その国に流通する全部の金貨が、信じられなくなっちゃう。たった一枚でも、金貨の信用が失われて、経済が駄目になって……」
ラウルは口を噤み、ハリエットの小さなつむじを見下ろした。
「り……リーシェさまに、助けてもらいたくて、あの金貨をお渡ししたんじゃない。だって、私なんか、助けていただく資格ない……!」
そしてハリエットは、覚悟を決めたように、拙くとも紡いでゆく。
「そんな私を、リーシェさまは、お友達だと言って下さったの」
「……」
あの少女であれば、確かに言いそうな言葉だった。
人を見る目はありそうなのに、人を疑うことを知らなさそうな、矛盾した性質を持ち合わせた少女なのだ。
出会ってほんの数日だが、観察していればすぐに分かる。
「ファブラニアのことは、絶対に、ガルクハインに伝えないと。……作ろうとしているのは、ガルクハインの金貨だけじゃない。他にも、たくさん」
(……知ってるよ)
あの国が目論んでいることくらい、ラウルだっておおよそ把握している。
「それでもお前さえ黙っていれば、ファブラニアは贋金で豊かになって、シグウェル国も恩恵にあやかれた」
「そんなわけないって、たくさんの本に書いてある……! 他の国に迷惑をかけて手に入れた豊かさなんて、すぐさま消えてしまう……その苦しみを最初に背負わされるのは、国民たちで」
震える声が、それでもはっきりと言う。
「ガルクハインに迷惑を掛けないためにも、無辜の国民を守るためにも。私は、ファブラニアには、従えない……」
ファブラニアの女騎士たちが、ハリエットを忌々しげに睨みつける。
ハリエットの肩がびくりと跳ねた。だが、オリーブ色をした彼女の瞳は、真っ直ぐにラウルを見上げている。
「王女に生まれたんだから、思い通りに生きられる訳はないって、分かってるの。だけど」
勇気を振り絞るような声が、はっきりと言った。
「罪のない国民を苦しめるようなことだけは、たとえ殺されても、しないって決めた……!!」
怯えてばかりだったはずのハリエットが、いつのまにそんな決断をしたのだろう。
考えてみたけれど、きっかけとなった存在は明白だ。
ハリエットに自信を与え、誇りを取り戻させ、前を向かせた少女の存在が脳裏に浮かぶ。
「……考え無しの、馬鹿なお姫さま」
ラウルは、心の底から溜め息をついた。
ここにいるハリエットは、丘の上にある城で起きていることを知らない。
あのリーシェという少女が、すぐさま贋金について見抜いたことや、ハリエットを救いたいと言っていたことを。
そして、ラウルが彼女に痺れ薬を飲ませたこともだ。
自嘲めいた気持ちになりながら、意地悪くハリエットに問い掛けた。
「その結果、いまの状況はどうなってる?」
「……っ」
「ファブラニアの騎士たちに事が知れて、計画はお前の殺害に変更された。――それが遂行されれば、お前を死なせたガルクハインは、ファブラニアやいろんな国から糾弾されるだろうな」
もちろん、状況をきちんと見定めようとする国だってあるだろう。
しかし、この出来事は間違いなく、ガルクハインの汚点となる。
国内で他国の王族が殺されたあとに、皇太子夫妻の婚儀なんて行えるはずもない。
彼らの婚姻は延期となり、賓客も守れなかった国として、各国は噂を交わすはずだ。
その未来を想像しながらも、ラウルはぼんやりと思い出した。
『いつだって嘘を吐き続けろ』
幼かったころ、ラウルは何度もこう言い聞かせられたのだ。
『いまのうちに、自分自身の望みや希望なんか捨てておけ。……いいな、ラウル』
白髪の老人は、狩人集団の先代頭首を務めていた人物だった。
『自分の心は邪魔になる。真実の感情は足を鈍らせる。完璧な影に化けるには、そうやって嘘を飼い慣らすことだ』
『うん。分かってるよ、爺さん』
それをきちんと理解していたから、ラウルは素直に頷いた。
なにしろ老人に拾われるまで、自分ひとりで生きてきたのだ。
ラウルの一番古い記憶といえば、路地の隅で亡くなった母親の、汚れた指先を見つめていた夜のことである。
それ以来、生きるために必死で覚えたのは、大人を観察することだった。
食べるものや小銭を乞おうとしても、見込みのない相手にねだっては意味がない。
だからラウルはじっとして、道行く人々のことを眺めたのだ。
彼らの懐に余裕はあるか。
いまはどういう気分でいるか。
どのような振る舞いが好きそうで、何をすればラウルを救ってくれるか。
毎日それを調べながら、様々な振る舞いを試行錯誤した。
そうすると、色んなことが分かってくる。
その大人が欲しいものや、願いそうなこと。どんな媚び方に弱くて、何をすれば断れないのか。
(嬉しくなくても笑え。悲しくなくても、涙を流して泣きじゃくれ)
幼いラウルは、自分に言い聞かせ続けていたのだ。
(……そうやって嘘をついてれば、とりあえず明日もパンが食える……)
きっと、そんな生き方が性に合っていたのだろう。
あるとき出会った先代頭首は、ラウルの嘘を見抜いた上に、引き取って自分が育ててやると言った。
代わりに、狩人としての技術を身につけて後を継げと、そんな風に命じられたのだ。
『ありがとう。俺のこと、気に入ってくれて嬉しい。俺、精一杯頑張るから』
ラウルはそう言って、先代頭首に笑顔を見せた。
けれども別に、本当は、まったく嬉しくなんてなかったのだ。
(これからは嘘をついて、笑って爺さんについていけば、毎日飯が食えるんだ。……ああ、本当によかった……)
あのときの安堵を、ラウルはいまでも覚えている。
嘘をつき、自分を偽り、気に入られるように振る舞っていれば飢えることがない。
重要なのはそれだけだったから、先代頭首の元に行ってからも、言われるがままに鍛錬をこなした。
褒められたら嬉しそうなふりをし、叱られたら反省したふりをする。
大人のことを必死に観察し続けてきたお陰で、護衛対象そっくりに振る舞う『身代わり』も、どんどん上達していった。
(でも)
背丈が伸びていくにつれ、時々ふっと疑問がよぎるのだ。
(……俺って、どういうことを嬉しいって感じるんだっけ……?)
それがよく分からなくなってきたころ、ラウルはとある国で、王女の護衛をすることになった。
期間にすれば一年ほどに過ぎない、ほんのひとときの短い間だ。
ラウルはそのとき十一歳ほどで、あの姫は確か、十六になったばかりだったと思う。
『ラウル。ラウルはどんなことを幸せだって感じる?』
屈託なく笑い、そんな風に問い掛けて来る王女を、ラウルは煩わしく思っていた。
(幸せなんて、『影』である狩人に必要ない)
『それと、どんなものが好きかしら? ラウルが食べたいものを、料理人に言って作らせたいの』
(好きなものだっていらない。……そんなものを自覚したら、嫌いなものまで自覚しちゃうだろ)
『ね、ラウル? 私、もうすぐ政略結婚で他国へお嫁に行くのよ。この国であなたたちと過ごせるのも、ほんのちょっとの期間なの』
金色の髪をなびかせた王女は、その髪を耳にかきあげながら、寂しげに微笑んだ。
『それまでに、あなたの本当の笑顔が見られるといいのだけれど』
『……お優しい姫さま。あなたはどうして、俺なんかにそんなことを望むんですか?』
へらへらと笑いながら尋ねれば、彼女はラウルの頭を撫でた。
『それはね。嫁ぎ先で、少しでも幸せでいたいから』
『……?』
『私が政略結婚をしたことで、この国のラウルみたいな子供たちが、幸せになれたって信じていたいから』
彼女の微笑みには、ほんの少しの翳りがあったように思う。
『そう信じていられれば、私はきっと、嫁ぎ先でも幸せを感じていられるはずなの』
あのときのラウルは、王女がどうしてそんなことを言うのか、まったく分からなかったのだ。
観察していても正体が分からないなんて、その王女が初めてだった。
そのことが、最初は嫌で仕方がなかった。それなのに、やがて「知りたい」と思うようにもなったのである。
随分と久し振りに実感した、『自分自身の感情』だ。
誰かに気に入られるためでもなく、誰かのふりをするために抱いたのでもない、そんな純粋な気持ちだった。
だから必死に観察した。彼女の傍にいるため、護衛を外されたりしないよう、狩人としての鍛錬をそれまで以上に行いながら。
彼女の願ってくれていた、『ラウルの本当の笑顔を見せること』だなんて、まったく眼中になかったのだ。
(俺が笑うかどうかなんて、あの人の幸せに関係ないだろ?)
だが、主君を幸せにしたいというそんな願いも、大それたことだと理解していた。
(あの人を幸せにするのは、あの人の夫になる男だ。……だから、あの人が嫁いで行く日まで、命をかけて守らないと)
そして一年後、彼女は嫁いで行ったのである。
嫁ぎ先は大国で、王女との婚姻を望んできたのは、相手国の皇帝だと聞いていた。
望まれて花嫁になったのであれば、きっと幸せになれるのだろう。
たとえ政略結婚であろうと、彼女が望んだ通りにきっと笑っていられる。
そんな風に、信じていたのだ。
けれど、そんな考えは甘かったのだと、ラウルはすぐさま思い知ることになる。
『――あの方が、自ら命を絶たれたらしい』
頭首から訃報を聴いたのは、それからたった一年後のことだった。
『狩人のひとりに探らせた。相手国からは病だと知らされていたが、それは偽りだ』
『どうして自害など。ひょっとしたら、死産でお生まれになったという御子のことで、お心を痛めた末に……?』
『いいや、ご出産前からひどく痩せほそり、弱っていらしたという情報もある。嫁ぎ先で何か辛い思いを……』
頭首を含めた狩人たちは、ひそひそと互いに囁き合う。
聴覚に優れたラウルの耳は、すべてを余さず拾っていた。
『この国が攻め込まれずに済んだのは、あの方が政略結婚をし、すべての不幸を背負って下さったからだぞ』
『……』
どうやら王女が嫁いだのは、人質に選ばれたからだったらしい。
望まれて花嫁になっただなんて、そんな幸福な話ではなかった。
だからこそ彼女は、嫁ぎ先で気丈に振る舞うための希望として、ささやかな願いを集めていたのだろう。
『おいたわしい。……きっと、あの方にとっては、死よりも辛い環境だったのだろうな』
頭首はぽつりと口にした。
『――嫁ぎ先の、ガルクハインという国は』




