139 解かれた口紐
それからのリーシェは、狼狽するエルゼを宥めたあと、早速オリヴァーに動いてもらった。
これから行うことは、当然アルノルトに黙っているわけにはいかないことだ。
しかし、アルノルトが『集中して公務を行う』と言っていた以上、その邪魔はしたくない。それに、下手にアルノルトの耳に入れてしまうと、却って彼に迷惑をかける可能性もある。
その『迷惑』について、従者であるオリヴァーは承知してくれているはずだ。
最後まで隠し通すのではなく、上手く行ってからアルノルトに報告をする方針のまま、いくつかの準備をする。
そして朝食後、リーシェはハリエットではなく、別の人間を訪ねていた。
オリヴァーも同席してくれて、彼はリーシェの後ろに立つ。
テーブルを挟んで向かい合うのは、カーティスに扮したラウルだ。
事前に話を通した所為か、見張りの騎士などは立っていない。
それどころか侍従をも連れていないらしく、ラウルは自らの手元でお茶を淹れ、リーシェの方に押し出した。
「どーぞ」
「……ありがとう」
「珍しい色の茶だろ? 俺が育った国で飲まれてたものだ」
翡翠のような緑色をしたお茶は、独特の芳しい香りがある。
狩人人生でも、ラウルはこのお茶を好んでおり、たびたびリーシェたちに振る舞ってくれた。
「そっちの銀髪の従者さんは? あんたも飲む?」
「いいえ、結構です」
オリヴァーはやんわりと辞退するが、その声音はどこか固いものがある。
この『カーティス』が偽物であることを、アルノルトから聞いているのだろう。
恐らくは、リーシェがそのことに気付いていながら、アルノルトに報告していなかったことも知っているはずだ。
「それじゃ、本題に入ろうか」
ラウルはティーカップを手に取って、それを一口飲んでから切り出した。
リーシェもカップに口を付け、久しぶりの苦味を味わう。ゆっくりとソーサーにカップを戻し、改めてラウルの目を見た。
「まずはお礼から。……ハリエットさまのお部屋の周囲に、シグウェル国の騎士を手配してくれてありがとう」
「『話をしたいから時間を作れ』っていう伝言のあと、『ハリエットを部屋に閉じ込めて護衛を増やせ』だもんな。ハリエット本人はともかく、侍女長とファブラニアの騎士を黙らせるのが大変だった」
ラウルが大袈裟に肩を竦める。
そのことは申し訳なく思いつつも、リーシェは一呼吸置いて口を開いた。
「あなたがこの国に来た目的に、協力したいの」
「……目的もなにも」
ラウルはにやりと笑い、椅子の背凭れに体を預ける。
「ご覧の通り、カーティスの影としてやってきた。あいついま、ちょっと体調崩しててさ。ガルクハイン皇太子夫妻の婚礼祝いに、うちの王太子が出ないなんて出来ないだろ?」
「それは嘘。アルノルト殿下が仰っていた通り、あなたの行動はシグウェル王室の意思に反しているはずだわ」
正しくは、了承を得ていないと言うべきだろう。
ラウルの思考は分かっている。シグウェル王家に許されそうもないことならば、そもそも最初から許可を求めたりしない。
黙って国を抜け出して、黙って行動しているはずだ。
「王室の指示でカーティス殿下を名乗るなら、あなたは最後まで徹底したはず。素の姿で私の前に現れたり、自分の名前を明かしたりしないでしょう?」
「いやいや、あれはしょうがないだろ。『カーティス』としてあんたの前に立ったとき、見抜かれてるってすぐに分かった。あんたに隠しても仕方ない」
「それも嘘。私は、あなたが偽物だと気付いていないように振る舞ったわ。それを利用するのではなく、開き直って会いに来るなんて、どう考えても不自然なの」
どうしてそんな行動を取ったのか、リーシェにはずっと不思議だった。
だが、いまなら分かる。
「随分と、俺のことを買ってくれているんだな」
(……当然だわ)
狩人として傍にいたリーシェは、ラウルがどれほど『影』として優秀なのかを知っている。
本来のラウルであれば、本物のカーティスがしないようなことは、間違ってもしない。
「王室の指示であれば、アルノルト殿下に対して無礼なことなんかするはずもないわ。……ハリエットさまからお聞きしたカーティス殿下は、そんなことをなさるようなお方ではなさそうだもの。それなのに、何故あなたはわざと私を口説くようなふりをしたり、近付いて来るのかが不思議だった」
そう言うと、ラウルがくすりと小さく笑う。
「そんなのは、あんたが可愛いからだよ」
「……それも嘘だわ」
げんなりしつつ、楽しそうに細められた赤色の瞳を見据える。
「あなたがここに来ている理由は、ハリエットさまをファブラニアから救い出すためね?」
「――……」
ラウルが、緩やかな瞬きをひとつ刻んだ。
「ハリエットさまは、男性との接近を厳しく制限されているわ。たとえ護衛であろうとも、男性はハリエットさまに近付けない。――いいえ、女性の姿に変装しようとも、ファブラニアの護衛騎士は離れてくれないでしょうね」
事実、昨日のリーシェもそうだった。護衛なしでハリエットに会っていることを咎められ、女性騎士たちに睨まれてしまったのだ。
「ハリエットさまとふたりきりになるのであれば、ハリエットさまのお身内である、カーティス殿下のお姿を取るのが最善だわ」
「……なるほど、そんな風に考えたのか。あんたやアルノルト・ハインに対し、カーティスのふりを徹底しなかったのは、俺の騙したい相手がファブラニアだったからだろうって?」
「いいえ。……あなたはきっと、私たちが最後まで気付かなかった場合、自ら正体を明かそうとしていたのでしょう?」
そう告げると、ラウルが僅かに驚いたような表情をする。
「あなたの振る舞いは危険すぎるわ。カーティス殿下としてハリエットさまを逃がすのは、ファブラニアに対しての国家的な裏切りになる。シグウェル王家のために動くのであれば、あなたは最後の最後には、『カーティス殿下の偽物だった』と明かさなくてはならない」
リーシェの前に姿を見せたのは、彼の気まぐれや、リーシェを口説くためなどという目的ではない。
恐らく、『あれは王子カーティスではなかった』ということを、ガルクハイン皇太子妃に証明させるためなのだ。
カーティスとは違う瞳の色を、ハリエットのように前髪で隠すことすらしていないのは、その瞳が重要な証拠となるからだろう。
しかしラウルは、やっぱり軽薄な笑いを浮かべる。
「そもそも、どうして俺がハリエットを救うんだ」
首を傾げ、ひょいと片手を上げてこう続けた。
「ファブラニア国王に認められず、不遇な扱いを受けているから? いやいや、それぐらいはよくあることだろ。政略結婚で幸せになれる妃なんていないし、そういうもんだってハリエットも分かってる」
そして目を細め、皮肉っぽい口振りで告げるのだ。
「わざわざ俺が救う必要なんて、何処にもない」
「……」
リーシェはゆっくりと口を開く。
「ハリエットさまが、ただ婚約者さまと上手くいっていないだけならば、そうかもしれないわね」
「……ふうん?」
「ゆうべ、ハリエットさまにお使いいただいた私のバッグに、こんなものが入っていたの」
麻袋の口を緩め、中身が見えるようにして、テーブルの上に置いた。
ラウルはそれに視線を注ぎながら、表情を変えずに尋ねてくる。
「状況から、これをバッグに入れたのはハリエットさまだわ」
「なるほどね。ひょっとして、ハリエットがあんたに泥棒の汚名でも着せようとしたって話?」
「汚名を着せるだなんて、そんなわけがないわ。だって、こんなものにそれほどの価値はないもの」
リーシェは手を伸ばし、麻袋から金貨を一枚取り出す。
その金貨は、流通による擦れや傷などの跡もなく、つやつやと鏡のように光っていた。
「……侍女長さまからお聞きしたわ。ハリエットさまがお持ちのガルクハイン金貨は、ファブラニアの国王陛下が用意し、『ガルクハインで存分に買い物をしてくるよう』ハリエットさまに仰ったのだと」
それだけ聞けば、婚約者が望む限りの贅沢をさせようとしている男性の言葉にも聞こえる。
だが、実際はそうではない。
「であればこの金貨は、ガルクハインでなく、海を渡ったファブラニア国で流通していたものになるわよね?」
「まあ、だとしても何もおかしくはないさ。この街の港にだって、外貨を扱う両替所はあるだろ? ファブラニアにも、ガルクハインからの旅人や商人が金貨を使って、それが流通しているはずで……」
ラウルが話すのをぴたりと止めた。
「そう。ガルクハインで使用され、やがて他国にも渡り、その末に集められた金貨ならなにも不思議ではないの」
「……」
「けれど、ここにある金貨はとても綺麗だわ。まるで造られたばかりの金貨のよう。……出来立ての貨幣だなんて、国内にもそれほど数はないのに」
ラウルに向けて、リーシェは金貨を差し出した。
「どうして、ファブラニアから来たはずの金貨が、流通の痕跡もなく新品同様のものばかりなのかしら」
「……その聞き方は、人が悪いな」
受け取ったラウルが、それを目の前に翳して目を眇める。
「ファブラニアで造られた贋金だって、あんたはとっくに気付いてる癖に」




