138 それは奥底に隠された
アルノルトの背中にしがみついて、リーシェはなんとか口を開く。
「あまりにも、欲がなさすぎます」
そうすると、アルノルトはふっと自嘲めいた笑みを溢す。
「お前のことを、無理やり娶った人間に対して言うことではないな」
彼はやはり、この結婚をそんな風に思っているのだろう。
それが不服で仕方なく、子犬が唸るような気持ちで抗議をする。
「……この結婚をお受けしたのは、最後には間違いなく私の意思ですよ」
だが、アルノルトは分かってくれないのだ。「それは違う」と言いたげな手が、リーシェの頭を緩やかに撫でる。
「あそこでお前が頷かなくても、俺はお前を手に入れていた」
腕の中に閉じ込められたまま、リーシェは耳を傾けた。
「どんな手段を使っても。……お前が、どれほど拒もうともだ」
「……っ」
眉根を寄せると、身じろいでアルノルトから体を離そうとした。
しかし、それは許してもらえない。アルノルトはリーシェを抱き込んだまま、ぽすんと横向きに寝台へ倒れる。
ふたりで寝転ぶような体勢で、少しだけ腕の力が緩められた。
リーシェは顔を上げ、アルノルトを間近に見据える。
「……夫婦喧嘩は続行です」
「へえ?」
「アルノルト殿下が、分からずやなので」
不服をめいっぱい込めてそう告げると、アルノルトはふっと小さく笑った。
「いくらでも」
リーシェの頬に掛かった横髪を、耳へ掛けるように指が梳く。
くすぐったくて身を竦めると、あやすような声で告げられた。
「お前が望む限り、付き合おう」
「……」
やはり、本当の喧嘩にすらしてもらえないのだ。
そのことが不満で仕方ないはずなのに、どこかやさしいまなざしを向けられると何も言えなくなってしまう。
「だが、もう目を閉じろ」
改めて抱き込まれた後に、ぽんぽんと背中を撫でられた。
「起こしてしまって悪かった。……夫婦喧嘩とやらの続きは、明日してやる」
「……」
思うに夫婦喧嘩とは、そういうものではないような気がする。
けれども口には出さないまま、悔し紛れにくっついて、ぎゅうっと目を閉じた。
上手な夫婦喧嘩というものは、とても難しい。
そう感じつつ、どうすればアルノルトに分かってもらえるのかを考えているうちに、リーシェは再び眠りへ落ちたのだった。
***
翌朝、リーシェが目を覚ますと、アルノルトは部屋にいなかった。
「……」
寝台に座ったリーシェは、それを確かめながらぼんやりと瞬きをする。
のそのそと寝台から降り、いつもの倍くらい時間を掛けて身支度をした。
ドレスを着替えたあと、サイドテーブルに目をやれば、そこには数枚の書類が置かれている。
アルノルトに頼んでいた、両替所のとある記録だ。
リーシェはそれを手に取り、目を通したあとに、ふうっと小さく息を吐く。
(アルノルト殿下に、お礼をしなきゃ……)
そんなことを考えていると、部屋にノックの音が響いた。
リーシェとアルノルトがこの部屋を使っていることは、あとひとりしか知らないはずだ。扉を開けると案の定、そこにはオリヴァーが立っている。
「おはようございます、リーシェさま」
「オリヴァーさま。アルノルト殿下でしたら、すでにお部屋を出られているようで……」
「はい。実は、我が君に執務室を追い出されまして」
不思議に思って首を傾げると、オリヴァーは爽やかな苦笑を浮かべた。
「おひとりで集中して公務をなさりたいときは、よくあることなのです。他人の気配があると、それだけで煩わしく感じられるようで」
「まあ」
「手持ち無沙汰ですので、リーシェさまのお手伝いでも出来たらと。侍女を呼べない中で、何かお困りのことはございますか?」
リーシェがアルノルトと寝ているのも、すべては幽霊が怖い所為だ。
侍女たちに気付かれたくないため、この部屋にいることすら内緒にしているから、オリヴァーはそれを気遣ってくれているのだろう。
一度は遠慮しようとしたものの、リーシェはふと思い出した。
「では、オリヴァーさま。よろしければ、荷運びにご協力いただけないでしょうか」
昨日の夜、ハリエットに試着してもらったドレスやバッグは、ひとまず衣装部屋へと山積みにしておいた。
ドレスを軽く洗濯するために、洗い場まで運んでしまいたい。それなりに重さがあるものなので、男手はとても助かる。
「喜んで拝命いたしましょう。ご朝食も準備を進めておりますので」
「ありがとうございます。では、お願いします」
オリヴァーと一緒に部屋を出て、一階にある衣装部屋へと降りていく。
すると、途中でぱたぱたと軽い足音が聞こえてきた。
「リーシェさま……!」
「どうしたの? エルゼ」
階下から上がってきたエルゼが、リーシェを見付けて泣きそうな顔をする。
「あ、朝早くに申し訳ありません。リーシェさまに、ご報告が……!!」
「顔色が悪いわ。大丈夫、ゆっくりでいいから」
階段の途中で浅い息をついているエルゼに駆け寄り、そっと促した。
エルゼは肩で呼吸をしながら、手にしていた麻袋をリーシェに差し出してくる。彼女の小さな両手で包めるほどの、小さな袋だ。
「衣装部屋で、昨日のバッグを整理していたのです。そ、そうしたら、これを見付けて……」
「これは……」
麻袋は紐が緩んでおり、開いた口から中が見える。
その輝きに、リーシェは思わず目を瞠った。
「ガルクハイン金貨……?」
袋に詰め込まれている黄金は、鷲の意匠が施された金貨だ。
そして麻袋の真ん中には、ファブラニアの国章が刺繍されている。誰がどう見ても、これがリーシェの持ち物だとは思わないだろう。
(こんなものが、私のバッグに入っている理由は……)
リーシェの中で、瞬時に状況が整理されていった。
これは間違いなく、ハリエットの持ち物だ。恐らくはファブラニア国王に持たされたという、ガルクハインの金貨だろう。
リーシェのバッグに入ったタイミングは、昨日のハリエットの部屋に違いない。
問題はこれが、どうしてバッグに入ってしまったかだ。
(お部屋から出るときに急いだ所為で、偶然紛れ込んでしまった? ……有り得ないわね)
バッグをまとめて置いていたのは、部屋にある長椅子の上である。金貨がいっぱいに詰まった袋を、ハリエットが投げ出していたとは考えにくい。
「エルゼ。この袋はどのバッグに入っていたか、思い出せる?」
「はい。持ち手が細い鎖になっている、赤色の……」
昨夜の記憶を揺り起こし、ハリエットの部屋を頭に描く。
赤色のバッグは長椅子の中央、他のバッグとぎゅうぎゅうに並んで置かれていたはずだ。
(……あのとき)
ファブラニアの女性騎士たちがやってきて、リーシェはすぐに部屋を出ることになった。
その際、長椅子の中央にあったバッグをまとめてくれたのは、エルゼではなくハリエットだ。
(ハリエットさまが、私のバッグに金貨の袋を入れた――……)
それに気付き、心底自分の未熟さを恥じる。
騎士たちの動きを警戒して、ハリエットに気を配ることが出来なかった。しかし、ハリエットのやったことが分かっても、その理由までは不可解なままだ。
「どうしましょう、リーシェさま……」
青褪めたエルゼが、彼女の懸念であろう事項を口にする。
「これでは、ハリエットさまから、金貨を盗んだと誤解されてしまいそうです……!」
「……」
そうなれば、重大な国際問題に発展するのは間違いない。
「――リーシェさま」
これまで静観していたオリヴァーが、いつもの微笑みを消してリーシェを呼んだ。
「どうか、仔細をお聞かせいただけますか?」
「……オリヴァーさま」
普段は穏やかなオリヴァーが、ぴりっと張り詰めた空気を纏う。
その雰囲気からは、静かな殺気が感じられる。オリヴァーは十年前、負傷によって騎士の道を断たれたと聞いているが、怪我の前は本当に優れた剣士だったのだろう。
オリヴァーに話したことは、すべてがアルノルトの耳に入る。だからこそ、慎重に言葉を選ばなくてはならない。
手元に視線を落としたとき、リーシェははっとした。
(……まさか)
麻袋を開き、新品らしき金貨を一枚手に取ってみる。
ガルクハイン国章の彫られた表面は、鏡のように輝いていた。
(これが、私やエルゼが疑われるような行動を、ハリエットさまが取られた理由……)
そこに映り込んだリーシェの瞳が、リーシェ自身を見据えている。
(ハリエットさま)
脳裏に浮かべたのは、アルノルトに調べてもらった両替所の情報だ。過去の人生で起きたことと照らし合わせ、ひとつの結論に辿り着いた。
(――だからあなたは、未来で処刑されたのですね)
リーシェは短く息を吐く。
「ごめんなさい、オリヴァーさま」
そして、オリヴァーを真っ直ぐに見上げた。
「状況は後ほどお話します。けれどもまずは、お願いしたいことが」
「……?」




