137 彼の望んだもの
すぐ傍で、アルノルトが息を呑んだ気配がする。
手首を離してくれたお陰で、こうしてアルノルトを抱き締めることが出来た。
リーシェは左手をアルノルトの背に、右手を彼の頭に回して、その黒髪を柔らかく撫でる。
「怖い夢を、ご覧になったのですか?」
「……」
我ながら、幼子にするような問い掛けだ。
けれども確信めいた予感のお陰で、どうしてもこうせずにいられなかった。
不躾でも、勇気のいる行いであろうとも、アルノルトを抱き締めたかったのだ。
この問いは、アルノルトによって否定されるだろう。
そう覚悟していたはずなのに、リーシェにされるがままのアルノルトは、視線を少し下に落としてから返事をする。
「――……昔の夢だ」
アルノルトの手が、リーシェの背へと回された。
「お前のお陰で、すべてが消えた」
抱き返すほどの力でなく、ほとんど添えているだけの触れ方だ。
しかし、こうしているのを許されたような気持ちになって、リーシェは腕の力を強くした。
「……ごめんなさい、殿下」
左手はぎゅうぎゅうとアルノルトを抱き締めながら、右手はそうっと後ろ頭を撫で続ける。
「私が傍に居て、眠りにくかったからですよね」
するとアルノルトは、短く息を吐き出して言う。
「これは別段、珍しいことではない」
そのあとで、やさしい声音が教えてくれた。
「だから、お前の所為でもない」
「……」
その言葉に、先日のことを思い出す。
大神殿を訪れ、そこで負傷をした際に、リーシェはアルノルトと同じ寝台で一緒に眠ったのだ。
そのあとで、妙な夢を見なかったと告げられた。
(アルノルト殿下にとっての、恐ろしい『昔の夢』)
彼に語られた過去を思い、リーシェは胸が締め付けられる。
(たくさんのご兄弟が、殿下の前で殺められたこと?)
想像するだけでも痛ましい光景を、アルノルトは実際に目にしている。
(それとも、殿下を憎んでいらしたという、母君のこと……)
首の傷は、アルノルトが幼い頃に負ったものだ。リーシェが知っている以外にも、きっとたくさんの過去があるのだろう。
(けれど、そこに私が触れることは出来ない)
室内には、穏やかな波の音が響いている。
まったく無音の部屋よりも、この方が一層静かなように思えた。
リーシェはするりと身を離し、アルノルトのことを見つめる。
無表情に近いアルノルトの瞳が、リーシェのことを真っ直ぐに見下ろした。
いつもより茫洋としているその目には、たくさんの想いが宿っているようにも、ひどく空っぽなようにも見える。
底が知れない青色の双眸は、窓から差し込む月光を受けて、淡く透き通っているのだった。
その青を見上げながら、リーシェは口を開く。
「――……海」
先ほどまでと同じように、アルノルトの頭をそうっと撫でた。
「いっぱい遊んで、楽しかったですね」
「……」
脈絡の感じられない話であると、彼には不可解に映ったかもしれない。
(いまの私に出来ることなんか、本当に少ない)
アルノルトの『夢』を知ることはもちろん、そこに踏み込むことだって、その資格たるものを持ち合わせていないのだ。
それでもせめて、アルノルトの手を取って、その夢から遠いところに歩いて行きたかった。
(アルノルト殿下にとって、忌むべき記憶が消えないなら)
少しでもいいから、異なる感情で掻き消したい。
これから先に見る夢が、ひとつでも恐ろしくないものになればいい。
昼間の海辺をよすがにして、リーシェは彼にそう願う。
すると、表情を変えないままのアルノルトが、ぽつりと口を開いた。
「……あの浜の存在を、思い出したとき」
リーシェが首を傾げると、無表情のアルノルトがこう告げる。
「お前が好むかもしれないと、そう浮かんだ」
「……!」
リーシェは思わず瞬きをした。
「俺にとっては、ただの景色だが」
アルノルトの声音は淡々としている。
なんでもないことを紡ぐように、それでいてはっきりと、思いを口にしてくれるのだ。
「お前であれば、きっとあの海を美しいと言うのだろうと、そう感じたんだ」
「……アルノルト殿下……」
「たとえ、俺自身には分からなくとも」
アルノルトの手が、リーシェの頬をするりと撫でた。
「……『お前が喜ぶもの』という見方であれば、少しは理解できたような気がした」
信じがたいことが起きたような気持ちになって、リーシェはひとつ、瞬きをする。
「お前が行きたいと言っていた、ただそれだけが理由ではない」
昼間に尋ねたことの答えを、月光の中で告げられた。
「俺が、お前に見せたいと感じたから、あの海にお前を連れ出したんだ」
「……っ」
アルノルトは以前、言っていたのである。
リーシェが尊ぶものを、同じように感じることは出来ないと。
蛍火は戦火に見え、皇都の景色は忌々しいものに感じられると、そう話してくれた。
そんな彼が、リーシェに海を見せようと、そう思ってくれたのなら。
「――連れて行っていただけて、嬉しかったです」
思わず震えそうになる声で、彼に向けてひとつずつ告げてゆく。
「本当に、とても、ものすごく」
伝えられる言葉が見つからないのに、差し出したくて必死に探した。
それでも結局は伝え切れず、拙い言葉を繰り返すだけだ。
「……いまも、泣きたいくらいに嬉しい……」
「……」
向かい合って見上げるアルノルトを、もう一度抱き締めたくて仕方なかった。
けれどもそれは阻まれる。
彼に腕を回す前に、アルノルトがリーシェのことを抱き寄せて、腕の中に閉じ込めたからだ。
「アルノルト殿下」
リーシェはもちろん驚くものの、彼を押し退けるようなことはしない。
すると、アルノルトはぐっと腕に力を入れたあとに俯いて、リーシェの耳元でこんなことを言った。
「……意に沿わず押し倒されたり、抱き締められたりしたときは、もう少し抵抗するものだ」
「……」
むしろ負けじと抱き締め返して、アルノルトの背中に腕を回す。
「殿下がご無体をなさるはずはないと、私は信じていますから」
すると、アルノルトからは自嘲めいた笑みが溢れた。
「やはり、どこまでも俺を信じようとするんだな」
「もちろんですよ。……『形のないものの実体を信じられる人間などいない』と、あなたは、そんな風に仰っていたけれど」
リーシェはやはり、そう思わない。
「私は幽霊が怖いのです。たとえ形が無くとも、その存在を信じているし、だからこそ本気で怯えもする」
アルノルトにだけは打ち明けられる弱みを、恥ずかしいけれども口にした。
それから、と続ける。
「先日のドマナ聖王国で目にしたように、クルシェード教に属する人々にとっても、その信仰は揺るぎ無いものでしょう?」
「……」
クルシェード教が崇める存在、女神の血を引くとされるアルノルトは、何かを考えるように沈黙した。
「そして、あなたが私に『海を見せたい』と思ってくださった御心は、形が無くとも確かなものです」
あやすようにその頭を撫でながら、彼にそうっと言葉を継ぐ。
「私はそのお気持ちを信じていますよ。……そして、だからこそ何度でもお伝えします。あなたの望みを、私だって叶えて差し上げたいのだと」
そんな誓いを立てるだけで、相手の支えになれることもある。
ハリエットの教えてくれたことを、リーシェは真っ直ぐにアルノルトへ告げた。
「そうすれば、いつかは信じて下さいますか?」
「……お前のことをか?」
「いいえ」
リーシェのことを信じてくれなくても、構わない。
そんなことよりもリーシェには、アルノルトに分かっていてほしいことがある。
「アルノルト殿下ご自身が、誰かに何かを願っても良いのだということをです」
「――……」
アルノルトは小さく息を吐く。
そして、リーシェに回した腕の力を、ほんの少しだけ強くした。
「……誰かに何かを願ったことなんて、一度もなかった」
耳元で紡がれる彼の声は、ほんの僅かに掠れている。
「手元に届きようがないものを引き寄せ、留めておこうと動いたのは、お前が唯一でひとつだけだ」
「……アルノルト殿下」
左胸が、軋むようにきゅうっと疼いて苦しい。
アルノルトは、そんなリーシェの胸中も知らずに、こんな言葉を囁いてみせる。
「俺の妻になれ」
リーシェの耳へ口付けるようにして、囁くのだ。
「――今はそれ以上、何も望まない」
「……っ」
苦しくて、泣きたくなったのを必死に堪えた。




