136 夜の海風が撫でてゆく
そう認識した瞬間、一気に目が覚めてしまった。
(な、なんで!? どうしてここに、アルノルト殿下が……!)
慌てて上半身を起こしつつ、仰向けで目を閉じているアルノルトを見下ろす。
(それも、私と同じ寝台でお休みに……)
ひょっとして、リーシェが彼の寝台を使っていた所為だろうか。
仕事を終えた後、この部屋に戻ってきてくれたらしいアルノルトは、リーシェが寝ているのを見て困ったのかもしれない。
二台ある寝台のうち、彼がもう一台を使わなかった理由は分からないが、すぐ傍に並んで寝ていた事実に動揺した。
(と、とにかく、殿下を起こさないように注意しないと)
リーシェが真ん中を陣取っていた所為か、アルノルトがいるのは寝台の端だ。狭くなかったかと心配になり、リーシェはじりじりとアルノルトから離れる。
(……今日は、この部屋にお戻りにならないと思ったのに)
窓から差し込む月明かりが、夏用のカーテンを透かしている。
月光は寝室を淡く照らし、アルノルトの白い頬に、くっきりとした睫毛の影を落としていた。
(私が幽霊を怖がるから、この部屋に戻ってきて下さった?)
きっと、その考えは当たっているだろう。
リーシェと一緒に眠るという、そんな約束を守ってくれたのだ。胸の奥がきゅうっと締め付けられ、リーシェは上掛けを抱きしめる。
(自分の寝台に、戻らなきゃ……)
分かっているけれど、なかなか動くことが出来ない。
離れてしまうのがさびしいような、ずっと寝顔を見詰めていたいような、そんな気持ちに誘われる。
ちょうどそのとき、アルノルトの形良い眉根が寄せられ、僅かにその表情が歪んだ。
もしかして、起こしてしまっただろうか。
ぎくりとしたけれど、どうやらそうではないようだ。
(……あ)
アルノルトの額には、僅かな汗が滲んでいた。
どこか意外に感じたあと、なんらおかしくはないと思い直す。人形のように美しい造形をしていても、彼は確かに人間なのだ。
汗の雫は、それをはっきりと知らしめるようでもあった。
(きっと、お部屋が暑いんだわ)
リーシェは窓辺に目を遣った。
海側の窓は閉ざされている。ひとりきりの部屋で、窓を開けるのが怖かったからだ。
アルノルトはひょっとしたらそれを汲み、窓を開けないままでいてくれたのかもしれない。
けれども夜とは言え、七月というこの季節に、この状態では寝苦しいはずだ。
(ちょっとでも、ゆっくり眠っていただかないと)
それには、この閉め切った部屋をどうにかする必要がある。
リーシェは意を決し、寝台から立ち上がろうとした。
窓辺に近付くのは恐ろしい。
それに加え、カーテンを開けるのはもっと怖かった。少しでも隙間を開けてしまうと、何かと目が合いそうな気がするからだ。
運悪くもちょうどその瞬間、窓の外を小さな影が過ぎった。
「!」
肩が跳ね、心臓が止まりそうになる。傍に置いていた黒色の剣を抱き締めつつ、慎重に窓の外を警戒した。
(だ、大丈夫。あの影の動き方は、どう考えても蝙蝠だもの)
狩人人生の知識からも、そのことは間違いないだろう。分かっていても、万が一という可能性が拭えない。
(ぜったい幽霊じゃない、ぜったい……!)
リーシェは自分に言い聞かせる。
呼吸を止め、渾身の覚悟で立ち上がって、カーテンの隙間に手を入れた。そのまま手探りで窓枠に触れ、解錠してから窓を開ける。
(ゆっくり、静かに、起こさないように)
吹き込んできた海風が、ふわりとカーテンを押し開いた。
リーシェはほっと息を吐き、急いで窓を離れる。物音を立てないよう、それでいて素早く寝台に乗り、剣を手放してからアルノルトの隣に収まった。
(これで大丈夫……! 窓は開いたし、外には何もいないし、問題は解消されたはず!)
無理矢理そういうことにし、寝台に両手をついて、そろりと体を起こす。
穏やかな眠りを妨げないよう、慎重にアルノルトの顔を覗き込んだ。前髪が汗で張り付いており、梳いてあげたい気持ちになる。
けれど、伸ばそうとした手は止まってしまった。
アルノルトのくちびるから、短い吐息が零れたからだ。
「……っ」
その呼吸には、どこか苦しそうな響きが滲んでいた。
汗が滲んだ肌の上を、柔らかな海風が撫でていく。けれどもアルノルトは、その眉をますます歪めるばかりだ。
(もしかして)
額に汗が滲むのは、暑気によるものではないのかもしれない。
(……夢を、見ていらっしゃる……?)
そのことに気が付いて、アルノルトの方へと改めて手を伸べた。
それが良くない夢ならば、いますぐ彼を揺り起こしたい。
けれどもそうでないならば、少しでも長く眠ってほしい。そんな感情の狭間にあって、何が出来るのかと逡巡する。
だが、次の瞬間。
「ひゃ……っ」
ぐるりと世界が反転した。
手首を掴まれ、肩を押されて世界が反転する。受け身を取ろうとしたけれど、指一本動かす隙もない。
「っ!」
そのまま仰向けに寝台へ沈み、体の上から圧し掛かられる。
両の手首が顔の横へと縫い付けられ、そこにぐうっと体重を掛けられた。
見上げた瞬間にまみえたのは、肉食獣のような鋭い目だ。
「……っ」
氷のように冷たい瞳が、リーシェを真っ直ぐに見下ろしていた。
けれどもそれは一瞬で、アルノルトはすぐさま目を見開く。
それから静かに目を伏せて、ここに居るはずのないものを呼ぶみたいに、独白じみた言葉を漏らした。
「――……リーシェ」
何かを確かめるような、そんな声だ。
リーシェは押し倒されたまま、無抵抗の形でアルノルトを見上げる。
詰めていた息を吐き、くたりと体の力を抜いて、彼に応えた。
「はい。……アルノルト、殿下」
「……」
アルノルトはそこで、眉根を寄せる。
そのあとでゆっくりと身を屈め、リーシェに覆い被さる格好のまま、ぽすんと寝台に突っ伏してしまった。
「殿下?」
リーシェの耳元で、掠れた声がこう囁く。
「……すまない」
「っ」
鼓膜が震え、リーシェはぞくりと身を竦めた。
くすぐったいのを堪えるため、そのまま僅かに身を捩る。けれどもアルノルトに捕まっていて、少しも自由に動けない。
「殿下、手」
困り顔で視線を向けるのは、アルノルトに捕まった手首である。
体が密着した状態では、懇願するのも一苦労だ。
「手、離して……」
「……」
リーシェがねだると、ほんの一秒ほどの間が置かれた。
「ああ」
アルノルトが、一言ずつ刻むように言葉を紡ぐ。
「……分かっている」
覆い被さられた状態でも、リーシェはちっとも重くない。
恐らくは潰れてしまわぬよう、アルノルトが気遣ってくれているからだ。彼はまずそのままの体勢で、リーシェの手首を解放した。
「……」
離すのを惜しまれているのかと錯覚するほど、少しずつ指が解けていく。
強く掴まれた気がしたのに、手首には痕すらついていなかった。自分の手首が白いままなのを、リーシェは何処かぼんやりと見つめる。
やがてアルノルトが身を起こし、ふたりの体が離れた。
リーシェはそれを確かめたのち、自分も寝台に起き上がる。
膝立ちになり、自由になった両手を、迷わずに前へと伸ばした。
「!」
そして、アルノルトをぎゅうっと抱き締める。




