135 たとえ小さな変化でも
一拍置いたあと、慌てた様子のハリエットが声を上げる。
「あ、ああああのっごめんなひゃい、不躾なことを……!」
「いっ、いえとんでもない!! 大丈夫、大丈夫ですから! お客さまに感じ取らせてしまって、申し訳ありません!!」
飛び起きようとしたハリエットを宥め、再び長椅子へ横たわらせる。
リーシェは無意識に俯いたあと、萎れた気持ちで口を開いた。
「夫婦喧嘩を、しておりまして」
「ふうふげんか……」
「あの方に怒っているのです。なので、私が駄々を捏ねてしまったのですが……」
薬液を硝子棒でぐるぐると混ぜながら、小さく呟く。
「本当は、喧嘩にもなっていないのです」
その声は、思った以上にぽつんとしてしまった。
「私が夫婦喧嘩をしたいと望んだから、いつものように受け入れて下さっただけ。あの方はきっと、私と『喧嘩』をしては下さらない……」
独白に近いことを口にしたあと、それに気づいてはっとする。
「ごめんなさい、ハリエットさま」
いきなりこんなことを聞かせても、困惑させるだけだろう。話題を切り替えようとした瞬間、ハリエットが口を開く。
「ひょっとして、お寂しいのですか……?」
「……」
左胸の奥が、ずきりと疼いた。
「そういう、わけでは」
否定しようとして、はっきりと出来ない自分に気が付く。
ハリエットはタオルをそっと取ると、ゆっくり身を起こし、向き合ったリーシェにこう言った。
「リーシェさまは、婚約者さまに、怒っていらっしゃる……?」
自分の感情を眺めてみて、リーシェは首を横に振る。
心の内で渦巻くのは、明確な怒りとは違っていた。
アルノルトに向けて抱くのは、もっと幼い感情だ。それに、彼に甘えている自覚もある。
「……私は、拗ねているだけなのでしょうね」
そのことに気が付いて、苦笑した。
「ハリエットさまの仰る通り、寂しいみたいです。あの人の為に出来ることが何もなくて、それで不甲斐ないのかもしれません」
「……リーシェさま」
「胸の奥がぎゅうっとなって、切なくて、ずきずきする……」
自分の左胸にそっと手を置いて、リーシェは僅かに眉根を寄せる。
「――私に出来ることなら、なんだって叶えて差し上げたいのに」
けれどもそれは、届かない。
他ならぬアルノルト自身から、はっきりと拒絶されている。それを思い、きゅうっと手を握り込んだ。
「リーシェさま」
ハリエットの声に、リーシェは顔を上げる。
「さ、差し出がましいようでしたら申し訳ありません。もしかしたら、すごく的外れなことを言っているかも。ですが、あの、その……っ」
「ど、どうなさったのですか? ハリエットさま」
真剣な目をしたオリーブ色の瞳が、かつてない強さでリーシェを見た。
「――そのお言葉を聞けるだけで、きっと、たくさんのものを贈られた気持ちになれるはずです」
「!」
彼女の言葉に、リーシェは目を丸くする。
ハリエットは、一瞬だけ自信がなさそうに俯いたあと、ふるふると首を横に振ってから顔を上げた。
「もしも、私が。自分の傍にいる人に、そんな言葉をいただけたら……。そうまで言ってくれる自分の味方が、この世界にひとりでもいると分かったら!」
ハリエットが、胸の前でぎゅっと両手を重ね合わせる。
「それだけで、十分に幸せだと思います……!」
「……っ」
そう告げられて、思わぬ気付きを得たような気持ちになる。
(何も出来なくとも。……何でもしたいと、そう告げるだけで)
ゆっくりと、瞬きをした。
(アルノルト殿下の、お力になれることも、あるということなのかしら……?)
そんな自信はないけれど、思い出されることがある。
それは、アルノルトもリーシェに向けて、同じ約束をしてくれたことだ。
(『叶えられる限り、あらゆるすべてを叶えると誓う』と仰った)
アルノルトが先ほど言った言葉は、求婚のあとにも告げられたことである。
「……ありがとうございます、ハリエットさま」
リーシェはふっと目を細め、少し震えているハリエットに微笑んだ。
「ハリエットさまのお言葉で、やっぱりあの方に向き合いたいと、改めて感じました。お心遣い、とても嬉しいです」
「い、いえそんな……!」
あわあわと首を振ったハリエットは、自分を鼓舞させるように深呼吸をする。
「わ……私は。ウォルター陛下と、自身の婚約者と、喧嘩をしたいと思ったことがありません」
視線を彷徨わせ、懸命に言葉を選びながら、ハリエットは続ける。
「そもそも、そんなこと、私に許されてはいないのです! わ、私に出来るのは、人形のようなお飾りの王妃として、黙って従っているだけで……」
「ハリエットさま。それは」
「生まれ持ったものは、変えられないって思っていました。王女に生まれたことも、私が役立たずなことも、婚約者に嫌われるような顔をしていることも……! わ、私が悪いんだから、ごめんなさいって。生まれてきてすみませんって、ずっと考えて……」
(違う)
ハリエットが自分を卑下する理由なんて、どこにもない。
すぐさま否定しようとして、リーシェははっとする。
「でも……私、気が付いたんです!」
リーシェを見つめたハリエットの瞳に、小さな光が宿っていたからだ。
「他の人からみたら、ほんのちょっとだけ、かもしれません。お……お化粧をして、素敵なドレスを着て、前髪を編んだだけって言われるかもしれません。でも、私にとっては、そうではないんです」
伸ばした前髪で顔を隠し、俯いていたときには見えなかったその光が、涙目にゆらゆらと揺れていた。
「鏡を見られるようになりました。お風呂のあとの着替えで、信じられないくらいにわくわくしました。今まで距離のあった私の侍女が、今日だけで、たくさん話し掛けてくれました」
「ハリエットさま……」
「これだけで、全部が変わったような気がしたのです」
ハリエットの声は、泣きそうだ。
それでも懸命にリーシェを見て、彼女の想いを伝えてくれている。
「生まれ持ったものは、変えられないと思っていました。……でも、もしかしたら、少しだけでも変えられるのかもしれない。私にとっては、それこそがとっても大きな変化で、それはリーシェさまが変えて下さったもので……そんな風に思えるのが、夢みたいなんです」
小さな声が、「だから」と繋ぐ。
「リーシェさまの言葉は、婚約者さまにも、届きます。……絶対に」
「……!」
リーシェが息を呑んだ瞬間、ハリエットはばっと両手で顔を覆った。
「あああう、ごめんなさい!! 喋り過ぎました、恥ずかしい……!!」
「は、ハリエットさま!?」
「ごめんなさいごめんなさい、絶対今日の夜に寝台の中で、このことを思い出して眠れなくなっちゃいますうううーっ!!」
「お、落ち着いてください、大丈夫ですから!!」
長椅子に沈んだ彼女を宥めつつ、リーシェは頬が緩んでしまう。
先ほど話してくれたことは、ハリエットにとって勇気のいることだっただろう。
けれどもリーシェを励ますために、一生懸命伝えてくれたのだ。
「ありがとうございます、ハリエットさま。あなたとお友達になれて、本当によかった」
「お、お友達……!」
オリーブ色の瞳がリーシェを見上げ、ますます泣きそうな顔をした。
(ハリエットさまは、変わろうとなさっている。……だけど)
脳裏に過ぎるのは、彼女に訪れる未来のことだ。
(この方が処刑される要因が、どこにあるのかが分からない。ラウルの目的も読めないし……)
「……失礼します。リーシェさま」
「エルゼ」
ノックの後に扉が開き、ハリエットと一緒に振り返る。
エルゼはいささか困った顔で、そっと自身の背後を見遣った。そこにいるのは、白い軍服に身を包んだ女性騎士たちだ。
(……シグウェル国ではなく、ファブラニアの騎士たちね)
「み、みなさん……! あの、これは」
「困りますね、ハリエットさま。兄君と侍女以外の他人が傍にいるときは、我々護衛騎士を傍につけていただくようにと国王陛下からのお言葉があったはず」
三人ほどの騎士たちが、そのまま入室してくる。
殺気があるというほどではないが、室内はにわかに物々しい空気だ。ハリエットは慌てた様子で、ぶんぶんと首を横に振った。
「で、でも、ここにいらっしゃるのはリーシェさまだけですから……!」
「お相手がどのようなお方であろうと、関係ありません」
「う……」
「大丈夫ですよ、ハリエットさま」
リーシェはにこりと微笑んで、調合していた薬瓶に蓋をした。
「私はそろそろ御暇します。この瓶の中の薬液を、眠る前に瞼へ塗ってお休みください。ドレスとバッグはお邪魔でしょうから、回収いたしますね」
「あ! で、ではせめて、お手伝いを……!」
ハリエットは立ち上がり、数か所に置いたドレスやバッグをばたばたと集め始める。
リーシェが止める間もなかったので、その厚意に甘えることにして、エルゼと一緒にドレスとバッグを抱えた。
「それではハリエットさま、おやすみなさい。護衛の皆さまも、夜分にお騒がせしてしまい、申し訳ございませんでした」
「り、リーシェさま……! あの、本当に、ありがとうございました!」
「お礼を申し上げるのは、私の方です」
励ましてもらえたお陰で、夫婦喧嘩も前に進めそうな気がする。
ハリエットは照れ臭そうに俯いたあと、ぺこんと頭を下げた。
「お……おやすみなさい、リーシェさま」
「はい。また明日」
手を振りたかったけれど、いまのリーシェはたくさんのドレスを抱えている。ハリエットに見送られながら、廊下を歩き始めた。
「重くない? エルゼ」
「はい、大丈夫です! リーシェさまは、平気ですか……?」
「ええ。今日はもう夜遅いから、衣裳部屋へ運ぶだけにして、ドレスの片付けは明日にしましょう」
「はい!」
そんな会話を交わしながら、階下へと降りていく。
「――……」
廊下に立ったハリエットが、すうっとその両目を細め、リーシェの背中を見詰めていたことには気づかない。
***
衣裳部屋にドレスやバッグを置き、エルゼと別れたリーシェは、寝室に戻ってからふうっと息を吐き出した。
(……アルノルト殿下は、まだご公務中ね)
ふたり用の部屋に、ひとりきりの沈黙が満ちてゆく。すると、ついつい余計なことを思い出してしまった。
(幽霊……)
慌てて部屋中のランプへと火を灯し、室内を明るくしたあと、急いで寝台に潜り込んだ。
頭まですっぽりと上掛けを被り、波音から逃げてみるものの、やっぱりどうにも心細い。
「……」
リーシェはそっと起き上がると、自分が使っていた寝台から降り、上掛けを被ったまま移動した。
そうして向かったのは窓際だ。
つまりは昨日、アルノルトが寝ていた方の寝台に乗ると、ぽすんとそこに沈み込んだ。
上掛けもシーツも枕も全部、今朝方リーシェが交換し、新しいものに替えてある。昨日のアルノルトが使ったものは、この寝室に残されていない。
それでも、こうしているとアルノルトの気配に包まれたような気がして、リーシェはほうっと息を吐いた。
(殿下はきっと、この部屋にお戻りにはならないわ)
そんなことを考えながら、枕に顔を埋める。
(パンに悪口を書いちゃったし。一緒に寝てほしいのは、私の我が儘だし……)
でも、と息を吐き出した。
(ご無理を、なさっていないかしら)
せめて体調のことだけでも、オリヴァーに聞いておけばよかったと悔やむ。
(昼間は雨に濡れた上、海にまで浸からせてしまったのに。体を鍛えていらっしゃる方でも、毎日遅くまでお仕事をしていたら、体力がどんどん消耗するわ……)
心配な気持ちを抱えながらも、思考が端から溶け始めた。
昼間に体力を消耗したのは、リーシェの方も同様だ。おまけに慣れない夫婦喧嘩で、思考も色々と乱された。
「……殿下」
アルノルトが戻る訳もないのに、心の片隅で待ってしまう。
そんな心を誤魔化しながら、リーシェはゆっくりと目を瞑った。
***
次にリーシェが目覚めたのは、それから数時間ほど後のことだろうか。
「……」
目を開き、いまが深夜であると把握する。
まばたきを何度か繰り返し、再び眠りに落ちそうになってから、すぐ隣の気配に気が付いた。
リーシェの傍で、アルノルトが静かに眠っているのだ。




