133 これより開始いたします
「ばか。……きらい」
小さな小さな声で、抗議を告げる。
「そんな風にやさしくされるのは、きらいです……」
アルノルトは時々意地悪だ。
自分の本心を隠すために、わざと突き放すような物言いをする。けれどもいまのアルノルトは、リーシェのことを気遣っていた。
つまりは、本当に心の底から、リーシェがこの婚姻を恐れるかもしれないと考えているのだ。
「私が、あなたの花嫁になることを、怖いと思うはずもありません」
アルノルトを睨みたくなどないけれど、そうしないともっと情けない顔をしてしまいそうだ。
だからリーシェは、眉根にぎゅうっと力を込めつつも、上目遣いのままにこう続ける。
「それに」
アルノルトの手の甲に触れた手へ、力を込めた。
「この婚姻を受け入れるのは、私自身が決めたことなのです」
彼の手を、自分の頬に押し付けているかのような形になる。
このままくるんでしまいたいのに、男性らしく大きな手には、上から指を絡めるように重ねるだけで精一杯だ。
「何があっても、あなたを憎んだりなんかしない。……どれほど憎まれようともなんて、そのようなお言葉は、いりません」
「……リーシェ」
名前を呼ばれ、胸の奥が一層強い疼きを覚える。
形良く筋張った手に、自身の頬を摺り寄せたのは、半ば無意識のことだった。
顔を見られたくなくて、同じくらいこの手を離したくなくて、感情の整理が上手くできない。
「この婚姻に」
口にするのが怖かったけれど、どうして怖いのかが分からなかった。
その恐怖を捻じ伏せ、恐る恐るでも顔を上げて、真っ向からアルノルトをじっと見上げる。
「私への、負い目を感じていらっしゃるのですか?」
「……」
すると、アルノルトが目を伏せた。
長い睫毛の落とす影が、その瞳に映り込んでいる。いつも鋭い光を湛えている双眸が、どこか茫洋として見えた。
「俺は、あのとき」
アルノルトは、静かに言う。
「お前を妻にするためなら、どのようなことでもしただろう」
「……っ」
恐らくは出会いの直後である、求婚の際のことを指しているのだ。
(たった二か月前のことなのに、まるで遠い日の出来事のよう……)
それはもしかしたら、アルノルトにとっても同様だったのかもしれない。
彼は、いつも以上に柔らかな声音のまま、穏やかに言葉を紡いでいった。
「俺はお前に希う側であり、お前はそれを審判する側だ」
アルノルトの親指が、リーシェの頬をゆっくりと撫でる。
「その時点で、俺とお前は対等ではない。……分かるな?」
「……」
そんな訳はなくて、ふるふると首を横に振る。
仕方のない子供をあやすようにされたって、聞き分けられるはずもない。
「私は」
リーシェは苦しい気持ちのまま、ぐずぐずに揺れそうな声で反論する。
「私が、あなたに我が儘を言った分だけ、あなたの願いだって叶えたいのです」
与えられてばかりでなく、同じようにそれらを返したいのだ。
「国同士の契約に纏わる婚姻ならば、お互いに得るものがあるはずでしょう? それなのにこの結婚では、いつも私が与えられてばかり。これが政略結婚だと仰るのであれば、あまりにも歪な状態のはずです」
頬を撫でてくれるアルノルトの手を取って、緩やかに指を絡める。
「あなたが、私に願って下さるものを」
告げながらも、左胸が苦しくて仕方ない。
「……私からだって、あなたにたくさん差し出したい……」
泣きたいような心地がするのに、少しも泣ける気がしなかった。
行き場を無くしたかなしみが、胸の内でべとべとに溶けていく。心臓が鼓動を刻むたびに、どんどん熱を持つかのようだ。
「だから、お願いです」
リーシェは懸命な願いを込めて、青い瞳を一心に見つめる。
「アルノルト殿下……」
「……」
彼の名前を口にすると、どうしてかとてもさびしかった。
いままでのどんな人生でだって、こんな気持ちで誰かを呼んだことはない。
ほとんど祈るような心地のまま、小さく息を吐き出した。
「リーシェ」
アルノルトは、リーシェから目を逸らさないでいてくれる。
そして、やっぱりやさしい声音で言った。
「俺がお前を娶るのは、政略結婚などではない」
「――……」
身を屈めたアルノルトが、リーシェの耳元にくちびるを寄せる。
耳のふちへ口付けられそうなほどの近しさに、くすぐったくて息を呑んだ。
僅かに掠れた彼の声音が、リーシェの鼓膜を震わせる。
「だから俺は、お前に何も望まない。それを、お前にねだられたとしてもだ」
「……っ!!」
その瞬間、胸の奥がひときわ強く痛む。
アルノルトはリーシェから身を離すと、まっすぐに視線を合わせたままで笑った。
瞳に暗い光を宿す、自嘲めいた笑みだ。彼はそのままで、リーシェが先ほど口にした言葉を真似る。
「……『きらい』か?」
アルノルトの親指が、リーシェのくちびるを緩やかになぞった。
『その言葉』をリーシェに紡がせたがるかのように、弱い力で表面を押す。
何も望まないだなんて、そんなことを言われるのは大嫌いに決まっていた。だから頷きたかったのに、それが出来ない自分に気が付く。
寄る辺なくて、途方に暮れてしまった。
(殿下はいつも、ご自身の考えを隠すために、わざと意地悪なことをなさるわ)
そのことを、リーシェはすでに知っている。
だからこそ偽悪的な言葉より、振る舞いの誠実さを信じてきた。
けれど、先ほどアルノルトが言った言葉からは、紛れもなく彼の本心が感じられてしまったのだ。
(私に『望まない』というお気持ちは、殿下のやさしさから来ているってちゃんと分かる……)
だからこそ、いつもの意地悪なんかより、そのやさしさの方がよっぽど苦しいのだ。
『――この婚姻によって、どれほど俺が憎まれようとも』
アルノルトは心から、リーシェに憎まれることも辞さないと考えている。
(妻になる覚悟など、しなくていいと仰った……)
以前に言われたことまでも思い出し、ぐらぐらと視界が歪んだ気がした。
(……駄目)
これ以上、情けない姿を見せたくない。
かといって、対話することも諦めたくない。リーシェはぐるぐると考え、考え抜いて、俯いたままそっと手を動かした。
「………………」
ゆっくりと、顔の横辺りで挙手をする。
「…………なんだ、その手は」
怪訝そうなアルノルトの声が上から降ってきて、発言のための深呼吸をした。
「ごめんなさい、アルノルト殿下」
いまから行おうとしているのは、とてもよくないことだと分かっている。
けれど、ここで議論を中断しては堂々巡りだ。
向き合うことから逃げたくない。上手く出来るかは分からないものの、リーシェはそれを始めることにした。
「僭越ながら」
だから、アルノルトを見上げて口を開く。
「……これより、『初めての夫婦喧嘩』を宣言します……!!」
「…………」
アルノルトは数秒を置いたあと、見たことのないものを見るような表情をして、尋ね返した。
「いま、なんと言った?」
「ですから、これが初めての夫婦喧嘩です!!」
実際はまだ夫婦でないのだが、ほかに適切な呼び方も無いだろう。
リーシェは悲しい気持ちのまま、それでもふんすと気合を入れ、婚約者を見つめてやるのだった。
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