129 小さな変化を楽しむために
「本当に、ごめ、ごめんなさい……」
ヴィンリースの街の片隅で、泣きそうなハリエットが頭を下げた。
夕暮れ間際の陽光が、金色の髪に当たって美しい。
ハリエットの消え入りそうな謝罪の声に、リーシェはにこにこと首を横に振った。
「大丈夫ですよ。お気になさらず、ハリエットさま」
「いーいえ! ハリエット殿下は、くれぐれも反省なさいますよう。貴女さまが『夕食までの時間、街で買い物をしてみたい』と仰ったから、リーシェさまがお付き合い下さっているのですよ? ご自身で持ち物のお支度をなさると仰るから、感動してお任せしたらこの有り様……!」
眉間に皺を刻んだ侍女長が、大きな溜め息をつく。
「まさか、ガルクハイン金貨の入った袋ではなく、ファブラニア金貨の袋を侍女に持たせるとは……」
「うう……」
ハリエットの項垂れ方は、頭の上にずうんと重石が乗っているかのようだ。
そんな主君へ追い討ちをかけるように、侍女長が言い重ねる。
「ファブラニア金貨では、ガルクハインのお店など買い物できません。出向いた先が、両替所のある街だったからよかったものの……」
「そう! ここが両替所のある街だから、問題は一切ございません」
侍女長とハリエットの会話に割り込んで、リーシェはハリエットに微笑みかけた。
「ハリエットさまの侍女さんが、ガルクハイン金貨への両替をして下さっていますから。それが終わったら、夕食までのお買い物を楽しみましょう」
「う、あう、ありがとうございます……」
「リーシェさまの寛大なお言葉、心より有り難く存じますわ。ハリエット殿下、くれぐれもそれに甘えたりなさいませんように」
侍女長の厳しさに苦笑しつつ、リーシェはちらりと後ろを振り返る。
リーシェたちが侍女を待っているのは、両替所のある建物のすぐ傍だ。邪魔にならない隅にいるとはいえ、通行人の視線を集めてしまうのは、十人以上の大所帯になっているからだろう。
その理由は、「体調が回復した」と言うファブラニアの女性騎士たちが、五名ほど買い物に同行しているからだった。
当然ながら、ラウルの連れてきたシグウェル国の護衛も傍にいる。これ以上目立つことも避けたいため、リーシェに普段ついている護衛騎士は、城で留守番をしてもらった。
(ファブラニアの騎士とシグウェルの騎士に、アイコンタクトや会話の様子はないわ)
どうやら、互いに協力してハリエットを護ろうというのではなく、あくまで個々の任務についている認識のようだ。
(シグウェル国の騎士よりも、ファブラニアの騎士の方が練度が上だわ。――ファブラニアの国王陛下は、婚約者さまにしっかりとした護衛をつけていらっしゃるということね)
リーシェは少しだけ考え込んだ。
(ファブラニア国王は、ハリエットさまにたくさんのお小遣いを渡して、ガルクハインで自由に買い物などを過ごしてくるようにと仰ったのよね。……そしてハリエットさまの護衛には、数少ない女性騎士の中でも優秀な人材を選んでいるように見える)
幼いハリエットを傷つけたのは、ファブラニア国王の言葉によるものだ。
しかし、いま現在のファブラニア国王は、行いだけならばハリエットを大切にしていると言えなくもない。
(んん……)
頭を悩ませながら、視線を感じて顔を上げる。
すると、リーシェがいる場所から離れたところの両替所前に、オリヴァーが立っているのが目に入った。
お互いの顔は見えるものの、会話をするには遠い距離だ。オリヴァーが微笑んで一礼したので、リーシェも同じく一礼を返した。
(オリヴァーさまはひょっとして、アルノルト殿下のお使いかしら?)
案の定、オリヴァーは両替所の中に入っていく。アルノルトの話によれば、回るべきところは残り数軒だと言っていた。
とはいえ、リーシェが自分の調査を頼んでしまったために、アルノルトの仕事は増えてしまったはずだ。その結果、オリヴァーにも負担を掛けてしまうはずなので、申し訳なく感じた。
(そういえば……)
思い出したのは、浜辺で交わしたアルノルトとの会話だ。
『ガルクハインの通貨を、金銀含有量が少ないものに作り替えるご予定なのですか?』
『……そうだな』
アルノルトにしては曖昧な返事だと、あのときに感じた。
それは一体どうしてなのだろう。アルノルトにはまだ、この件で秘密を持っているのかもしれない。
(もしかして、アルノルト殿下は……)
そんな思考を巡らせていると、不意にこんな声が聞こえてきた。
「ハリエット殿下。気を抜いてはなりません、また猫背になっていらっしゃいますよ」
「ひゃっ、ひゃい!」
裏返った声で返事をしたハリエットが、慌てたように背筋を伸ばす。
だが、彼女がわざと背を丸めているわけではないことは、傍で見ているとよく分かった。
「まったく、どうしてそのような姿勢を取られるのです? 堂々となさいませと、いつも申しているでしょうに」
「うあ、その……」
悲しそうな表情のハリエットに代わり、リーシェはきっぱりと口を開く。
「侍女長さま。背中が丸まってしまうのは、決して心の根の問題ではございません」
「……と、いいますと?」
「――その問題を解決するのは、ハリエットさまの筋肉です!」
真面目な気持ちで言ったのに、ハリエットと侍女長はぽかんと口を開いた。
「筋……なんと仰いました?」
「背筋を真っ直ぐのままに保っておくのは、きんにくのちから、つまりは体を支える力が必要なのです。ハリエットさまに足りないのは気合ではなく、筋力です」
リーシェは言い、自分自身のお腹を手で触りながら説明する。
「まずは腹筋。それから背筋。ハリエットさまの姿勢を拝見したところ、骨格の歪みにまでは至っていないようですが、二十歳を超えてくるとどんどん深刻になって参ります」
「し、深刻というと……」
「いまのハリエットさまは、筋肉で体を支えられない結果、背中や首が丸まってしまうのです。負担が掛かっているのは骨なので、その年数が長くなっていくにつれて、首肩や腰の痛みに繋がって参ります」
そこまで症状が進んでしまうと、日常生活にも影響が及んでしまう。
「ハリエットさま。座っているだけでお体が痛くなってしまうと、読書をするにも大変になってしまいますよ」
「ひい……!? そ、それは、どうすれば防ぐことが出来るのでしょう……!?」
「まずは最低限の運動が必要ですが、『背筋を伸ばす』のも運動の一環です。礼儀作法ではなく、健康のための鍛錬と考えて、毎日少しずつ積み重ねていくのも良いかもしれません」
そしてリーシェは、両替所の白い壁に嵌め込まれた、大きな窓を指さした。
「ハリエットさま。窓硝子をご覧いただくと、ご自身のお姿が映っていますよね?」
「あ……」
自分の姿が見慣れないのか、ハリエットが戸惑ったように瞳を揺らす。
そこに映し出されたハリエットは、やっぱり美しい。しかし、その姿は少々猫背気味で、侍女長はそれが気になったのだろう。
「背筋を伸ばし、胸を張ってみてください。……そう、お上手ですよ!」
「こ、この姿勢でいるだけでも、大変ですね……」
「最初はそうかもしれません。ですが、もう一度窓をご覧ください」
リーシェの言葉に従ったハリエットの目が、驚きに丸く見開かれた。
「あ……」
そこに映ったハリエットは、髪型もドレスも、数分前とはもちろん変わっていない。
けれどもはっきりと変化があった。
ドレスのシルエットはより美しく見え、体付きがすっきりと感じられる。胸を張って顔を上げたお陰で、顔付きも明るく見え、目元に施したお化粧がきらきらと輝いた。
「背筋を伸ばして胸を張るだけで、まったく違った印象になりませんか?」
「ほ、本当、ですね……?」
ぱちぱち瞬きを繰り返すハリエットに、微笑みながらリーシェは告げる。
「姿勢を美しく保つのは、慣れないうちは大変です。ですが、『気合を入れているあいだは、着ているドレスが素敵に見えている』のだと思うと、ちょっとだけ頑張れるような気がしますよね」
「……」
ハリエットは、窓硝子に映った自分の姿を見つめたまま、リーシェの言葉をしみじみと噛み締めたようだった。
そして、自らが纏ったドレスを見下ろして、はにかんだように微笑む。
「……はい……」
「……!!」
その微笑みを目にしたリーシェは、慌てて侍女長に耳打ちをした。
「侍女長さま、いまのご覧になられました……!? ハリエットさまのはにかんだ笑顔、とても素敵でお可愛らしく……!」
「な……なりません、まだまだですわ!! 他国で常ににこやかで愛らしくお過ごしいただくのは、外交に来ている以上当然のこと……!!」
「でも、素敵でしたよね?」
「ま、まあ、それはそうではございますが……!!」
侍女長はそう言ったあと、不覚を取ったようにはっとして、自身の口元を右手で押さえた。
かといって、その発言を取り消すようなことはしない。もじもじしているハリエットと、侍女長のそんな様子を見て、リーシェはにこにこしてしまう。
(ハリエットさまが、少しでも楽しく過ごしてくださっているようで良かった。夕暮れ時だし、すぐにお城に帰らなくてはならないけれど……ハリエットさまに喜んでいただけるようなお店を、いっぱい回っておきたいわ)
ハリエットは、どんなお店が好きだろうか。
このあとの買い物について、リーシェはわくわくと想像を巡らせるのだった。
***
王女ハリエットは、新しい装いのドレスの他に、小さな鞄を手にしていた。
自分で買い物の支度をすると言い、それで用意した鞄である。
侍女長と話すリーシェに背を向けたハリエットは、その鞄の留め金を開くと、人に見られないようにその中を覗き込んだ。
「……お金……」
ハリエットの鞄の中には、数枚の金貨が入っている。
刻まれているのは、ガルクハインの国章である鷲の意匠が簡略化されたものだ。その羽の部分を、ハリエットは白い指でつうっと撫でた。
「ガルクハインのお金。……お金、お金、お金……」
そして、鞄を静かに閉じる。
彼女が紡ぐのは、ほとんど吐息と呼べるほどの小さな声だ。海風と波音に掻き消されるほどの声が、ぶつぶつと呟く。
「……このお金で、私の欲しかったものが手に入る……」
***
数軒の店を見て回り、やがて夕暮れが訪れたころ、リーシェとハリエットは馬車を使って城へと戻った。
エントランスホールについた際、出迎えの侍女が、そっと言伝をしてくれる。
「おかえりなさいませ、リーシェさま。早速ではございますが、オリヴァーさまよりご伝言で、アルノルト殿下がお呼びとのこと」
「ありがとう、すぐに執務室へお伺いするわね。では、ハリエットさま、また後ほど」
「はっ、はい、ありがとうございました……!!」
何度も頭を下げるハリエットと別れ、アルノルトの執務室へ向かう。
扉をノックすると、オリヴァーが迎え入れてくれた。
「失礼いたします、アルノルト殿下」
「……ああ」
ペンを動かしているアルノルトは、黒いシャツ姿に着替えている。襟元のボタンは外していて、普段は隠している傷跡が見えていた。
「聞いていただけますか、リーシェさま」
扉を閉めてからやってきたオリヴァーが、やれやれと肩を竦めながら言う。
「まったく我が君ときたら! ちょっと目を離した隙に、何故か着衣のまま海に浸かられたようで……」
「えっ」
リーシェはぎくりと身を強張らせ、オリヴァーをぎこちなく振り返った。
「一体何があってそんな状態になったのか、問い質しても話してくださらないんですよ。息抜きは是非ともしていただきたいですが、やんちゃをなさるのも……」
「あ、あのオリヴァーさま!! その件については殿下でなく、私が……」
「……リーシェ」
オリヴァーが見ていない隙に、アルノルトがくちびるの前に人差し指を立てる。
恐らくは、「秘密にしろ」という意味なのだろう。
(うええ……?)
無表情だが、まるで悪戯をしたあとの子供のようだ。
アルノルトがオリヴァーに叱られたのなら、リーシェは事情を話さなければならない。
だというのに、そんな仕草をされてしまっては、この場で強行するのは難しかった。
(どうして内緒になさりたいのかは、分からないけれど。……オリヴァーさまには、アルノルト殿下のいらっしゃらないところで、真実を話して謝罪しなきゃ……)
そう思っているところへ、オリヴァーがリーシェを呼んでくれた。
「リーシェさま、こちらの長椅子へどうぞ。……我が君も」
「ああ」
アルノルトが立ち上がり、低いテーブルを挟んで置かれた長椅子の片方に腰を下ろす。
隣に座るよう促され、リーシェもその横にちょんと座った。アルノルトがオリヴァーに合図をすると、オリヴァーは一礼のあとに、リーシェとアルノルトの向かいへ着座する。




