127 差し出がましくはありますが
城に戻り、アルノルトと離れたリーシェは、暗くなる前に湯浴みをすることにした。
海水と日焼け止めを洗い流し、自作の石鹸で全身をぴかぴかにする。明るいうちであれば、ひとりの入浴も怖くない。
そして浴室を出たあと、すっかり髪も乾いたところで、書斎代わりにしていた部屋の扉がノックされた。
入室した侍女のエルゼが、ぺこりと丁寧に頭を下げる。
「リーシェさま。アリア商会の、タリー会長から、品物が届きました」
「ありがとう。エルゼの見立てはどうかしら?」
「はい……! タリー会長は、すごいです」
顔を上げたエルゼは、無表情の中でもきらきらと瞳を輝かせながら言う。
「届いたものは、私が思っていた通りでした。朝にお願いしたものが、夕方に届くだけでびっくりなのに、お願いしたものぴったりで……」
エルゼの様子を微笑ましく思いつつ、リーシェは立ち上がり、そのまま移動することにした。
先方には、すでに話を通してある。
しかし、リーシェがその部屋を訪れると、彼女は心底驚いたような反応をした。
「こんにちは、ハリエットさま」
「りっ、りりり、リーシェさま……!!」
「だ、大丈夫ですか!?」
大慌てで立ち上がろうとしたハリエットが、膝をごつんとテーブルにぶつける。リーシェが駆け寄ると、ハリエットは泣きそうな声で言った。
「な、なぜ、どうして私のお部屋にリーシェさまが……! わざわざご足労いただくなんて、申し訳ないです、本当に生きててごめんなさい……!!」
「お、落ち着いてくださいハリエットさま。夕刻にお時間をいただきたい旨は、侍女を通して申し入れをしたはずなのですが……」
ちらりと侍女長を見上げれば、きちんと髪を結わえた彼女は、きりっとした表情でこう言った。
「事前にお知らせしていては、待ち時間の緊張で、ハリエット殿下が寝込んでしまわれかねませんので」
(た、確かに……)
決して大袈裟ではないその響きに、リーシェは苦笑した。
「ごめんなさい、どうしてもハリエットさまとお話がしたくて。――それとは別に、侍女長さまにもお願いしたいこともあるのです」
「あ。そ、そ、それは、聞きました。ファブラニアの侍女の仕事について、リーシェさまの侍女に、お教えすると……」
侍女長は、澄ました顔で目を閉じて頷く。
「承知しております。まだ経験の浅い少女たちに、私の経験談をお伝えすれば良いとのこと――。私とてまだまだ学びの途中ではありますが、精一杯励ませていただきます」
「ありがとうございます、侍女長さま。私の侍女たちも、とても喜んでおりました」
侍女たちはこのところ、大方の仕事に慣れてきて、少しずつだが文字も覚え始めたところだ。
教育係のディアナが、仕事に使う単語や文字を集中的に教え込んでくれたお陰で、仕事に関する簡単なメモは取れるようになっている。
そうなると、学ぶことが楽しくなるのだろう。
侍女長の話を聞いてみたいか尋ねたところ、全員からの手が上がったのだ。
(……欲を言えば、私も侍女長さんのお話を聞いてみたかったけれど……)
しかし、リーシェの本質的な目的は別にある。
「それでは、行ってまいります。――そこのあなた、お任せして悪いけれど、お願いね」
「はい。侍女長さま」
扉の横に立っていたエルゼが、神妙な面持ちで頷いた。
侍女長がいなくなると、ハリエット用の客室には、三人が残される。
「り、リーシェさま、あのう……」
「ハリエットさま。いま、何か欲しいものはありませんか?」
そんな問い掛けをしながら、リーシェはそっと長椅子に腰を下ろす。
隣のハリエットは、それによってますます緊張したようだ。しかし、リーシェが穏やかに待ち続けると、やがてゆっくりと口を開いた。
「と、特には……」
か細い声のあと、ハリエットは急いで言葉を継ぐ。
「あ……! ガルクハインはその、素敵なところで、お部屋も綺麗で。これ以上望むなんて贅沢という意味で。その、すみません……!! 私、こういうとき、なにも話を広げられなくて……」
「ご安心を。お喋りの話題作りなどでなく、私は心から知りたいのです」
そう告げると、ハリエットは不思議そうにした。
「ハリエットさま。もしも、欲しいものがいくらでも手に入るとしたら、どんなものを望まれて……」
「――たくさんの本を」
「!」
はっきりと返ってきた言葉に、リーシェは少しだけ目を丸くする。
「読んでも読んでも終わらないくらい、いっぱいの本が欲しいです」
「ハリエットさま……」
「でも、読みきれないくらいの本を『手に入れて』独り占めするなんて、それはいけないことですね。……私は、たくさんの本を自分のものにするのではなく、本が好きなすべての人たちと分かち合いたいです……」
想像だけで、幸せな気持ちになったのだろうか。
ハリエットは嬉しそうにそう言って、空想を抱きしめるように俯いた。
(やっぱり)
その様子に、リーシェは確信する。
(今ここにいるハリエットさまが、ご自身の宝石やドレスを国外から買い集めるために、国庫を潰して国民を苦しめただなんて思えない。……たとえ、この先に何が起きたとしても)
そうして更に、確かめたかったことを尋ねてみた。
「――先ほど、ご自身のお顔立ちについてのお話をされていましたよね」
「!!」
アリア商会の品々を前にして、ハリエットは言ったのだ。
『私の顔をお見せしたら、陛下から破談を言い渡されてしまうかもしれません』
彼女はやはり、自分の顔を隠すために、前髪を長く伸ばしているらしい。
「もしやどなたかが、ハリエットさまにひどいことを仰ったのですか?」
「ひ、ひどいことだなんて……!! あのお方はただ、事実をありのまま、事実として口になさっただけで……!」
ハリエットは、どこか空元気のような明るさで、口元にぎこちない笑みを貼り付けながら言う。
そして、なんでもない過去を話すかのように、自らそれを教えてくれた。
「私、幼いころにウォルター陛下との結婚が決まって……。あのころ、父や兄、まだ存命だった母と一緒に、ファブラニアへご挨拶に行ったのです。……そのとき、まだ王子だった陛下が……」
「……」
「は、恥ずかしいですよね。私、その時は浮かれちゃって、ついつい似合わない、おめかしをして……」
その言葉に、リーシェは目を細めた。
「な、何度思い出しても、身の程知らずというか。私なんかが、着飾って美しいお人形のようになれるはずもないのに、馬鹿だったんです。目つきが悪くて、人を不快にさせる顔を、どうしてウォルター陛下にお見せできたのか。自分でも不思議なくらいで、えへへ……」
傷ついた心を誤魔化すような、乾いた笑いだ。
だから、リーシェは口を開く。
「……恥ずかしいのは、他人を傷つけた側であって、傷つけられた側ではありません」
ハリエットが、びくりと肩を震わせた。
(きっと、ハリエットさまがご自身で仰った通りのことを、ファブラニア国王陛下が口にしたのだわ)
顔を顰めてしまいそうになるのを堪え、リーシェは続ける。
「ハリエットさま。目つきが悪い、というのは?」
「わ、私。気付くとぎゅっと顰めっ面をして、周りを睨んでしまうのです……。そんなつもりないのに、無意識に力が入ってしまって、怒っているみたいな、怖い顔になってしまって」
「……」
その言葉に、薄々抱いていた想像が当たっていることを予感した。
「ありがとうございます。この次の質問は、幼かった頃のハリエットさまにお聞きしたいのですが」
「は、はい……?」
「対面のときのおめかしをした際。――小さなハリエットさまは、嬉しかったですか?」
「!!」
ハリエットから、息を呑むような気配がする。
「わ、私は、いえ。……思い出すと本当に、自分が恥ずかしくて……」
俯いた彼女の手を、リーシェは柔らかく包むように握った。
「……子供の頃のハリエットさまも、同じお気持ちで?」
「……っ!」
小さなくちびるが、ぎゅうっと結ばれる。
ハリエットは恐る恐る俯くと、泣きそうなほどに小さな声音で、絞り出すように呟いた。
「…………いいえ……」
弱々しい声が、静かに紡ぐ。
「照れ臭かった、です。……でも、恥ずかしくはなかった。どきどきして、あの方に、少しでも。……この結婚が、嫌じゃないと、思ってもらえたらって」
「……ハリエットさま」
「ほ、本当はウォルター陛下は、ガルクハインの姫君と婚約なさりたかったのだそうです。でも、それは叶わなかったと、聞かされていました」
思わぬ事実にリーシェは驚く。だが、いまはハリエットの問題が先だ。
「……ハリエットさまは、元々お洒落が嫌いでいらしたわけではないのですね?」
「……っ」
リーシェがくるんだハリエットの手は、僅かに震えている。
「み……みっともないって、思ってはいるんです。いまの、だらしなく伸ばした髪で、顔を隠した私だって。……素顔の私と、同じくらいに」
ハリエットはゆっくりと、刻むように想いを話してくれる。
「でも、やっぱりみっともない……。私なんかが、『お洒落をして変わりたい』って思うこと自体が」
「ハリエットさま」
「分かってるんです。すごくおこがましくて、恥ずかしい……!」
リーシェはそっと、彼女の手から手を離した。
そして代わりに、ハリエットの頭をそうっと撫でる。
「り、リーシェさま?」
「不躾でしたらごめんなさい。……こんなに震えて、それほどに辛いことをお話させてしまいました」
ハリエットが、前髪の下でぱちぱちと瞬きをしたような気配がした。
「私が震えているときも、頭を撫でて下さる方がいて、とても安心したのです」
昨日、幽霊を怖がるリーシェに対して、アルノルトがそうしてくれたことを思い出す。
ハリエットの金髪は、やはりちゃんと手入れされており、絹のような手触りだ。
「ふ、不思議、ですね」
ハリエットはぽかんとしながらも、思わずといった様子で口を開く。
「安心、出来るような気が、します」
「それはよかった」
ほっとして微笑むと、ハリエットは気恥ずかしそうに俯いて口を開いた。
「……リーシェさま、でもあの、どうして私なんかにこんな……」
「ごめんなさい。でも、どうしても放っておけなくて」
「え……」
金色をした彼女の髪を、するりと撫でる。
「僭越ながら申し上げます。ハリエットさま」
そうして彼女を見つめながら、リーシェはきっぱりとこう告げた。
「――――あなたの瞳は、乾燥しています」
「………………はえ?」
聞き間違いだろうか、という反応が返される。
しかし、決して聞き間違いでも言い間違いでもない。
リーシェは明確な意思を込め、彼女にもう一度説明した。
「恐らく絶対に乾いています。恐らくは時間が空けば必ず本を読み、夜遅くまで蝋燭の灯りで読書をなさっているでしょう? なんなら花嫁修行の最中ですし、侍女長さんが厳しそうですから、起きていることが気づかれないように月明かりで読んでいる可能性もあるとお見受けしました。いかがですか?」
「ひっ、ひええっ、どうしてそれを……!!」
「人は、手元の作業に集中すると瞬きの回数が減り、眼球の表面が乾きやすくなるのです。そこにきてこの前髪。眼球の至近距離に物がある状況は、目に大変な負担をかけるばかりか、細かい傷の原因にもなりかねません」
大真面目な顔で話すリーシェの言葉に、ハリエットがどんどん青褪めていった。
恐らくは、思い当たる節があるのだろう。
「試しにハリエットさま。目を開けたまま、十秒以上瞬きをしないでいられますか?」
「む、無理です、想像しただけで無理です……!!」
「普通の方は、まったく問題なく開けていられるのです」
「!!」
衝撃を受けたらしきハリエットに、リーシェは言い重ねる。
「眼球が乾燥し、表面に細かな傷の入った状態が続くと、眩しさを感じやすくなります。それに、なるべく乾燥しないようにと、目の開き方に制限が掛かってしまう。これが何を意味するか、お分かりですか?」
「も、もしかして……」
「そうです。眉間にぐっと力が入り、無意識に顔を顰めてしまう」
リーシェは思い出す。昨日、街を歩いていた際に、ハリエットはずっと俯きがちだった。
彼女の性格もあるだろうが、恐らくそれだけが理由ではない。ヴィンリースの港町は、街中の壁が白く塗られ、初夏の陽光を跳ね返しているのだ。
彼女の目に、それはあまりにも眩しかっただろう。
少しでも刺激から逃れるため、反射の少ない足元を見ながら歩いていたとも考えられる。
「私には少々、薬学の心得がありまして。……少しでも、ハリエットさまの健康のお役に立ちたいと、そう願っています」
「あ、あえ、それは……」
「お聞かせください、ハリエットさま」
リーシェは、前髪ごしに彼女の瞳を覗き込み、にこりと笑った。
「お洒落をしたいけど、そう願うことすら恥ずかしく感じると仰るのなら。――『健康のために』と、そんな理由をきっかけになら、勇気を出していただけますか?」
「……っ」
「エルゼ」
リーシェが呼ぶと、扉の横に控えていたエルゼがすっと前に出る。
彼女の傍に置かれた箱には、エルゼが先ほどアリア商会に注文してくれた、数枚のドレスが抱えられているのだ。
「失礼します。ハリエットさま」
「ひっ……! ひえええ……っ」
か細い悲鳴が、客室に儚く響き渡った。




