126 甘い囁きに警戒します
「海辺を散歩したいとご相談したところ、こちらの浜をご案内いただきましてね。――お二方がいらっしゃるとは思わず、お邪魔して申し訳ありません」
(また、分かりやすい嘘を……)
リーシェたちが砂浜にいることを、ラウルが気付かなかったわけがない。
けれども彼は、髪やドレスの濡れているリーシェを見てくすっと笑い、帽子を差し出してくる。
その笑い方も、本物のカーティスそっくりだった。
「どうぞ」
「……ありがとう、ございます」
お礼は言うものの、受け取るにあたって警戒する。ラウルの向けるまなざしが、こちらの動きを観察するようなものだったからだ。
狩人人生のラウルは信用していたが、いまのラウルは目的が分からない。
この視線の中では、慎重に近付くべきだろう。
そう思っていると、リーシェの隣から手が伸ばされた。
「アルノルト殿下」
傍らに立ったアルノルトが、ラウルの差し出した帽子を取る。
「妻に代わって礼を言う。……リーシェ」
頭の上に、ぽすんと帽子を乗せられる。
それを両手で押さえ、しっかりと被り直しながら、アルノルトとラウルを順番に見上げた。
「ありがとうございます、おふたりとも」
「……」
「……」
けれどもふたりはリーシェを見ない。
カーティスのふりをしたラウルは、にこやかな笑みのままアルノルトに告げる。
「午前中は、ハリエットのために商人を呼んでいただきありがとうございました。ガルクハインの品々を、大変興味深く拝見したようですよ」
一方で、アルノルトはどうでもよさそうな無表情のままだ。
「それは何よりだ。他にも何か要望があれば、気兼ねなく申されるがいい」
「それでしたら、是非ともリーシェ殿とお話をさせていただきたく」
「……」
ラウルはリーシェに微笑みかけながら、こう付け足す。
「妹から、リーシェ殿も大変な読書好きと聞きましてね。夕食後などに、語らいの場をいただければと思うのですが」
(どう考えても、話をすることが目的じゃなさそうだけれど……)
ラウルの視線が、再びアルノルトに向かう。
その瞬間、ラウルがアルノルトを観察している可能性に気が付いて、リーシェははっとした。
『アルノルト・ハインは、手負いかもしれない』
思い出されたのは、狩人人生での言葉だ。
アルノルトはいま、上着を脱いだシャツ姿であって、いつもより薄着になっている。体の動きや癖を読み取るのは、当然薄着の方がやりやすい。
(アルノルト殿下の傷跡を、もしもラウルが見抜いたら……)
あれは、アルノルトにとって唯一の弱点であり、恐らくはあまり知られたくない傷跡だ。
それをラウルに暴かれたくなくて、リーシェは彼の注意を引くことにした。
「……もちろんですわ、カーティス殿下!」
明るい声でそう言って、にこにこしながら前に出る。
もちろん、リーシェより背の高いアルノルトを隠すことなど出来ないのだが、こうすることで少しでもアルノルトのことを守れればいい。
「カーティス殿下は、どのようなご本を読まれるのですか?」
「本と名の付くものであれば、いかような分野であろうとも。そこに文字が書かれていれば、なんでも手に取って読んでみたくなります」
確かにカーティスが言いそうな言葉に、リーシェは偽りの笑顔で頷いた。
「そのお気持ち、とってもよく分かります」
「リーシェ殿も同じとは嬉しいな。今日のような夏の日は、木陰に寝そべって読書をしたいものです。傍らに甘い菓子でもあれば、言うことはありませんね」
なお、ラウルは甘いものが嫌いである。
本物のカーティスは甘党だから、それを演じているのだろう。しかし、ラウルの内面を知っているリーシェにとって、あまりにも白々しい会話でしかない。
(たとえ表面的なやりとりであろうとも、なんとかしてアルノルト殿下から注意を逸らさないと……!)
だが、張り切るリーシェの努力も虚しく、ラウルは再びアルノルトに微笑みかける。
「本当に素晴らしい婚約者殿だ。アルノルト殿が実に羨ましい」
(っ、ラウル!!)
笑顔を張り付けたまま、心の中で抗議した。
(どうしてこの流れで、アルノルト殿下を挑発するような笑顔を向けるのよ……!!)
後ろのアルノルトが、どんな顔をしてラウルを見たのかが分からない。リーシェがさり気なく振り返ろうとする前に、ラウルが続けた。
「報せを受けたときは、とても驚きました。あのガルクハインの皇太子殿下が、他国のご令嬢と突然の婚約を発表なさった上、婚姻の儀がたったの三か月後だとは」
赤い瞳が、リーシェの後ろにいるアルノルトを見上げる。
「随分と急なお話ですね。……アルノルト殿は、それだけ婚約者殿に夢中だということでしょうか?」
「……」
その瞬間、空気が冷えたような心地がする。
恐らくは、アルノルトがラウルを静かに見据えたのだろう。聞いているのが居た堪れなくなり、リーシェは話を逸らそうとする。
「あの、カーティス殿下。話は変わりますけれど、ハリエットさまは……」
しかし、リーシェの言葉は遮られた。
そうしたのは、目の前にいるラウルではなく、後ろに立っているアルノルトの方だ。
「――ああ、そうだ」
「!」
伸びて来た手に、腰をぐいっと抱き寄せられる。
アルノルトはそのまま身を屈めると、彼が被せたはずの帽子を取り、後ろからリーシェの耳元にくちびるを寄せた。
そして、ラウルを見ながらこう口にする。
「一目見た瞬間から、彼女に惚れ込んで仕方がなかった」
「――……っ!!」
その言葉に、リーシェの左胸がずきりと痛んだ。
体が硬直したことは、当然アルノルトに気付かれただろう。
けれどもアルノルトは構うことなく、リーシェの鼓膜へ刻むような低い声で、ゆっくりとラウルに告げるのだ。
「心底手に入れたいと願い、手段を選ばずに求婚して、それを承諾させている。…………婚姻を急いでいるのは、一刻も早く妻にしたいという想いからだ」
「で、殿下……」
アルノルトの手から逃れようとすると、今度は左手が捕まった。
後ろからアルノルトの手に繋がれて、指同士を絡められる。
「こうでもしなければ、他の男に奪われてしまいかねないからな」
「……っ」
言葉だけならば、くらくらするほどに熱烈な囁きに聞こえるかもしれない。
だが、リーシェはちゃんと気が付いていた。
アルノルトの言葉には、明確な嘘の響きがある。
もちろん、アルノルトはそれを隠せなかったのではなく、恐らくはわざと隠していないのだ。
いま紡いでいる言葉は、目の前の男に告げるための偽りなのだと、リーシェに悟らせるためにそうしている。
(……大丈夫)
リーシェはこくりと喉を鳴らす。
(問題なく、殿下の意図を汲めているわ)
婚姻の儀までの期間が短いことは、リーシェも当然気になっていた。なにしろ求婚をされたのが五の月で、儀式は八の月の中頃だ。
リーシェは元々、最初の婚約者であるディートリヒとの婚姻を、この年の九の月に行うことになっていた。
そのお陰で、花嫁衣裳などの用意はある程度進んでいたものの、ガルクハイン側はそうではなかっただろう。
儀式の準備は元より、各国から賓客を呼ぶにあたっても、かなりの無理をしたと聞いている。大国ガルクハインの招待だからこそ、他国の王侯貴族たちも参列を表明してくれたのだ。
合理的な性格のアルノルトが、なんの考えもなくそんなことをするはずがない。
ましてや、いま彼が口にしたような恋慕などが、そんな行いの理由になるわけもないのだった。
そのことを、リーシェは理解している。
「……リーシェ殿は、きっと幸せな花嫁になられるのでしょうね」
ラウルが、ほんのわずかに引き攣った笑みでそう言った。
彼の余裕が崩れるのは、狩人人生も含めて初めて見る。リーシェの後ろにいるアルノルトが、それほど強くラウルを睨んだのだろうか。
だが、ラウルはすぐに取り繕い、やっぱり柔和な表情を浮かべる。
「妹のハリエットは、幼い頃からファブラニアとの婚姻が決まっておりまして。私は、妹にそれを強いている立場でありながら、身勝手にも心配しているのです」
そして、小さく肩を竦めた。
「なにせ、政略結婚で幸せになれる夫婦は少ないですから」
「……そうだな」
アルノルトの声に、僅かな嘲笑が滲んだような気がする。
「権力の差で相手国を追い詰め、政略結婚を迫るなど、唾棄すべき行為に他ならない」
「アルノルト殿下」
リーシェが彼を振り返る前に、奪われていた帽子が再び頭に被せられた。
「リーシェ。カーティス殿との本の話に、興味があるか」
「……はい」
実際はそれほどでもないのだが、ラウルの注意をアルノルトから逸らしたい。
そう思って頷くと、リーシェが見上げたアルノルトは、穏やかな視線をこちらに向けた。
「ならば、行ってくるといい」
「!」
その言葉には、やはり自分は一線を引いたような、そんな意味合いが込められている。
やさしい声音に、同じくやさしい表情だけれど、確かにそれが感じられた。
「俺はひとまず公務に戻る。何か用件があれば、執務室に……」
「アルノルト殿下!」
歩き出そうとしたアルノルトの手を、リーシェは迷わずに捕まえる。
「――……」
振り返ったアルノルトが、驚いたように目を丸くしていた。
リーシェはその手をぎゅうっと繋ぎ、勇気を出して指を絡める。
「……リーシェ」
(アルノルト殿下のさっきの言葉に、どんな意図があろうと関係ないわ)
いまはただ、自分がやるべきことをやるべきだ。
それから、『やりたいこと』にだって手を伸ばしてみせる。
そして、そのひとつには、こうしてアルノルトの手を取ることも含まれているような気がしていた。
「アルノルト殿下も、一緒がいいです」
「…………」
真っ直ぐに告げると、アルノルトは僅かに眉根を寄せる。
それに対抗するために、もう一方の手もアルノルトの手に重ね、両手でくるむようにした。
「殿下……」
だが、アルノルトは返事をしてくれない。
これはひょっとして、当たり前のように断られる流れだろうか。
そのことを危惧したものの、アルノルトはひとつ息をついてからこう言った。
「……時間が空けばな」
「!」
その返事に、ぱあっと嬉しい気持ちになる。
リーシェは安堵したあとで、自然な笑みをアルノルトに向けた。
「とりあえず、お城に戻って着替えましょうか。ほとんど乾いてきたとはいえ、大惨事になっちゃいましたし」
「……ああ」
「それではカーティス殿下、私たちはこれにて失礼します」
アルノルトと手を繋いだまま、にこにこしながら振り返る。
そのあとでぱっと笑顔を消し、ラウルに向かって牽制の一瞥を向けた。
「ご機嫌よう」
「……ええ、リーシェ殿」
ラウルはふっと目を細め、リーシェにだけ分かるような含みを向けてくる。
「では、また後ほど」
「……」
やはり目的が分からないものの、リーシェはひとまず、アルノルトと一緒に歩き出すことにした。
砂浜に残ったラウルが、小さな声で呟いたことなどは知る由もない。
「美男美女。……世間的に見れば、お似合いのふたりなんだろうけど」
その赤い瞳は、アルノルトではなくリーシェへと向けられている。
「なーんか、危なっかしいご夫婦だよなあ……?」
ラウルの顔には、獲物を狙う狩人のような笑みが浮かんでいた。
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