122 雨の雫と傷の跡
※前日にも更新しています。前話をお読みでない方は、そちらからご覧ください。
「だ、大丈夫ですか?」
急いで侍女にタオルを指示しつつ、リーシェはアルノルトに駆け寄る。その黒髪からぽたぽたと落ちる雫が、雨の凄さを物語っていた。
その後ろから、従者のオリヴァーが現れる。
「まったくもう。無茶なさるからですよ」
同じく水浸しになったオリヴァーは、呆れた顔でアルノルトを見た。
「雨宿りしましょうと申し上げたのに、突っ切って戻るとおっしゃるから。潔癖な面があるかと思えば、こういうところは案外雑ですよね」
「うるさい。お前たちはついて来なくとも良かった」
「そういう訳には参りませんよ。まあ、それだけ早く城に戻りたかったのでしょうけれど……」
「だから、うるさいと言っている」
アルノルトは煩わしそうに言ったあと、雨に濡れた前髪を、右手でくしゃりと掻き上げた。
そのぞんざいな仕草によって、普段は見えない額が露わになる。
前髪を上げたアルノルトを見て、リーシェは思わず息を呑んだ。
「……っ」
見慣れない髪型のせいか、いつも以上に大人っぽく見える。
水の滴るその姿が、何処か危うさを帯びていて、目のやり場に困るような気持ちになった。
「どうした?」
訝るような視線を受け、リーシェは仕方なく口を開く。
「……アルノルト殿下は、おでこの形まで芸術的に美しいなあと思い……」
「は?」
「あ、ちょうどタオルが来ましたね!」
侍女たちにお礼を言って、リーシェはその一枚を受け取った。ふわりと広げたあと、アルノルトに向き直って背伸びをする。
そうしてタオルをアルノルトの頭に掛け、わしわしとその黒髪を拭いた。
「…………」
オリヴァーを含めた周囲の人が、ぽかんとリーシェのことを見る。
(……?)
侍女たちだけではない。それぞれにタオルを受け取ろうとしていた近衛騎士たちも、みんな驚いているようだ。
何事だろうかと思いつつ、それでも懸命に手を動かした。
するとしばらくして、俯いているせいで顔の見えないアルノルトが、淡々とした声音で名前を呼んでくる。
「……リーシェ」
「はい?」
「自分で拭ける」
「…………」
ぱちぱちと、ふたつ瞬きをしたあとで、リーシェは事態を飲み込んだ。
「――――ぎゅわあっ!?」
慌ててタオルから手を離し、リーシェは万歳のポーズを取る。
『敵意はありません』の格好をしたまま、ぎくしゃくと二歩ほど後ずさった。
騎士や侍女たちが硬直する中、オリヴァーだけが笑いを堪えている気配がするも、そちらの方を見ることが出来ない。
「もっ、申し訳ありません、出過ぎた真似を!!」
「……いや」
「ふっ、くく、ありがとうございますリーシェさま。申し訳ありませんが、このままアルノルト殿下のお世話をお任せしても?」
我慢しきれていないオリヴァーを、アルノルトがじろりと見る。だが、オリヴァーは臆することもない。
「何分、自分もこの通りの有り様ですので。お願い出来るでしょうか」
「わ、わわわ、分かりました! アルノルト殿下、こちらへ……!!」
とにかく今は一刻も早く、衆目から逃げ出したい。その一心でアルノルトの腕を引き、四階へ向かう。
アルノルトを部屋に押し込めたあと、急いで廊下の水滴を拭いた。
(へ、平常心、平常心を……!)
ついでに鳴子の罠を確かめ、少し平静を取り戻す。そろそろ良いかと思ったところで、侍女に用意してもらったお茶を受け取り、部屋に戻ってノックをした。
「で、殿下。お着換えは終わりましたか?」
「ああ」
扉を開けるとき、何故か少々緊張した。
そうっと開けると、アルノルトは濡れた服を着替え、白いシャツ姿でソファに座っている。髪はまだ濡れたままだが、水滴が落ちるほどではない。
(落ち着いて。……うん、大丈夫)
ティーセットを乗せたトレイを持って、リーシェはそっと中に入った。
「殿下、お茶です。お体が冷えているはずなので、冷めないうちに」
「ん」
書類を読んでいるアルノルトは、簡単な返事を返してくる。それでも彼の右手が、ソファの隣をぽんぽんと叩いた。
こちらに座れということだろう。そういえば昨夜もこうして呼ばれ、隣同士に座ったのだ。
あのときはなんの疑問も持たなかったが、向かい同士に座るのでも良かったような気がする。とはいえ、わざわざこれを断って、別のソファに座るまでもない。
リーシェは大人しく隣に掛けると、アルノルトを見上げる。
「両替所の視察は、もうよろしいのですか?」
「今日の分はこれで切り上げだ。明日また数軒回って、それで全部になる。……そちらに問題は」
「ハリエットさまにお悩みがありそうで、それを少々心配しております」
「そうか」
まったく関心のなさそうな声音だった。
交流のある国の王族なのだから、多少は取り繕ってもいいように思えるが、アルノルトにその気配はない。
(そういえば、昨日ハリエットさまが転んだのを見ても、アルノルト殿下は一切動く気配が無かったわね……)
それどころか、ハリエットが泣いているのを見ても、本当にどうでもよさそうにしていた。なんというか、やさしさに起伏がある。
そんなことを考えつつ、書類をめくるアルノルトを見上げた。
「殿下」
「なんだ」
「傷跡が、痛みますか?」
アルノルトは、一瞬驚いたような顔をしてリーシェを見る。
けれどもその後で、ふっと息を吐き出してから目を伏せた。
「……雨のときは、時折な」
その言葉に、リーシェは眉を下げた。
アルノルトの動きは普段通りだが、よく見ると若干左を庇っているような気がする。彼の首筋に傷跡があるのを知らなければ、ほとんど気付けないような違和感だ。
それでも、リーシェには確かに感じられた。
「だが、何故分かった?」
「……殿下がちょっとでも辛そうなのは、なんとなく察せられるようになってきたんです」
リーシェだって、アルノルトに体調を心配されてばかりというわけではないのだ。古傷が雨の日に痛むのは、薬師人生の患者からも聞いていた。
だが、雨天が古傷に響く症状は、はっきりとした薬があるわけでもない。
心配になって、リーシェは眉を下げる。
「お湯を用意しましょうか。タオルを浸して傷跡を温めたら、少しは和らぐかもしれません」
「気にしなくていい」
「……でも」
アルノルトは、柔らかい声で言う。
「多少は軽くなった。だから、これ以上は何もいらない」
「……?」
特別何かをしたわけではないのに、これ以上とはどういうことだろうか。
とはいえ、あまり大袈裟にすると、この傷跡のことが知られてしまうかもしれない。
この傷跡は、神懸かり的な剣術を扱うアルノルトの、唯一の弱点でもあるのだ。
(そういえば、狩人人生でのラウルも言っていたわ)
五年後の未来において、シグウェル国はガルクハインとの戦争に突入する。
ハリエットが国庫を傾かせ、処刑された後に、賠償としてファブラニア側の交戦に加担したのだ。
そのときは王室の持つ戦力として、リーシェが属する狩人集団も用いられた。
とはいっても、リーシェたちは戦場で使われるわけではない。その手前の森に入り、諜報をする傍らで、可能な限り敵の戦力を削ぐことが命じられていた。
そんなとき、岩陰で単眼鏡を覗き込んでいたラウルが、小さな声で呟いたのだ。
『……アルノルト・ハインは、手負いかもしれない』
その言葉に、リーシェを含めた狩人たちは驚いた。
アルノルト・ハインの姿なら、その少し前からようやく捉えられるようになったところだ。
レンズの反射などで気付かれないよう、太陽光の向きなどを慎重に考慮し、それでようやく確認できたのである。
だが、ラウルは一目見た途端、突然そんなことを口にした。
『ラウル。手負いって、本当に?』
『うん。多分、体の左側……上半身か? 誰かが傷を負わせた可能性もあるな』
今思えば、ラウルが感じ取ったその怪我とは、首筋の傷跡のことなのだろう。
あのときのリーシェには分からなくて、騎士人生でも察知できなかった。そのふたつの人生を経由し、ようやく今世になって知ることが出来ている。
けれどもラウルは、確信めいた口調で言い切った。
『あの左を狙えば、アルノルト・ハインを落とせるかもな。――総員、毒矢を構えろ。戦場での矢は全部弾かれたが、いまなら奴も油断してる』
その言葉に、仲間たちがみんな矢をつがえる。
数日前、アルノルト・ハインを封じるために放った毒矢は、すべて彼の剣によって封じられてしまった。ラウルがそう命じたのは、負傷という好機を逃がさないためだろう。
(アルノルト・ハインは百メートル先。こちらが風下で、声が届いているはずもないわ。……だけど、なんだか嫌な予感がするような……)
リーシェは妙に胸騒ぎがして、もう一度単眼鏡を覗き込んだのだ。
そして次の瞬間、息を呑んだ。
『――っ!?』
その青い目が、真っ直ぐにこちらを見た気がする。
ぞっとしたあと、それが気のせいではないとすぐに分かった。アルノルト・ハインは間違いなく、こちらを見ているのだ。
『みんな、駄目……!』
『リーシェ?』
『アルノルト・ハインはこちらに気付いているわ。矢を射っても当たらない』
リーシェの言葉を聞き、周囲に緊張が走った。
アルノルト・ハインの動きによっては、敵の騎士たちに囲まれる。リーシェはほとんど息を殺して、レンズの中の男を見つめた。
アルノルト・ハインは、静かに目を細める。
かと思えば、暗い瞳のままくちびるだけで笑った。そのあとに、自らの左胸を、親指でとんっと叩く。
心臓はここだ、と。
射抜いてみろと挑発するように、リーシェに向けて示したのだ。
あの時は何の気まぐれか、アルノルト・ハインがこちらを積極的に攻撃してこなかったため、戦線を離脱することが出来た。
いまは隣にいるアルノルトを見上げながら、ぼんやりと考える。
(あのとき、仮に私がこの人の心臓を射抜いていたら、今頃どうなっていたかしら)
ひょっとしたら、リーシェは五度目の人生で死ぬこともなく、二十一歳の誕生日を迎えていたかもしれない。
けれど、それはあんまり想像できなかった。
(……訪れなかった未来のことを、どれだけ考えても仕方がないわ。そんなことよりも結局、エルゼたちが昨日見た影は、狩人のみんなだったのかしら)
リーシェは神妙な面持ちで、頭の中を整理する。
(窓から室内に侵入できて、足音もなく歩き、気配を消す。――『普通の人間』には出来ないけれど、あの人たちは普通じゃないもの)
昨日の路地裏や、先ほどのラウルを見ていれば、正体が彼らだったというのが一番納得できる。
(そして、犯人が狩人の誰かであれば、私が仕掛けた罠は意味がない。あの人たちなら、そういうものが仕掛けられていないかを見抜いてしまうし、事実ラウルには気付かれていたわ)
だが、リーシェの中で幽霊だという線が消しきれないのは、窓が閉まる音を侍女に聞かれているという点だ。
(みんなが、蝶番の錆びた音を聞かれたり、侍女に姿を見られたりするかしら。ううん、でも……)
考えれば考えるほど、「やはり幽霊なのでは」という可能性がちらついてしまう。とはいえ、思考を停めるわけにはいかない。
「……」
不意に、アルノルトがリーシェの左手に触れた。
「殿下?」
彼は何も返事をしないまま、サファイアが輝く指輪のふちを、するりとなぞる。
(昨日も、こうして私の指輪に触れていらっしゃった)
リーシェをくすぐったがらせる意図ではないようだが、何の理由があるのだろうか。
嫌ではないのだが、なんとなく落ち着かない。
リーシェはそわそわしながらも、ふと、昨日のアルノルトが言ったことを思い出した。
『金細工はコヨルの技術か。これほど細かい細工にもかかわらず、よく手入れされている』
(もしかして、アルノルト殿下は)
それと同時に、アルノルトがこちらの名前を呼ぶ。
「リーシェ」
「はい」
考えていたことが気付かれないよう、平常心を装ってアルノルトを見上げた。
「雨が止んだ」
「あ。本当ですね」
先ほどまでの大雨が嘘のように、窓から見える空が晴れている。空気は朝よりも透き通っていて、白い陽光がとても眩しい。
「午後はご公務をなさいますか? それとも、カーティス殿下たちとの外交を……」
「いや。可能であれば、お前を連れて行きたい場所がある」
「私を?」
アルノルトは立ち上がると、リーシェに向けて手を伸ばす。
「出られるか?」
意外な提案に驚きつつも、リーシェは頷いてその手を取った。
***
「わあ……」
夏用の軽やかなワンピースに着替え、日よけの白い帽子をかぶったリーシェは、飲み物の入ったバスケットを手に歓声を上げた。
「おい、砂浜で走るな。転ぶぞ」
「ごめんなさい、だって……」
アルノルトが後ろからそう言うが、はやる心が抑えられない。
「海……!!」
眼前に広がる大海原に、きらきらと目を輝かせた。




