120 それではお喋りしませんか
※前日にも更新しています。前話をお読みでない方は、そちらからご覧ください。
後のことを侍女のエルゼに任せ、明日の再訪をタリーに依頼したリーシェは、一度ドレスを着替えてから外に出た。
進言してくる侍女長をかわしながら、にこにこ笑ってハリエットの手を引く。そうして、戸惑うハリエットを、目論見通りの場所へ連れて行くことに成功した。
「ひえええ……」
その場所とは、馬上である。
鞍に跨ったリーシェは、ハリエットを後ろから抱き締めるような形で手綱を握り、草原の丘をゆっくりと常歩していた。
横向きに座ったハリエットは、鞍の持ち手を握り締め、か細い声で繰り返す。
「私、お馬さんの上、上に乗って……」
「確か西の大陸では、女性は馬に乗らないのですよね」
ぽくぽくと歩く馬の上で、リーシェは明るくハリエットに言った。
「丘の上までお連れしたかったのですが、明け方に雨が降ったので。馬車だと車輪がぬかるみにはまりそうですし、坂道なので馬にしてみました」
「こっ、この大陸では、女性同士で馬のふたり乗りまでなさるのですか……!?」
「いえ! こちらでも、女性は基本的に手綱を握りません」
笑顔のままできっぱり言うと、ハリエットがはくはくと口を開閉させる。
「普通は男性が乗っている前に、いまのハリエットさまのような横乗りをします。やはりドレスだとどうしても乗りにくいですし」
「そっ、それなのにリーシェさまは、どうして軽々こんなことを……!?」
そう尋ねてきたハリエットは、耳が赤く染まっていた。
両手は鞍から離れないが、意外なことに体は震えていない。背筋も綺麗に伸びていて、きょろきょろと辺りを見回している。
(……ハリエットさまも、わくわくしていらっしゃる?)
それに気が付いたリーシェは、微笑みながら答えた。
「いま着ているドレスはスリット入りなので、馬にも普通に跨れます」
片手だけを手綱から離し、ふわふわしたドレスの裾をつまんで見せる。
「ドレスがはだけても見苦しくないよう、中に色々履いておりますのでご安心を」
「ほあ……」
「っ、リーシェさま、ハリエット殿下!!」
リーシェたちの後ろを徒歩で随行していた侍女長が、額を押さえながら口を開いた。
「このようなことを見過ごすべきか、外交上悩んでおりましたが……! やはり、今からでも遅くありません! お二方、女性が馬に乗るなんてお転婆が過ぎますわよ! 馬車ならご用意いたしますので、すぐに馬からお降りくださいまし!!」
その言葉に、ハリエットがびくりと肩を跳ねさせる。
リーシェが振り返ると、随行するハリエットの侍女たちはみんな同意見だという顔をしていた。護衛である女性騎士たちも、怪訝そうにリーシェを見ている。
「……」
リーシェはもう一度、ハリエットの後ろ頭を見遣った。
ふたり乗り用の鞍は段差があり、リーシェからはハリエットのつむじを見下ろす形だ。侍女長の言葉に俯いたハリエットは、どこか残念そうにも見える。
「ハリエットさま」
「ひゃい!」
リーシェはそっと身を屈めると、鞍を掴んだハリエットの片手を取る。
その手をリーシェ自身の腰に回させると、ハリエットの後ろから、赤く染まったその耳に囁いた。
「振り切ります。……私に、しっかり掴まって?」
「えっ」
そうして、小柄な栗毛馬の手綱を握り直すと、馬の呼吸に合わせて一気に速度を上げさせた。
「ひっ、ひえええええええええええ!?」
お利口な馬は、ハリエットがリーシェにしがみつくのを察知してから、丘の坂道をぐんぐんと駆け上がった。
「はっ、ハリエット殿下、リーシェさま!?」
「ごめんなさい、侍女長さん! お叱りは後から、私だけにお願いします!」
侍女長が大声で叫んでいるが、その声はすぐさま遠ざかる。ハリエットは最初こそ身を縮こまらせていたが、徐々にその顔を上げて前を見た。
「す、すごい、もうこんなところまで……」
先ほどまでは遥か向こうにあった岬が、いまはすっかり目の前だ。
心地よい風を感じながら、リーシェは笑う。
「クラディエット冒険記にも、馬に乗るシーンがありましたよね」
「はっ、はい、ジーンが旅立つ前の日の……」
「素敵な挿絵もあって、ページを開いた瞬間に見惚れてしまいました。あんなに細やかな線を刷り上げることが出来るのは、シグウェル国の造本技術があってこそです」
自国を褒められたハリエットは、気恥ずかしそうにしたあとで、戸惑いがちに後ろを振り返った。
「みなさんが、あんなに遠くに……」
岬には小さな森があり、心地よい木陰になっているようだ。そこまで行って馬を停め、まずはリーシェが先に降りる。
ハリエットに手を伸べて地面に下ろすと、ここまで連れて来てくれた馬の頭を撫でてから、木の枝に繋いで休ませた。
「海風が冷たくて、心地いいですね」
「……」
ハリエットは、どこか見惚れたように景色を眺めている。
岬の森から見下ろす海辺の街は、陽光に照らされて生き生きとしていた。白い海鳥が飛び交う下には、真っ青な海が広がっている。
「……リーシェさまは、何処にでも行けるお方なのですね」
リーシェは、風になびく髪を押さえながら、ハリエットの方を見た。
「リーシェさまのような女性になれたら、どんなに良いか……」
そう呟いたあと、ハリエットははっとしたように首を横に振る。
「ごっ、ごごご、ごめんなさい!! 私なんかが恐れ多い! こんな、こんなことを……」
「……私になっては駄目ですよ。ハリエットさま」
「え……」
リーシェは少し苦笑して、彼女に告げた。
「私が行きたい場所に行くことは、ハリエットさまにとっての『どこにでも行ける』とは違うはずですから」
「そ、それは」
「ハリエットさまご自身は、どのような場所に行ってみたいですか?」
するとハリエットは、聞いたこともないような言葉を聞いたかのように息を呑んだ。
リーシェは海を見下ろしながら、こう続ける。
「たとえば私がいま行きたいのは、美しいものがあるところです」
「美しい、もの?」
「向日葵で埋め尽くされた花畑や、一面に広がる紅葉の絨毯。岸辺に打ち上げられた流氷のかけらが、朝日にきらきら輝いて、宝石みたいに光る海岸……」
かつての旅で見たものを思い出し、目を細める。
「そういうものを、とあるお方にお見せしたくて」
アルノルトは、一体どんな顔でその景色を見るだろうか。
少しは興味を引けるかもしれないし、まったく何も感じないと言われるかもしれない。そうしたらまた次の旅に出て、ふたりでたくさんの綺麗なものを探しに行く。
いつの日か、そういう旅が出来たらいいと思う。
「私とハリエットさまの望みは、きっと違うと思うのです」
「わ、わたし……。わたしは」
「よかったらお喋りしませんか? 他の誰かではなく、ハリエットさまご自身がなりたい姿や、夢のお話を」
「……」
ハリエットは、それこそ夢の中にいるかのような声音で呟いた。
「……私が、なりたいもの……」
そのあとで、むぎゅっとくちびるを結ぶ。
俯き、もじもじと指を動かしたあとで、思い切ったようにこう叫んだ。
「わ、私……! これっ、あのっ、じ!! 侍女のところに戻ります……!!」
「あ!」
そう言って駆け出したハリエットを、リーシェは追ったりしなかった。
女性騎士の護衛たちが、丘の中腹ほどまで駆けてきている。ただひとりの気配を除き、外に不審者の気配もないので、危ない目に遭うことはないはずだ。
あとはただ、ハリエットが転ばなければ良い。はらはらしながら見守っていると、近くの木から声がした。
「あんた本当に、見れば見るほど綺麗な顔してるな」
「……」
リーシェはふうっと溜め息をつく。
その反応が面白いのか、上から降ってくるその声音には、隠すつもりもない笑いが滲んでいた。
「そのふわふわしたコーラルピンクの髪も、エメラルドみたいな色の大きな目も、全部可愛い。あの婚約者どのが、『俺』に対してばっちばちに牽制してくるわけだ」
「……心にもない褒め方をされると、居心地が悪いからやめてほしいわ」
過去の人生では、悪友のような関係性だった相手だ。たとえ向こうはそれを知らなくとも、リーシェにとっては違和感しかない。
「もう少し、人目のないところで近付いてくると思ったわ」
そう言って、リーシェはまっすぐに木の上を見上げた。
そこに居た男は、『王子カーティス』の姿などしていない。
黒いローブを身に纏い、枝の上にしゃがむような体勢で、膝に頬杖をついている。
髪色は焦げたような茶色をしているが、染めてから随分と経つようだ。髪の根元はオレンジ色で、彼の地の髪色が見えている。
つり目がちな赤い瞳を細めたその人物は、値踏みするような視線でリーシェを眺めた。
間違いなく、リーシェの知っている狩人ラウルだ。
「その割には全然驚かないな。あんたの悲鳴が聞いてみたくて、ちょっと楽しみにしていたんだけど」
「……悪趣味ね」
呆れながらそう言うと、どうしてかラウルは皮肉っぽく笑い、嬉しくて仕方がないという顔をする。




