119 そんなはずなど無いのです
※前日にも更新しています。前話をお読みでない方は、そちらからご覧ください。
「貴殿は賓客だ。儀礼的な挨拶とはいえ、膝をつく必要はない」
「……これはこれは」
ラウルは目をすがめ、にこりと微笑んだ。
「アルノルト殿は、思いのほか愛妻家でいらっしゃる」
(い、いまの流れで何故そんな話に……?)
どう考えても皮肉だが、アルノルトは一切表情を変えない。
まったく相手にはしていないものの、何かしらの意図が込められた、静かな視線を向けていた。
「妻を慮るのは、当然のことだからな」
「へえ。政略によるご結婚だとお聞きしていますが、婚約者殿をとても大切になさっているのですね? これは素晴らしい」
「あの、おふたりとも……」
リーシェがふたりをそれぞれに見ると、アルノルトはふっと興味を失ったような目をした。
「……長らくの船旅でお疲れだろう、カーティス殿。この街の案内は明日以降に行う予定だ。今日は休息に努められるがいい」
「お気遣い、痛み入ります。この城は波音が心地良いので、のんびりと過ごせることでしょう」
(つまり、アルノルト殿下とラウルは今日、別行動を取るつもりなのね)
恐らくはアルノルトの狙いだろうが、ラウルだってその隙に動くはずだ。
ふたりの目的は分からないが、いまのリーシェはガルクハイン側である。カーティスが偽物であることまでは伝えないとしても、ある程度の警戒はしておきたい。
そう思い、隣に立つアルノルトを見上げると、青い瞳と目が合った。
「……っ」
整った顔が間近にあるので、反射的に息を呑んでしまう。
アルノルトは、まったくなんでもないような顔をしながら身を屈めると、リーシェの耳元で小さく囁いた。
「……すまないが、王女の相手を頼む」
「!」
掠れた声と吐息が耳に触れ、くすぐったさにびっくりする。
それを表に出さないように、リーシェはゆっくりと頷いた。
「カーティス殿が城内に残られることもあり、警備は厳重に行う。何か不便があれば、気兼ねなく申し付けてもらいたい」
(ラウルのことも、監視するのね)
恐らくは、リーシェに向けた説明でもあるのだろう。こちらが伝えようとしたことを、言葉に出さなくても汲んでくれている。
リーシェはひとまず切り替えて、自分に与えられた任務を遂行することにした。
「ハリエットさま」
「!」
ラウルの後ろに隠れていた女性に、微笑みながら声を掛ける。
「護衛役は終わりになりましたが、今日は色々なお話が出来たらと思います。ご一緒しても?」
「はえっ、そ、そんな……!?」
声の裏返ったハリエットが、慌てふためきながら後ずさった。
「そっ、それは恐れ多いというか、私なんかがとんでもないというか……!! お邪魔にならない場所でじっとしていますので、その、お気遣いなく本当に……あの」
「本についての語らいも、是非ハリエットさまとしてみたいのですが……」
「よ、よろしいのですか……!?」
ハリエットがぱっと顔を上げたあと、たじろぐように俯いた。
「あ。で、でも……」
「良いじゃないか。お言葉に甘えておいで、ハリエット」
「お兄さま……」
ラウルの扮するカーティスに促され、ハリエットはおずおずと頷いた。彼女がラウルに気付いているかどうかは、もう少し探る必要がありそうだ。
「それでは、まずは……」
リーシェが話を進めていけば、ハリエットはますます身を縮こまらせるのだった。
***
「初めまして、ハリエット王女殿下。私めはアリア商会で会長職を務めている、ケイン・タリーと申します」
「は、はひ……」
応接室を訪れたタリーは、にこにこと笑みを浮かべながらそう述べた。
しょっちゅう伸ばしっぱなしにしている無精髭も、いまはきちんと剃っている。
商談用の黒い正装は、褐色の肌によく似合っており、一流の商人にふさわしい。
(さすがはタリー会長だわ)
かつての上司を前にして、リーシェは内心で驚いていた。
室内に並べられた品物は、どれも一級品ばかりだ。それでいて、むやみやたらに豪勢なわけではなく、雰囲気ごとに豊富な種類がある。
大人っぽい宝飾品や、可憐な印象のレース飾り。神秘的に透けたストールに、元気が出るような鮮やかな色の靴などが揃っていた。
タリーに行商を依頼したのは、リーシェがアルノルトへの同行を決めたあとのことだ。
準備日数も短い上、この街へ移動する時間も必要だったはずなのに、これだけの品を揃えるのは並大抵ではない。
「ハリエット王女殿下、是非こちらで存分に品定めを」
「どうぞ我々にお任せください」
「ひ、ひいい……!」
怯えた様子のハリエットをよそに、商会の幹部たちが商談を始める。その後ろでは彼女の侍女長が、うんうんと満足そうに頷いていた。
そんな上客と部下たちを横目に、タリーは白々しく一礼する。
「さて、それではリーシェさま。我々はいつもの商談の続きを致しましょう」
「……会長。いつもお願いしていますが、そんなに畏まるのはやめてください」
「くくっ」
面白がるように笑いながら、タリーはいくつかの書類を取り出した。
「そう堅いことを仰らず。俺は最近機嫌が良いんですよ。面白い商売にも手を出せて、妹の体調も落ち着いてきた」
その言葉を聞いて、ほっとする。
「よかった。アリアちゃん、元気になってきたんですね?」
「それもこれもお前さんのお陰だ。……そんなこんなでお嬢さま。お礼と言うには足りようもございませんが、ご希望の品をお納めいただきたく」
芝居めいた恭しさで差し出され、呆れながらも書類を受け取る。
そこに書かれた内容を見て、リーシェは口元に指の側面を当てた。
「……すごい。まさか、これほどの精度で集めていただけるだなんて」
「お気に召したか?」
「鮮度は右列参照ですね。一番古いのが半年前、直近が先月?」
「そうだ、数字を元に識別すればいい。西の情報が遅れているのは分かるかい」
「はい。情報筋の判断には三枚目を使えばよろしいでしょうか」
「公式なものはそれでいい。他に判断材料として、非公開だが共有しておく情報がいくつか」
細部を擦り合わせる必要もなく、とんとんと会話が進んで行く。三枚目の書類を確認し終えたとき、タリーがくつくつと喉を鳴らした。
「な、なんですか会長」
「いや? ただお前さん、どうにも話が早すぎると思ってな。まるで俺の部下たちと話しているみたいだ」
(……それはもう、かつてはあなたの部下でしたから……)
分析をする際のリーシェの思考は、一度目の人生でタリーに鍛えられたものだ。
(会長が味方だと、やっぱり心強いわ)
タリーのまとめる情報は、情報流出を防ぐために暗号めいた部分もある。しかし、法則を知っている人間が見れば、視覚的にも非常に読みやすい。
「いただいた情報、大切に使わせていただきます。決して悪用は致しませんので」
「その辺りは信頼してる。だが、使い所は間違えるなよ?」
リーシェが神妙に頷けば、タリーは満足そうに笑った。
「さあて。婚姻の儀の追加注文も承ったし、あんたへの用事は終わりだ」
そのあとで、応接室の一角を見遣る。
「――で、そろそろあっちを何とかしてきても良いかね?」
「…………」
タリーが顎で示した先には、大量の商品を前にうろたえるハリエットと、鬼の形相で立っている侍女長がいた。
「なりませんハリエット殿下、申し上げたでしょう!? 国王陛下はハリエット殿下に、ガルクハインでの自由な買い物を命じられているのです! ここで倹約などしては、却って恥ずかしいというもの。ガルクハイン金貨までご用意いただいておきながら、そんなささやかな買い物など許されませんよ!」
「ご、ごめんなさい……!!」
まくしたてるような侍女長の言葉に、ハリエットがどんどん縮こまる。
その様子を見て、タリーはやれやれと肩を竦めた。
「あー勿体ねえ。あの侍女長さん、黙ってれば凛とした良い女だろうに」
「タリー会長」
「おっと睨むなよ。それとあちらの王女殿下、伸ばした髪で顔を隠していらっしゃる。着ているドレスは上等品だが、季節外れの時代遅れだ」
髭の剃られた自分の顎を撫でながら、タリーは目をすがめる。
「大体あの生地、生産国が十年前に輸出を止めた布じゃねえか?」
「……やっぱり、会長もそう思われます?」
「お前の目利きも中々だな。古いものを使うのを、一概に悪いこととは言わねえが……」
リーシェはハリエットを見て、小さな声で呟く。
「顔を隠していらっしゃるのは、ご自身を守る盾なのでしょうか」
すると、タリーはこきりと首を鳴らしながら言った。
「どちらかといえば、俺には檻に見えるがね」
「……」
それはつまり、ハリエット自身を閉じ込めるものだということなのだろう。
「会長。申し訳ありませんが、後ほど侍女のエルゼとお話いただいてもよろしいでしょうか。それから、少し侍女長さんをお願いしても?」
「よしきた。レディ、よろしければあなたもこちらで品物をご覧になりませんか?」
「は!? いえ、私は結構です」
突然やってきたタリーに対し、侍女長は警戒心を露わにする。
そんな彼女に向けて、タリーはにこやかに告げた。
「どうやら今日お持ちした品々は、王女殿下のお眼鏡に叶わなかったご様子。明日また出直して参りますので、殿下にお似合いの品についてご助言いただければと」
「……ま、まあ、そういうことでしたら……」
タリーに目配せをされたリーシェは、まなざしでお礼を返してからハリエットに歩み寄る。
「ハリエットさま。何か少しでも、気になるものはございませんか?」
「う……」
口ごもったハリエットは、そのあとで慌てたように顔を上げた。
「あ! ちが、違うんです! 全部素敵で、素敵すぎて。品物に不満があったとか、そういう訳では、全くなくて……」
ハリエットの声が震えたような気がして、リーシェは目を見開いた。
(なにかに、怯えている?)
彼女は先ほどまで、侍女長に叱咤されていた。
その所為かもしれないが、どうにも違和感がある。
(買い物をすることが怖いとか……ううん、まさか)
「……ドレスや宝石からしてみれば、『こちらから願い下げよ』という心境ですよね……」
突飛な想像を浮かべたリーシェの前で、ハリエットがますます項垂れる。
「いくら私が人間だからって。ドレスを選ぶ側の立場だと思ったら、それは大きな間違いというか……」
「は、ハリエットさま?」
「実際は私が選ぶんじゃなくて、私がドレスさんに選んでいただく方なのに……。たまたま人間に生まれて来たからって、『いらない』とか言える身じゃないんですよね……本当にごめんなさい、ごめんなさい……」
ずうんと沈んでいきながら、ハリエットは最後に呟いた。
「……いっそ、本物の人形になれたらよかったのに……」
「お人形、とは?」
無意識の言葉だったのか、細い肩がびくりと跳ねる。
「こ、子供のころ、母に、言われました。――王女の務めは、政略結婚をすること。そして世継ぎを、次の王を成すことだと。そのためには、夫に愛される、『人形』のように愛らしい女性にならねばならないと……」
その言葉に、リーシェは思わず眉根を寄せた。
「で、でも私は、見ての通りの人間です。なんにも上手くできないし、見ている人を苛々とさせてしまいます。わ、私の顔だって、人に反感を持たれてしまう目付きだし」
ハリエットはそう言いながら、両手で自身の顔を覆う。
「本当に、何をやっても駄目……。せめて、大人しくして、邪魔にならないで、じっとしていなきゃと思うのですが」
「ハリエットさま……」
「……人を不快にするような顔を、見せちゃ駄目。俯いてなきゃ駄目。喋っては駄目……」
誰にも聞かせるつもりのないであろう小さな声が、ぽつぽつと紡がれる。
リーシェはそんなハリエットを見つめながら、宥めるように尋ねた。
「だから、そんな風にお顔を隠していらっしゃるのですか?」
「わ……! 私の顔をお見せしたら、陛下から破談を言い渡されてしまうかもしれません。そ、それだけは、避けなくちゃいけないんです。私の、生まれてきた、たったひとつの意味なので」
ハリエットは泣きそうな声で、けれどもはっきりと口にするのだ。
「私は、この政略結婚によって、人形としての務めを果たさなければ……」
それはまるで、縋り付くような声音だった。
そして、何度も言い聞かせるようなその言葉について、リーシェにも確かに覚えがある。
『…………ぜんぶ、明日までにおわらせなきゃ』
幼いころのリーシェには、その『教育』がすべてだった。
両親からきつく命じられ、絶対にそこからは逃げられない。
何人もの家庭教師が家を訪れ、朝から深夜まで授業が続き、ひとりになってからも課題が続くのだ。
そんな毎日だったから、両親と一緒に夜を過ごした記憶がない。
自分ひとりの部屋にいて、自分ひとりの寝台で眠り、目覚めればまた王妃教育の一日が始まる。
目の前にあるのは、学ばなければならない沢山の事柄だ。
それらを前にして、リーシェは必死に自分へと言い聞かせていた。
『できるようにならなきゃ。……ちゃんと、おべんきょうしなきゃ……』
ひとりの部屋で呟いたのは、リーシェの誕生日である七の月三十日だった。
あれは多分、六歳になった日のことだ。
屋敷の母屋の明かりは消え、きっともうみんな眠っていて、リーシェはひとりぼっちだった。
日付はもうすぐ変わりそうで、誰にも生まれてきた日の祝福をされなかったけれど、勉強に遅れが出ていたのだから当然だ。
そう思って泣きたかったのに、泣くのはとても恥ずかしいことだとも感じていて、代わりに何度も繰り返したのだった。
『男の子に、うまれてこれなかったんだもの。……だからかわりに、せめて、王妃さまになれなきゃ。じゃなきゃ、わたしの……』
ペンを動かす手を止めて、ごしごしと自分の目を擦ったことを思い出す。
『――――わたしの、うまれてきた意味なんて……』
リーシェはゆっくりと目を瞑った。
そうして密かに深呼吸をすると、ぱん! と自身の両手を叩く。
「ひゃあ!?」
「申し訳ございません、ハリエットさま」
驚いた様子のハリエットを前に、にっこりと笑ってこう告げた。
「少し、私にお付き合いいただいても?」
「っ、え……?」




