117 かつての知人とその記憶
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五度目の人生において、リーシェが所属していた狩人集団の頭首だった男は、いつも捉えどころのない微笑みを浮かべていた。
顔立ちは全体的に甘く整っていて、少しだけつり目がちの造りをしている。
他人をじっと見つめるくせに、視線の外し方が絶妙で、人懐っこさと馴れ馴れしさのちょうど中間に立つような振る舞いだった。
髪はよくある栗色で、それを無造作な短さに切り揃えている。長身だが、目立つほど高いというわけではなく、その体つきは細くて骨っぽい。
年齢は見たところ、二十歳前後というところだろうか。女性たちは、大抵が彼に好感を持ち、親しい友人として受け入れていた。
だが、彼には嘘が多すぎる。
『よおリーシェ。お前は今日も可愛いな』
まったく心のこもっていない微笑みを浮かべ、こんな軽口を叩くこともしょっちゅうだ。
栗色の髪は、彼の本当の髪色ではない。実際はオレンジにほど近い金髪を、特殊な薬で染めている。
彼曰く「生まれたときからの癖毛」だという髪質は、染色による傷みの所為だった。
年齢だって、見た目と同じかどうかは分からない。たくさんの女性と交流をしながらも、その付き合いに真摯さは皆無なのだ。
『俺? 別に、あの中の誰のことも好きじゃないよ』
挙げ句の果て、彼が名乗っている名前だって、どれひとつとして彼の本名ではない。
そして、リーシェを冗談まじりに口説いて見せるときと同じ笑みを浮かべたまま、部下たちに大胆な指示をするのだ。
『獲物が包囲網に気付いたか。まあいいさ、ここまでくれば大したことはない。……逃げられる前に狩り終えれば、こっちの勝ちだもんな?』
リーシェたちの前で、彼は「ラウル」と名乗っていた。
得体の知れない振る舞いをし、どんな状況でもへらへらとしながら、狩人たちを従える。
それでいて、その振る舞いからは想像も出来ないくらい、仕事熱心でもある男だった。
『――ラウル!』
狩猟小屋に戻り、被っていたフードを外したリーシェは、起き上がっているラウルの姿を見て驚愕した。
『もしかして、その状態で狩りに出掛けるつもりじゃないわよね?』
リーシェの予感は的中しており、仲間たちが困った顔をしている。ラウルはひょいと肩を竦め、わざとらしく嘆くのだ。
『なんだよリーシェ、つれないな。俺たちは家族も同然なんだから、帰ってきたらまずは「ただいま」だろ?』
『話を逸らそうとしないの! 肋骨にひびが入っているんだから、しばらく動いちゃ駄目だって言ったでしょう』
『大丈夫大丈夫。リーシェの痛み止めが効いてるから、いまならなんでも出来そうだ』
狩猟用の上着を羽織りながら、ラウルはにこっと笑ってみせる。
『さっすが俺たちの幸運の女神。弓の上達も早くて森にも馴染んで、薬も作れる! つくづく五年前、良い拾い物をしたよなあ』
『ラウル。痛み止めはゆっくり休めるように飲むもので、無理に動くためのものじゃないって言ったはずよ』
『お前が「がんばって」って言ってくれたら、もうちょっと元気になるかもよ?』
『私があなたに言うべきことは、「怪我が治るまで寝ててください頭首さま」の一言に尽きるわね』
リーシェがじとりと目を細めると、ラウルはどうしてか嬉しそうにする。
埒が明かなさそうな状況に、リーシェはふうっと息をついた。
『……あのね、ラウル』
『だーって大物の出現だぜ? せっかく狩り場に獲物が来たのに、じっと待っていられるわけないだろ』
どこか軽薄な笑みの中で、瞳だけは真摯な感情を帯びていた。
『俺はこう見えて、シグウェル王家への忠誠心に篤いんだよ』
『……』
ラウルはそう言って、真っ直ぐにリーシェのことを見たのだ。
その瞳は、深い赤色だった。
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「――それにしても、カーティス殿下がこんなにたくさん本を持ってきてくださるなんて!」
アルノルトの隣に座ったリーシェは、積み上げられた本の表紙を撫でながら言った。
城の四階、新しく準備した南側の部屋で、ふたりは一緒のソファに座っている。
眠る前のお茶を飲みがてら、『手土産』として渡された本を手に取って、それを眺めてみているのだった。
お互いがすでに入浴を済ませ、寝衣に着替えている。
普段は首筋を隠しているアルノルトも、眠る時は楽な衣服を着るらしく、ボタンのないシャツで鎖骨までが見えていた。
「見てください殿下。細やかな表紙の意匠まで、とっても綺麗に印刷されていますよ」
リーシェがにこにこしながら言うと、アルノルトは淡白な返事をする。
「そうだな」
一見すると無関心な様子だが、彼の手元にも本があった。本当に興味がないのであれば、そもそも手にしてすらいないはずだ。
(私にだって少しずつ、アルノルト殿下のことが分かってきたんだから)
そんなアルノルトは、ぱらぱらとページを捲りながら言う。
「船で運ばれた割には、さほど傷んでいないらしい」
「保管しやすさを追求するため、紙にもこだわりがあるんですって。こうして手に取るだけで、シグウェル国の本作りの技術を知ることが出来て、楽しいですね」
リーシェはそんな風に言ったあと、ふっと遠い目をした。
(……もっとも、あのカーティス殿下は、ご本人ではない偽物だけれど……)
思い浮かべるのは、つい一時間ほど前に、応接室で簡略的に行われた挨拶のことだ。
夜半の到着ということもあり、あの場では挨拶と手土産の受け取りだけに留まった。しかし、どれほど短時間であろうとも、推測を確かめるには十分である。
『お初にお目に掛かります。私はシグウェル国第一王子、カーティス・サミュエル・オファロンと申します』
少々気弱そうだがそつのない挨拶と、控えめな微笑み。
ちょっとした癖までもが、リーシェの知るカーティスの振る舞いそのものだった。
(顔はカーティス殿下そのものだし、声もそっくり。その上アルノルト殿下とカーティス殿下が初対面なのであれば、ガルクハイン側には発覚しようもないわね。――『本来なら』)
それでもリーシェは知っている。
肖像画には描かれていないものの、本物のカーティスの瞳の色は、オリーブのような淡い緑色なのだ。
(あの中身は間違いなく、ラウルだわ)
応接室でリーシェのことを見たラウルは、顔色ひとつ変えなかった。
だが、路地裏で剣を交えたハリエットの『護衛』が、アルノルトの婚約者だと気付かなかったはずもない。
(でも、どうしてラウルがカーティス殿下のふりを……? ハリエットさまはこのことをご存知なのかしら。もしかして、カーティス殿下の御身になにかあったとか……)
一方でリーシェは、アルノルトに尋ねてみた。
「アルノルト殿下。今日は街の、どんなところに行かれたのですか?」
気掛かりのひとつには、アルノルトがここに来た目的もあるのだ。
単純な好奇心を装ってみたものの、意図には気付かれているかもしれない。アルノルトは本を捲りながら、静かに言う。
「いくつかの両替所を回っていた」
「両替所……」
海を持つ国のほとんどは、他国との両替所を港町に持っている。
それは当然、船などで持ち込まれた他国の貨幣を自国の貨幣に両替するためだ。そしてもちろん、その逆の役割を果たすこともある。
「西の大陸との貿易船は、大半がこの街で両替を行うんだ。この街の両替所を調べれば、『西の大陸のどの国が、こちらの大陸の貨幣をどれだけ必要としたか』がよく分かる」
「つまり、どの国との国交を優先すべきかが一目瞭然だと」
「シグウェル国よりもファブラニアの方が、まだ若干は価値があるな」
わざと意地悪な言い方をしているが、アルノルトの話は興味深い。どうやら国政というものは、商人と似たような考えをすることもあるらしかった。
「こういうものは、報告の際に誤魔化されやすい。こうして時折顔を出し、直接報告を聞き出すことには、それなりの効果があるものだ」
(……とはいえ、目的の全部を教えて下さっているわけではなさそうね……)
さすがにそれくらいは分かるので、リーシェはむうっと考え込んだ。
(アルノルト殿下の意図が分からない以上、シグウェル国側の動きについては迂闊に共有できない。……それに、ラウルの目的が、ガルクハインに危害を加えることのはずはないし)
シグウェル国にとって、大国ガルクハインとの友好関係を結ぶ機会は願ってもないことだろう。王室に仕える身のラウルが、それを妨害するような動きを取るとは考えにくい。
(そうなると、ハリエットさま絡みの理由? あるいはカーティス殿下が体調不良で、純粋な影武者として動くために……)
ぐるぐると考えていると、アルノルトが不意に本から顔を上げ、じっとこちらを見つめてきた。
それに気が付いて、リーシェもぴたりと思考を止める。
「ど、どうかしましたか?」
「……」
青い瞳に射抜かれれば、考えを見透かされてしまいそうだ。
アルノルトは、ページの端を押さえていた手を離すと、リーシェの髪をするりと撫でる。
「眠る前なのに、髪を結っているんだな」
「これは……」
アルノルトの指摘通り、リーシェはいま、珊瑚色の髪をゆったりした三つ編みの形にしていた。
位置は後ろで結ぶのではなく、横に流すような髪型だ。もちろん、いつもは就寝前にわざわざ編んだりしていない。
五度目の狩人人生で、リーシェはこんな三つ編みをしていることが多かった。
目立つ髪色を隠すため、狩りの最中はフードを被っていたので、髪を結んでいた方が扱いやすかったのだ。
「少し、昔のことを思い出したので」
「へえ?」
まるで猫の尻尾をくすぐるかのように、三つ編みの先へと触れられる。
そうかと思えばアルノルトは、シフォンのリボンへと指を掛け、そのまましゅるりと引っ張ってきた。
「あ」
ふわりと解けかけた三つ編みを、リーシェは咄嗟に手で押さえる。
しかし、アルノルトがリーシェのその手を捕まえてしまったので、結局ほどけてしまうのだ。
もうすぐ寝るのだから問題ないが、アルノルトに髪を解かれたというのは、なんとなく気恥ずかしいような気がする。
「……悪戯っ子みたい……」
「は」
恥ずかしさを誤魔化すため、拗ねたふりをして見上げたリーシェに対し、アルノルトは楽しそうな笑みを浮かべた。
「そうかもな」
「!」
あんまりにもやさしい響きだったので、リーシェは心底びっくりする。
挙げ句の果て、手櫛で撫でるように髪を梳かれて、落ち着かない気持ちになった。
「あの、殿下、もう」
「なんだ」
「……っ、もう寝たいです……!」
リーシェはそう言って立ち上がると、アルノルトの手も掴んで引っ張る。
「で、殿下も寝ましょう! 明日は色々ありますし、ガルクハインからの移動疲れもありますし!」
「……」
何か言われるかとも思ったが、アルノルトは手元の本を閉じた。そうしてソファから立ったので、ほっとして寝台に向かう。
ふたつ並んだ寝台は、サイドテーブルを挟んで五十センチほど離れている状態だ。
夜の波音が怖いと言ったせいか、アルノルトは何も言わずに窓際を選んでくれて、その気遣いが嬉しかった。
「ランプを消すぞ」
「はい。おやすみなさい」
「……」
リーシェの挨拶を聞いたアルノルトは、あまり聞き慣れない単語を耳にしたかのように沈黙する。
けれどもそのあとに、柔らかな声音で返してくれた。
「おやすみ」
「……」
今夜の月明かりはとても明るい。
ランプの灯が消え、こうしてカーテンを閉ざしていても、薄闇の中でアルノルトの姿が分かる。
リーシェは彼の方に寝返りを打ち、その横顔へと話し掛けた。
「……ごめんなさい、殿下」
「なにがだ」
アルノルトは、顔の向きだけをこちらに向ける。
リーシェは少し眉を下げて、心からアルノルトに謝った。
「私の我が儘で、一緒に寝ていただいたことです」
「別に。……怯えているお前をひとりで寝かせる羽目になるよりは、よほどいい」
そんなことを言われて、どきりとする。
そしてアルノルトは、リーシェに尋ねて来た。




